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月の下で香るモクセイ 第3話

 十八時。夕暮れの街を歩いてアパートへと帰る。
 共用部分の廊下に入り、私たちの部屋のドアが開け放たれているのが見えた。中からは鈍い物音がする。
 嫌な予感がし、私は走って部屋に飛び込む。
「姉ちゃん……」
 ダイニングに倒れこんでいる日向。そして彼を痛めつける大柄の男……私の父親。
 どうやら夏美と双子は避難済みらしい。ということは、日向が父親の暴力を受け止めてくれているのだ。
 私の存在に気付いた父親は、こっちにものすごい勢いで近づいてくる。そして私の腹部を蹴り上げた。床に体が叩きつけられ、衝撃が走る。
「んぐっ……!」
「金を出せ!」
「姉ちゃん!」
 日向が涙声で叫んだ。
 父親の足は下腹部に直撃した。私はその痛みにうずくまる。これ以上日向を傷つけさせるわけにはいかない。囮のお金なら取られてもいい。
「それなら、棚の段ボール箱に……」
「もうそこらへんの金なら全部見つけたわ!」
 父親は明らかに酒気を帯びていた。
 畳の裏のお金は明け渡すわけにはいかない。あれは私たちの命だ。あれを取られてしまったら、いよいよどうにかなってしまいそう。
 私は考える。銀行までおろしに行く猶予はない。どこかに、どこかにお金があるはずだ。
 そうだ、ポケットに入れている緊急用の千円札。 
 私はそれを父親に渡し、そして土下座をした。こうでもしないと、結局少ないといって殴られるのだ。
「ごめんなさい。本当にこれしかないんです……ごめんなさい」
 頭を地面にこすりつける。だがその頭は踏まれ、グリグリと痛めつけられる。痛いが、私が耐えないわけにはいかない。日向にとって、私は最後の希望なのだ。
 涙と洟で顔はぐしゃぐしゃになっていることだろう。私は必死に顔をゆがめて耐えた。
 父親の足は私の頭を離れ、肩にめり込む。そして何回も、何回も蹴られた後、舌打ちをして父親は帰っていった。
 なんとか自分が生きていることを確認し、私はダイニングに行った。
「お姉ちゃん、電話に出なかったから心配したよ!」
 双子を抱きかかえて帰ってきた夏美にそう怒られる。仕事中の非通知着信は、夏美が公衆電話から掛けてくれたものだったらしい。私は彼女のやさしさを無下にしたことを謝罪し、双子の世話を代わる。
 ダイニングで日向のケガの手当をしていると、唐突に私をじっと見つめてきた。
「何?」
「姉ちゃん、ごめんなさい」
「え?」
「本当に、本当にごめんなさい」
 何についての謝罪なのだろう。父親に暴力を振るわれまくったことについては、日向の身代わりになれるのなら本望だし、特に彼が謝る必要は感じなかった。
「別に謝らなくてもいいのに……」
「でも……」
 日向は何か言いたげだったが、気にしてほしくない。私はさっさとご飯の支度をすることにした。
 日向と夏美にご飯を食べさせながら、寝室で双子をあやす。
 その時、ズレた畳が視界に入り込んだ。
 血の気が引いていく感覚がした。
 かじりつくようにそこに飛び、畳をひっくり返す。そこにはもう、何もなかった。希望も、汗も、罪悪感も。何もかもが、なかった。
 私は両腕に抱えた双子だけに聞こえるようにさめざめと泣いた。
 日々の育児と仕事で太くなったこの両腕。そして震えるこの体。これらで稼いできたもの、すべてがそこから消えていた。そして日向の謝罪の意味も分かった。私はもうこれ以上何を頑張ればいいのかわからなくなった。
 確かに、綺麗なお金ではなかった。けれど、子供たちのためと思い、自分のことはすべて犠牲にしてきた。それが、一瞬にして目の前から消え去った。
 当然ながら、段ボール箱の底の五万円も消えていた。
 なんのために汗水たらして働き、体を捧げてきたのだろう。
 子供たちを幸せにするために……。
 ん?
 幸せ? 
 そもそも、彼らがいなければ私は幸せだったのでは? 
