夜を焼いた日 

夜を焼いた日 (告白編)

小学生の頃、蟻の巣に水やジュースを入れて蟻がおぼれ死ぬ様を見るのが好きだった。
水をたらして、慌てふためく蟻たちをみてかわいそう、かわいそう、と思いながらその異様な生の動きを凝視していた。

絵をかいていると、たまに自分のなかにこらえきれない強い怒りみたいな、同時に変な快感みたいな、なんとも形容しがたい衝動みたいなものを見つけてしまうときがある。
にこにこ楽しく、毎日暮らしていたら気づかないような、奥深くにあるそれは、一度口から飛び出ると、ひっこめられないような勢いがある感じがする。
それは多分、あの時蟻を執拗に死に追いやっていた自分に似ている何かで、でもきっとそこまで無邪気じゃない、何か。
大人になってあんまりそういうのは見ないようにしてきた気がするのは、それが自分にとっては好きじゃない部分で、はずかしくて、怖いから。

暴力的なもの、残忍なニュース等がとても苦手だ。
暴力的なものを被る側に感情移入して、自分が痛くなってしまうからなのだけど、とっても苦手なくせに、たまにそういうものを食い入るように見続けてしまうときがある。
わたしは、一体なにが見たいんだろう。
一体なにを知りたいんだろう。
そこになにがあるというのだろう。
その時のわたしは、被る側に感情移入をすると同時に、自分の中の先に書いた怒りみたいな激情、死への抑えきれない興味、支配欲、暴力性みたいなものに触れている感じがする。
苦手なのはむしろ、被る側と反対の立場に立ち、自分のなかのそういう異様に自分勝手で残忍ななにかに触れているからかもしれないな、と思ったのも、絵を描いているときだった

言葉にできないこの衝動のようなものを自分の中から外に出す事を、しないようにしつつもたまに出てしまい、それを気持ちいい、と感じる自分がいる。
死を目の前に悲しみ泣くと同時に、それだけじゃない何か興味のような、わくわくした感覚を本当は感じている。
遠くの土地で人が沢山死んでいることに、心を痛め涙を流し、おそらく月並み以上に悲しみ憂うと同時に、人がどんどん沢山死んでしまう漫画や映画をみて、気持ちいい、と思う自分がいる。
わたしは、結局世界という現象を観察しているようでいて、世界を鏡に、自分とはなんなのかということばかり考えているのだろう。(だから、どんなに悲しい出来事も「きっかけ」にして絵が描けちゃうのだろう)

どうしてこんなことを考えちゃったかというと、去年黒い絵をかいて、その後、明るい絵をかいて、今年になって明るい絵をかいて、また黒い絵をかいた。
どちらもが極端にふりきれていって、明るい絵の時は散歩でみた花とか木とか猫とか、命を、本当に愛おしいと思い、今見えてる世界が普通に生きているのが嬉しくて、愛おしくて、大事なのに、黒を使うと、それらは全部絵にのまれちゃって、助け出そうにも私の中のなにかがまたそれらをつぶしてしまう。
わたしは、ああ、つぶしちゃった、かわいそう、と思いながら、すごく気持ちいいな、そして美しいな、と感じてしまう。
でもやっぱり、と色を描いてみても、また黒を、執拗にこすりつけ、どうしようもない罪悪感にひたる。
そうして絵に振り回されて、絵と遊ぶというより、殴り合うみたいな事をしちゃった感じがする。

それは、夜を悲しみ、ただただ朝を待っていた弱い自分が、他の誰でもなくただ朝をみたい自分のために夜に火をつけて焼いたような感覚だった。

(結局いつだってわたしは、なにかのためにだとか、だれかのためにだとかいう建前をよそに、ただただ気持ちよくなるために絵を描いていて、絵を描くことの意味や理由をその時々でこしらえているようにみえて、気持ちよいか、美しいか、好きか、そういう判断で絵を描いているのだった)


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