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コミュ障という生き方

これはNetflixの番組「LIGHTHOUSE」の中の星野源の一言である。
ツイートでも書いているが、暗くてとてもいい。暗いというのは内省的であることと、オープンにしづらい複雑な感情が言語化されているということだ。コミュ障っぽい。

自分もコミュ障だと思う。コミュ障の定義とは?という話になりそうだが、おそらくそれは人によってさまざまな論がありそうだ。自分としては以下のようなものが思い浮かぶ。

・人と関わることがどちらかというと億劫
・他人と会話しているとき、会話以外の思いの方が大きすぎて面倒に感じる
・人に対して楽観的でない
・相手の中に映る自分の像が気になってしまう

などだろうか。

もちろんこれもグラデーションの話である。つまり程度問題だ。例えば上記の要素について、片方が「平気」で片方が「無理」のゲージがあったとすれば、比較的に「無理」の方に寄っているということだ。

コミュニケーションで難しいのは、こんなことだ。
例えば、知らない相手であれば、お互いが複雑な思いを抱きながら生きていてその屈託の中で揺れ動きながら他人と相対している、その一過性の中で多くのことが決まってしまうということ。
例えば、見知った相手であっても、相手に望むそのものを人は表現したりしない、必ず何か別のものを用いて間接的に要求しまうということ。

本当に欲しいものをそのまま相手に伝えられたら、ディスコミュニケーションはかなり減ると思う。何より、自分が本当に欲しいものを自分で気づいていないというケースの方が多いのだ。言ってみれば自分と相手のそれぞれにフィルターが掛かっているわけだから、人と通じ合う、あるいは通じ合った気になれるというのは確率的にとても貴重なのだ。

そのような曖昧な世界において「わかりやすい人」「感情をまっすぐに伝えてくる(ように感じられる)人」というのは相手に安心感を与える。安心感というのはコミュニケーションの土台になる要素なので、ここがクリアできると関係は良くなる、あるいは関係ができていく。「何を考えているのかわからない」という人はその点で他人にとって難しく、不安感を抱かせるので、コミュニケーションの難易度は上がっていく。

わかりにくさが「わからないからこそ気になる」というミステリアスな魅力に繋がるパターンもあるが、これは相手の心の穴にたまたまヒットしただけで、コミュニケーションというものが双方向でなおかつ健全なものとするならば、それはコミュニケーションではないとすら言える。

ただ、人は自分の持っている性質で生きざるを得ない。調整して上手くやることも可能だが、基本的に自分自身の性質で世の中に相対し、自分らしさの中で生きていく。それがベースなので、たとえ嫌われても、自分らしさの中には真実と誠実さがある。どんなふうに思われても、受け止めればいいだけの話だ。嘘とうわべだけよりずっといい。

今も世界中には無数の人がいるし、歴史上も数えきれない人生があった。その中にはあらゆるパターンの人生があり、コミュニケーションがあり、コミュ障もいたはずだ。誰しもが、そうした巨大なグラデーションの中のどこかには属する。私もそうだが、あなたの個性も必ず過去の誰かが持っていたような個性である。そして野蛮な昔においては、衣食住にも事欠いたり、死が今よりずっと身近にあったりして、壮絶な人生が日常だった時代もあった。もちろん、昔と比べても詮ない話ではあるのだが、自分の絶望すらある程度の快適さの上にあるのだから、思い詰めさえしなければ生きていける。そんなふうにして自らを慰めるのもたまにはいいのではないかと、そう思うのである。

やぶさかではありません!