 やっぱり私は、姉失格だ。
 私は家を飛び出した。そして、近所のATM口座から十二万円を一気におろす。
 それを握りしめて、私はいつものスーパーへと向かった。
 この時間はいろいろなものが安くなっている。が、そんなことはもう気にしなくていいのだ。
 私は生鮮食品コーナーに行き、売れ残りのパック寿司を二つ買った。こんなものを食べるのはいつぶりなのだろうか。そして飲料品コーナーに行き、瓶に入ったオレンジジュースを買う。なぜかジュースは瓶に入っているものの方がおいしく感じる。
 そして四階にあるホームセンターの包丁売り場を眺める。適当に切れ味のよさそうなものを三丁買った。
「わあ、どうしたのそれ!」
 買ってきたパック寿司を食卓代わりの段ボール箱に並べていると、夏美が興味津々に話しかけてきた。その瞳は今までに見たことがないほど輝いている。
「お姉ちゃんお給料上がったから。今日くらいはいいもの食べない?」
 私は優しい嘘をつくことにした。
 部屋の隅でうずくまっている日向を見て、私は声をかける。まだ引きずっているようだ。
「日向も。お給料上がったんだから、もうさっきのお金の心配はしないでね」
「本当に?」
「うん。ほら、食べよう」
 日向と夏美の輝く瞳と、はじけるような笑顔を見て、私の心がぎゅっと締め付けられた。本当に送りたかったのは、こういう日常だったはずなのに。何が何だかわかっていない様子の双子を抱きしめて、私はいつまでもこの光景を見ていたいと思った。
 でも、今日が最初で最後なのだ。
 毎日こんな顔ができる生活をさせてやりたかった。毎日のように、ささやかな幸せがあればよかったけれど、毎日のように絶望があった。毎日、お腹いっぱいになってみたかった。家の中では、暑い思いも寒い思いもしたくなかった。高校を卒業したかった。
 優しい両親に恵まれたかった。
 思い返せば思い返すほどに、やりたかったことや叶えたかった思いはいくらでも浮かんでくる。
 滴り落ちる涙が浴槽に沈んでいく。最近、泣いてばっかりかもしれない。私の涙を知っているのは、私と、双子だけだった。さすがに日向と夏美の前では泣けなかった。まだ何も知らない、もう何も知ることのない双子は、私がいくら涙を流そうとも意味不明な喃語を口から発するだけ。そんな彼らの態度が、ただただありがたかった。
 そういえば、初めてうちの浴槽に湯を張ったかもしれない。三点ユニットバスはとても狭いのと、水道代の無駄なのでいつもシャワーだけだった。いつしか入浴の気持ちよさも忘れていた気がする。体が包まれていく安心感。最期に味わうことができてよかった。
 風呂から出ると、開け放たれた窓から蒸し暑い風が忍び込んでくる。
 ここら辺は田舎なので、星がよく見えた。窓から顔を出して空を見上げると、金平糖のように可愛らしくきらめく星々。うちの子供たちと同じくらい可愛い。
 そんな彼らを、今から私が……。
 子供たちを巻き込んで心中するだなんて、あまりにも、あまりにも残虐だ。だけども、もう私は働く気力をなくした。私が働かなければ、彼らは生きていけない。貯金だってもう残りわずかである。結果的に彼らはもっと苦しむことになる。何かが間違っている気はするが、私が思いつく正解はそれだけだった。
 子供たちは眠りについたようだ。私は台所に隠れて、スマホで「刺殺 急所」と調べる。一番上に「殺人マニュアル」というサイトが出てきた。物騒なものがあるものだ。それを開く。頸動脈は意識を失うまでに意外と時間がかかる。手っ取り早いのは脳か下行大動脈のようだ。
 脳を刺すには耳の後ろから刃を入れるらしい。これは難易度が高そうだ。やはり下行大動脈、つまり腹を刺す方がいいだろう。
 「殺人マニュアル」によると、躊躇なしにグッサリと行くことが成功のコツらしい。だが私の腕はさっきからこれまでにないほどに震えている。まるで私自身が私を止めようとしているみたいに。だって、最終的には私の手で私を殺すのだから。
 包丁を三丁おろし、寝室へと入る。
 スヤスヤと、気持ちよさそうに眠る子供たち。
 私は覚悟を決め、日向の腹にまっすぐ包丁を刺した。そしてそのまま奥まで刺さるように力をこめる。彼は言葉にならないうめき声をあげたのち、すぐに息絶えた。
 確かにそこは血まみれになっているのに、日向はただ眠っているようにも見える。私は妙に冷静だった。続いて、夏美の腹にも包丁を突き刺した。彼女もまた、か細い断末魔を上げた後に絶命する。
 血まみれになった寝室。そこに私の涙も降り注いだ。悲しいからか、怖いからかはわからない。生理的な涙はとめどなく溢れてくる。私はこらえきれなくなって、その場に嘔吐した。さらに汚くなった寝室の床。私は隅で寝ている双子に目をやる。そして二丁目の包丁を取り出した。
 私は聖也に刃を突き立てた。腹にそれを刺し込むと、その小さな体は鮮血と共に生命も流した。あと一人、聖奈のことも刺そうとすると、本能的な危険を感じたのか、目を覚まして泣き出した。普段の夜泣きとは比にならないくらいに激しく泣く。命乞いをしているようにも見えた。だが、私は彼女からも容赦なく生命を奪った。
 肉塊が四つ。さっきまで、私のかわいい、かわいい弟や妹であった子供たち。今は己の血に染まって、グロテスクな死体と化している。ポッカキットに載せられていそうな光景を、まさか私が作り出すことになるとは。
 殺してから、その罪の重さが私の背中にのしかかる。私はその場にへなへなと倒れ込んだ。本当に殺したんだという現実が、一気にのしかかってくる。まさしく私の罪であることには変わりないのに、どこかに理由を求めたくなる。
 さっさと私も後を追わなくては。そう思って新しい包丁を取り出し、腹に突き刺そうとする。が、包丁を持つ手が震えて、なかなか突き刺せない。先ほどから止まらない涙は、まるで決壊したダムの水のように流れた。これは無理だ。怖い。怖すぎる。私は包丁を投げ飛ばす。
 ついに私は、ただの殺人犯になってしまった。
 私はこんな恐怖を、痛みを四人に味わわせたのだ、
 私は返り血で汚れたジャージを脱ぎ捨て、新しいものに着替える。ポケットにあまった一万円札を突っ込む。そして外に飛び出した。こうなったら大人しく自首するしかない。私は人を殺しましたと白状するしかない。
 全身の毛穴から、変な汗がぶわっと出てくる。そして、やけに寒い。
 駅まで全力で走った。駅前の交番で自首しよう。駅までの道がやけに長い。もともと三十分はかかるけれども、永遠に道が続いているのではと錯覚しそうになる。 
 泥水でぐちょぐちょになってしまった靴を見ながら、私は息を切らす。
 駅前に着いた。目と鼻の先に交番がある。早く行かなくてはと歩くものの、たまらずまた嘔吐してしまう。周りに人気がないのでよかったものの、気分が悪くなって地面に座り込む。そんな私を導くかのように、頬を冷たい風が撫でた。
 風の吹いていった東の方を見ると、ビル群が聳え立っている。夜に揺蕩う、美しい都会の輝き。電車に乗って、一時間足らずで行けるその都。私はこの目で、新宿や丸の内といった東京の大都会を見たことがなかった。中学生の頃に、夜の渋谷で遊んだ友達が「歩いているだけで胸がときめく」と言っていたのを急に思い出す。
 ちょっとだけ。本当にちょっとだけだから。
 私はフードを目深にかぶり、駅で切符を買う。一応成人しているとはいえ、見た目が幼いので補導される可能性がある。警察に話しかけられでもしたら、それはもう大変なことになる。
 この駅は小さく、小田急線一本しか通っていない。一番遠くまで行ける新宿までの切符を買った。電車に乗ったことなんて、人生で数えるほどしかない。私は少しだけ高鳴る胸に罪悪感を覚えながらも、電車に乗り込んだ。
 十一時をとうに過ぎているので、乗客は疎らだ。彼らはほとんどみんな、席に座って気持ちよさそうに眠っている。だが私は、窓の外の景色を夢中で見つめていた。だんだんと夜景が鮮やかになっていって、たくさんの人々の生活が見えてくる。
 私は席から立ち、ドアの近くに立って、車窓から外を眺めた。流れていく景色の、一瞬一瞬を瞼に焼き付ける。溢れる笑みを止めることはできない。そんな私を、近くの起きていたらしいサラリーマンが怪訝そうに見つめていた。
 四十五分ほど電車に揺られ、新宿駅に着く。夜中とはいえどかなりの人がいた。
 まず駅から出るのにずいぶんと苦戦する。まるでダンジョンのように入り組んだ駅。構内図を見ても、何が何だかさっぱりだ。一日の利用客が世界一の駅はやっぱり違う。血管のような数々の路線が、心臓のようなこの駅に集結させられる。
 そしてここに集まった人々はまた、それぞれの行くべき場所へと向かっていく。
 たくさんの人々とすれ違う。彼らに違う人生があり、帰る場所があるのだ。
 私にはもう、そんな場所はない。ただの殺人犯となった私を受け止めてくれる人など、どこにもいない。
 なんとか外に出ると、そこには光が溢れていた。
 恐る恐る足を踏み出す。こわばった表情の私など気にも留めず、人の波は流れていく。それに攫われるようにして足を速めると、まるで自分が映画の主役になったかのような気分になる。
 周りを歩く人々は、かっちりとスーツを着こなした男女や、疲れ切った顔をしている男子大学生、単語帳を熱心に眺めるジャンパースカートの女子高生、いかにもお金持ちな中年の男性に腕を絡める若くて綺麗な女性など様々だ。
 一人で新宿を練り歩く、一見不審者のような私を誰も気にも留めない。誰も私のことを殺人犯だとは疑っていない。なんとも気楽である。私は安心して最後の喜びを味わうことができそうだ。
 新宿駅に交番があったから、自首するとしたらそこだろうか。いや、でもこのままフラフラと歩いて行った先のどこかで自首するものありかもしれない。
 視界の輪郭がぼやける。私はまるで踊るように夜の都会を歩き回った。

 どれだけ歩いただろうか。そろそろ疲れてきた。私はおぼつかない足取りで歩く。眠気も当然ながら襲ってきた。近くに座れる場所でも見つけて眠ろう。
 そう思った矢先、雨が降り始めた。
 私はあわてて雑居ビルと雑居ビルの間に逃げ込む。屋根があるわけではないので、近くに捨ててあったビニールシートを被ることにした。冷たい感触。眠れるかはわからないし、誰かに見つかるかもしれない。私は怯えながらも、ビニールシートに守ってもらいながら、固い地面に腰を落ち着けた。
 雨のせいで蒸し蒸しとしているのに、寒い。ビニールシートに強く抱きしめてもらう。そうすれば少しは暖かくなる。真夏にこんなに寒い思いをするとは思わなかった。
 だがスマホを見ても、今の気温は二十七度。熱帯夜である。やはり私が寒気を感じているだけなのだろうか。ガチガチと震える歯を食いしばる。もしこの雑居ビルの入居人が反社とかだったらどうしようか。自首する前に私が殺されたりマワされたりするのだろうか。いや、仮にもしそうなっても、今の私にとっては自業自得だ。仕方がない。
 スマホで地図アプリを開くと、私は今どうやら渋谷の恵比寿にいるらしい。日付はとうに変わっている。もうそんなに歩いていたのか。私はため息を吐きながら、スマホの電源を落とした。誰かから連絡なんてかかってきたらたまったものじゃない。
 ビニールシートから外をのぞく。雑居ビルの一階は居酒屋のようで、中からはにぎやかな声が聞こえてくる。楽しそうではあるが、まるで楽しむことを強制されているかのような声が聞こえてくる。そういえば、色井急便の飲み会もそういったノリで行われていた。さすがに未成年なので酒を飲まされることはなかったものの、私を含む若手は必然的にお酌をさせられた。先輩のグラスが空になる前に注がなくてはならない。だから私は、仕事は好きでも飲み会は大嫌いだった。何しろ家事の時間が削られる。
 居酒屋の中にいるのであろう若手に静かなエールを送っていると、足音が近づいてきた。
 コツ、コツというヒールの音。女性だろうか。私はビニールシートを深くかぶる。彼女は路地裏の前で一瞬立ち止まると、なんとこっちに近づいてきた。コツ、コツという音がだんだんと大きくなっていく。頼むから通り過ぎてくれ。そんな思いもむなしく、私の目の前で音は止まった。
 バサッとビニールシートがまくられる。
 怖そうな人だったらどうしよう。私は反射的に瞑った目を、ゆっくりと開いた。
「大丈夫? こんな時間にどうしたの?」
 アイラインでぐるりと囲まれた瞳がこちらを見つめている。
 綺麗な女性だ。暗くても目鼻立ちがはっきりしていることがわかる。
「えっと……」
 まさか「人を殺してこれから自首しようと思ってます」とは言えまい。
 言い訳を必死に考えていると、急に彼女は笑う。その美しい顔を、くしゃりとゆがめて。まるで丸められた千代紙のように豪快に、可憐に笑った。不覚にもかわいいと思ってしまった。
「こんなところにいたら怖い人に何されるかわからないよ? 恵比寿は治安いいとは言えないし……」
 彼女には私がどう映っているのだろう。一応社会人と言ったらびっくりするだろうか。中学生くらいの家出少女だと思われているに違いない。なだめるような口調がそれを物語っている。
「とりあえず、うち来なよ」
 そう言って彼女は私の腕を引いて立ち上がらせた。
「え? ちょっと……」
「大丈夫。取って食ったりはしない」
 半ば強引に手を引かれ、私たちは夜の恵比寿を歩く。
 とっくに雨は上がっていて、ただひたすらに暗い、大都会の夜空が私たちを見守っていた。

 JR山手線恵比寿駅から徒歩五分の所にあるマンションに彼女は住んでいた。
 しっかりと肩の上で切りそろえられた黒髪のショートボブに、黒のオールインワンの服に、黒のハイヒール。全身ブラックコーデの彼女だが、その肌は透き通るように白い。
 彼女はカードキーでスマートに解錠する。私の住んでいたアパートの倍は広いリビングが現れた。
「さ、どうぞ」
「お邪魔します……」
 中に入ると、ひんやりとした空気が肌を包んだ。クーラーが効いているようだ。
 リビングでソファをすすめられ、腰かける。グレー基調のスタイリッシュなソファ。周りを見渡しても、いかにも高そうな家具しかない。そもそもこの部屋の家賃自体がとんでもなく高いと思う。
「何食べたい? お腹すいてるでしょ?」
「なんでもいいです」
「じゃあ残り物で悪いけどちゃちゃっとチャーハン作るわ」
 そう言って彼女は冷蔵庫から食材を取り出す。
 私はスマホを開き、連絡帳に登録してある連絡先を片っ端から着信拒否した。誰かに居場所がばれたら困る。職場のグループLINEから抜けて、喜多川課長や同僚たちのLINEもブロックする。雄一のLINEアカウントを見て、少しだけ指が迷った。だが、彼とも縁を切らなくてはいけない。私は思い切って彼をブロックした。
 薄くて大きなテレビや、床を自走するルンバ。フレグランスの、華やかな花の香。私の生活レベルからは遠く離れていたところに、今私が存在しているのが何かおかしい。
 ソファのそばに置かれたラックの中には難しそうな本がたくさんある。
 ラインナップは、夏目漱石や芥川龍之介などの文豪の作品や、最近話題となっている作家たちの小説などと様々だ。
 私は読書が好きだった。騒がしい家の中にいたので、どっぷりと世界観に入り込める読書という行為はこの上ない至福であった。だけども、当然本なんて買ってもらえなかったし、働き始めてからも買うお金はなかった。小学校、中学校時代は図書室の住人と呼ばれ、最終下校時刻ぎりぎりまで読書に耽る日々。その理由は、もちろん読書の楽しみもあったが、一番は家に帰りたくなかったからである。部活や委員会に入ることは許されなかったので、読書は唯一の免罪符だった。
 アパートに越してきてから、本は一冊も読んでいない。実家にいた頃より、家事育児の負担が増えてしまったからだ。せいぜい食料品の原材料名を眺めることで我慢していた。
 だが私は今、本を目の前にしている。
 飢え死にしそうな子供のように、私はそれを見つめた。
 私は恍惚として、涎が出そうになるのを抑えながら手を伸ばしそうになる。
「どうした?」
 彼女の声で我に返った。
 人様の家に上がり込んで、さらに本棚まで貪ろうとした自分の行動を恥じる。
「あ、すみません!」
 私は慌てて彼女に頭を下げる。だが彼女は首を振った。
「よかったら読んでもいいよ」
「ありがとうございます……」
 私はラックに向き直る。そうは言ってもどの本にしようか。
「おすすめは太宰治の『ヴィヨンの妻』かな」
 彼女が呟いた。私はそれを手に取り、『ヴィヨンの妻』のページを開いた。
 視界いっぱいに広がる活字に、思わずにやける。こんな光景、いつぶりだろうか。一文字も漏らさずに読みたい。私は紙面に視線を焼き付けた。
 いかにも太宰治らしい作品だ。きっと彼は、こういった芯のあって支えてくれる女性を求めていたのだろう。夫のために働く妻、さっちゃんの健気な愛が美しく描写されていて、私は惚れ惚れとして読む。
『人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ』
 私は本を握る手を強めた。私のことを言われている気がした。けれど、その生きる権利すら私は奪ったのだ。やはりこの言葉は私にふさわしくない。
 本から視線を離すと、机を挟んだ向かいのソファに彼女が座っていた。
「めっちゃ真剣に読むじゃん。止めるのも悪いなって」
 面白そうに彼女が笑うので、なんとなく恥ずかしくなってうつむく。そこには白い皿に盛られたチャーハンがあった。
「冷めちゃったから温めるね」
「あ、すみません……」
 そういえばどのくらい読み耽っていたのだろうか。本を読んだ後の、頭が熱を持ったかのとうにぼうっとする感覚が好きだ。本をラックに戻す。私は頬杖を突き、深く息を吐いた。
 レンジを操作する彼女の後姿を眺める。ショートボブの黒髪は艶々と輝いていて、一本一本しっかりまとまっているのが遠目からでもわかる。頭が動いても乱れることはない。ぱさぱさの私の髪をいじりながら、彼女に羨望のまなざしを送る。
 見惚れていると、彼女は急にこちらを向いた。
 視線がぶつかる。
「なんかめっちゃ見られてるの感じた」
「なんでわかったんですか」
「熱意を持った視線を感じたから」
「熱意……」
 やはり見惚れていたのはお見通しだったようだ。
「で、なんで見てたの?」
「いや、髪綺麗だなーって」
 彼女は微笑んで首をかしげて見せる。毛先まで神経が通っているかのように、まとまって髪が揺れた。
「一応、美容師やってる」
「黒髪の美容師なんて存在したんですね……」
 美容師というと、一般的に派手髪ばかりのイメージなので驚いた。
「まあ、これも意外と個性的でしょ?」
 そういって彼女は両腕を広げる。全身黒で固められたコーデは確かに個性的だ。それでいて色白なのだから、はっきりと綺麗なコントラストを演出している。雪原のような顔に浮かぶ鮮やかな花弁のようなくちびるは、唯一の有彩色。彼女で世界をそのまま表現できそうなほどに美しい。
「綺麗です」
 私は何も考えずにそう口にしていた。言った直後に恥ずかしくなってうつむくが、彼女はにっこりとほほ笑んで「ありがと」とつぶやく。その時、レンジのチンという音が鳴ったので、一瞬二人の間に流れた気まずさが打ち消された。
「さ、温まったよ。食べよ」
 お皿を二つ持って彼女は近づいてきた。
 素朴な味で、特別おいしいというわけではない、有り合わせのチャーハン。だがただ死なないことを目的とした食事しかしてこなかった私にとって、人の手で作られた愛情ある食事をしたことがなかった私にとって、それはこれまでの人生で一番おいしい食事だった。
 気づけば涙が溢れだしてきた。安心感と罪悪感が混ざり合って、言い表せない感情になる。
 口の中で飽和していく味を舌に焼き付けていると、彼女は向かいのソファから移動して、隣に座ってきた。
「そんなにおいしい?」
 おちょくるように微笑み、私の頭をポンポンと叩いた。まるで私が子供たちにしていたように。彼らの顔を思い出し、私の涙はとめどなく頬を伝う。
「宮崎万里(みやざきまり)」
「え?」
 唐突に彼女は聞きなれない名前を呟いた。
「私の名前。宮崎県の宮崎に、億千万の万に、里芋の里。万里でいいよ」
 彼女の本名が判明してほっとする。だがこの流れは、私も名乗らなくてはならないだろか。
「君は?」
「スミとでも呼んでください」
 一応犯罪者の身なのだ。本名である阪東花澄を教えるのは憚られる。というわけで、私は過去に友達に呼ばれていたあだ名を教えた。屈託のない、あか抜けないけれど愛嬌のある笑顔で「スミちゃん」と呼んでくれた彼女のことをふと思い出す。今は国立大学でまじめに勉強しているらしい。
 同級生たちとは違った進路を歩むしかなかった私は、輝いている彼らの話を聞くたびにむなしくなる。家があんな感じだったので、学校は私の唯一の癒しだった。
「わかった、スミちゃんね」
 綺麗な化粧が施されているという点では違うが、そのとびきりの愛嬌は彼女を彷彿とさせた。万里さんの輪郭に彼女の輪郭が重なる。
 黙って万里さんは水を飲む。特に話すことはないようだ。
「名前以外なにも聞かないんですか?」
「逆に聞かれたいの? どうせ中学生かなんかでしょうに」
 万里さんがあきれてため息を吐いた。やはり私の予想は当たっていたようである。
「一応成人しています……」
「え、マジ?!」
 軽くソファから飛び上がる万里さん。そんなに意外だっただろうか。
「じゃあ私と同年代とか?」
「十九です」
「なーんだ」
 そもそも万里さんはいくつなのだろう。顔は二十五歳前後に見えるが、その貫禄と色気は三十代と言われても驚かない。大人の余裕にあふれている。強い女、とはこういった女性のことを指すのだろうか。
「でもじゃあなんでこんなところに? ネカフェとか行けばいいのに……」
 私は何も言えずに黙り込む。家もなければ、金もないのだ。
「ま、いろいろあるよね。学生? 社会人?」
「社会人……でした。運送会社でドライバーやってたけど、飛んじゃいました」
「そっか。うちの子も飛んじゃったなあ」
「うちの子?」
「美容室経営してるの。店長です」
 照れたように万里さんは言った。もう独立しているということは、やっぱり三十は超えているのだろうか。
「やっぱり、アシスタントは辛いんだよね。私も辛かった。彼が続けられるような労働環境を提供できなかったことは、私の後悔。でも、せめて飛ぶ前に何が辛かったのか話してほしかったなあ……」
 万里さんは静かに語った。美しいEラインが描かれている横顔が、とても寂しく見える。その瞳は、今にも潤みそうだった。
 もしかして、私も喜多川課長や雄一に同じような顔をさせてしまうのだろうか。自分の過ちの大きさを実感し、寒気を感じた。思わず自分の体を自分の腕で抱きしめる。自分は悪くないと、自分に言い聞かせる。
 本当は極悪人なのに。
「ああ、ごめん。この話嫌だった?」
 急に万里さんはこちらに向き直った。正面から見ると、先ほどまでの寂しい表情は消えている。ただ自信にあふれた瞳が、私の震える瞳を突き刺していた。
「いえ、全然……」
「てか君、仕事ないんでしょ?」
「はい」
「じゃあ私の店、手伝ってくれる? ここに泊めてあげるし」
「本当ですか?!」
 思わぬ誘いに、私は思わず前のめりになって万里さんの肩をつかむ。私の必死な形相が面白かったのか、彼女は思いっきり噴きだした。つられて私も噴きだす。そしてそのままソファに深く座り込んで、大笑いした。
「掃除とかはこれまでアシスタントの子にやってもらっていたんだけど、アシスタントなんだから練習もしたいだろうしね、ちょうどよかった。あ、お風呂沸いてるよ。入る?」
「いいんですか?」
「もちろん。ここは本当の家だと思って」
 私は頬を緩ませながら、万里さんと廊下を歩く。床は綺麗に磨かれていて、埃ひとつない。今履いているスリッパも、もこもこしているファー仕様。いかにも高そうだ。
 マンションにしては長めの廊下を歩き、万里さんがドアを開ける。洗面所とガラス張りになっているバスルームが現れた。部屋と同じ白基調となっていて、バスタブは丸くて広い。モニターまでついている。
 万里さんは棚からTシャツとスウェットを取り出し、私に手渡した。
「私のものだから多分ちょっと大きいと思うけど、よかったら使って。じゃ、ごゆっくり」
 そういって万里さんは扉の向こうに消えてしまった。
 他人の家で、いくら風呂とはいえ裸になるのは何となく落ち着かない。やっぱり色気のない体を鏡で一瞥し、小さくため息を吐いた。久しぶりに見た私の顔は、一気に老け込んでいる。だが幼い。自分にあきれながら、万里さんの高そうなシャンプーを使って髪を洗う。
 金木犀の香り、と書いてあるが、そもそも金木犀の香りを嗅いだことがないので本当にその香りなのかはわからない。金木犀がどこに咲いているのかもわからない。ただ、このシャンプーの中に咲いている金木犀の香りは、秋を彷彿とさせる、華やかで切ない香りではある。もしかしたら、今まで秋に嗅いでいたのは金木犀の香りだったのかもしれない。次の秋には、金木犀の香りをしっかり味わおう。
 アパートのまるで洗濯機みたいに狭い浴槽とは違う、円形の深くて綺麗なバスタブにつかる。真っ白な大理石調の素材が使われていて、お湯はエメラルドグリーンに透き通って見えた。
 贅沢に張られたお湯に体を包まれながら、私は染みひとつない天井を見つめる。
 家に肉塊を四つも置いてきてしまった。私たち以外の入居者はいないとはいえ、いつかは絶対に見つかるだろう。多分、親が家に来た時に。
 あいつらは死体となった我が子たちを見て、どんな感情を抱くのだろうか。悲しむのだろうか、狂喜乱舞するのだろうか。外面はきっと悲しんで、「我が子を殺したのは誰ですか、許しません」などと報道陣に対してコメントするのだろう。でも、やはり血を分けた子供たちへの愛情はあったのだろうか。
 思えば、私たちの名前は、俗に言うDQNネームではない。花澄も、日向も、夏美も、聖也も、聖奈も普通に読めるし、なんならいろいろな人に「素敵な名前ね」とよく言ってもらっていた。これも外面を気にしていたのかもしれないが、もしかしたら私たちも、物心つかない頃はあいつらの一番の宝物でいることができていたたのかもしれない。聖也と聖奈だって、一応健診には母親が連れて行っていた。それも外面を気にしてのことだったら、本当に悲しいが。
 十月十日、母親はどんな気持ちで私たちをその腹に宿していたのだろうか。
 私は自分の手を見つめた。この肉も血も、すべてはあいつらから授けられたもの。そしてその手で子供たちを殺した。
 そうだ、共犯だ。私は悪くない。
 私はどんどん精神がおかしくなっていくのを感じた。自分の他責思考の強さに、腸が煮えくり返りそうになる。
 気づけば、頭が重い。見つめていたその手はふやけている。さっさと出なくては。
「おかえり、スミちゃん」
 リビングで本を読んでいた万里さんに会釈して、私はソファに腰かけた。
「髪、乾かす?」
「乾かし方わかんないです。てか、ドライヤー使ったことないです」
「マジ……?」
「マジです」
 私はこの人生においてドライヤーというものを使ったことがない。だからいつもバサバサの髪の毛をまとめていた。サラサラのロングヘアに憧れたこともあるのだが、私には遠い代物であった。
「わかった。ちょっと待ってて」
 洗面所にすっ飛んで、すぐに帰ってきた万里さんの手には、ゴツめの黒いドライヤーが握られていた。
「やけに本格的ですね」
「まあ、本職だし。ここ座って」
 そういえば万里さんは美容師だった。床に座ると、なめらかな手つきで髪がすくわれ、風を当てられる。頭皮を撫でられて、少しくすぐったい。万里さんがどんな表情をしているのか気になったが、振り向くと邪魔してしまうだろう。私は前を向いたまま、そっと目をつむって心地よい風を味わった。
「ほら、できたよ」
 そういって万里さんは手鏡を私に向ける。
 髪の毛はかなり痛んでいるものの、しっかりまとまっていて、少しツヤも出ている。あんなに硬くてゴワゴワとしていた髪だったのに。
「すごい……」
 プロの神業に感嘆し、私は今度こそ振り返って万里さんの顔を見た。誇らしげなその笑顔に、私は微笑み返す。
「でしょ? 今日はもう寝よっか。疲れたでしょう?」
 私は万里さんと寝室に向かった。1LDKの間取りで、寝室は少しだけ狭い。だが整理整頓されたその部屋は、リビングと同じ高級感漂う雰囲気となっている。部屋の真ん中には真っ白のベッドが置かれ、部屋の隅には白い机と、その上にマックのPC。ここにも小さな本棚がある。リビングとはまた違った、甘い花の香りが漂う。
「チューベローズ。いい匂いでしょ」
「チューベローズ……?」
「そう。花の名前」
 かわいい名前の花があるものだ。ベッドの中に入るように言われ、布団をかけられる。何もかもが真っ白だ。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 万里さんはドアの向こうに消えていった。しばらくして、シャワーの音が聞こえてくる。お風呂に入ったのだろう。
 でも、私がここで眠ってしまったら万里さんはどうするのだろうか。
 けれども、チューベローズの香りに酔わされて、だんだんと頭が回らなくなる。ぼんやりとしてきた頭では、もう何も考えられない。
 うとうとと心地よい眠りに、ゆっくりと落ちていく。花畑のようなベッドの上で、私は溺れて意識を失った。

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