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破調と定型律の間(はざま)

破調の短歌って何?

 短歌の世界では、「破調はちょう」と呼ばれるものがある。要するに定型である「五七五七七」のリズムが破られた調子のものを指して言うらしいが、僕にはその定義が今一つ、よくわからない。前提として、その作品が「短歌」を創作する意図をもって作られたものであるのは当たり前ではある。けれど、「破調」について考えるとき、このことが実はとても大切なことなのに、ともすると忘れてしまうので注意が必要だ。どうも、この辺りが曖昧になり、僕の思考が途中で停止してしまうように思われてならない。

和歌の世界では

 古きよき和歌の世界であったならば、定型が破れた時点で、それは最早問題外の作品となるであろう。つまり、破れた、破られた時点で短歌ではなくなるのだ。それなら納得がいく。まあ、そうは言っても単純な一字あまり、一字足らずなどであれば、歌の調子を崩さない限り、仲間に入れてあげましょうという例外。「ゆるすぎず厳しすぎず」で、このくらいなら、僕も、まだ許されると思う。しかし、読んでいて「初句から結句までの五句の、それぞれの間の境目」や「上下の句の別」が見えなくなるようなものを敢えて「短歌」と呼ぶことに、何か理由や意義があるのだろうか。字数の三十一文字を遥かに越えるような極端な字余りを「短歌」と呼ぶことに、何か利点があるのだろうか。いや、何もありはしないだろう。こうして「短歌として作り出されたのに、定型律を破ってしまった歌」は、僕の頭の中で行き場を失ってしまうことになるのだ。

作品そのもより作者の意図?

 それなら逆に、例えば「やりたい人は、意図的に破調で短歌を詠んでよい」という設定にしてみて、そこで起こる矛盾について考察してみるのはどうだろう。これは意外に簡単そうだ。歌壇や歌会などが破調の歌で溢れてしまったらどうだろう。それは最早、定型律を謳う和歌としての短歌の枠組みが壊れてしまっていることになる。全くもってナンセンスな話だ。おそらく、たとえ上記のように規定を緩めて(壊して)しまったとしても、実際には、みんな定型を守るだろうと僕は思う。大方の人が定型を守って短歌の創作に取り組んでいる現実を見ても、そのように思う。これは、短歌を詠むという行為の中で、「破る」ということに対して、マイナスのイメージを持っている人が多いからではないか。あるいは、「破る」ことの意義や必要性を全く、ほとんど感じていないからではないだろうか。

 このように、多くの歌人たちの中で「現実的な問題として、意図的に定型を破ることは、最早、破調ではなくただのルール違反である」という意識が定着しているという結論が導き出される。ただし、それが「意図的」なのか「偶然」なのかを絶対的な立場から即座に判断できる基準が果たして存在するのだろうか。いや、多分ないだろうし、厳密には不可能だと思われる。

 こうして、「意図的に破調の歌として作り出されたのか、偶然定型律を破ってしまった歌なのか」の判断基準が問題となり、僕の思考は停止する。いわゆる思考実験の失敗である。

受け皿としての枠組みか?

 ならば、このアウトサイダー的(ともすると破壊行為的)な性質を持つ作品の受け皿として用意されたレッテルが「破調」という言葉なのだろうか。短歌ではないものに、短歌の概念の枠組みから与えられた、ただの「呼び名」なのだろうか。得体の知れない、正体のわからないものにとりあえず付けられたラベルとしての名前なのだろうか。だとすると、もうその時点で話は終わっている。議論の余地はない。答えもないということになる。

破調は「反面教師」なのか

「歌の意味を重視してみたら、これ以外の形には表現しようがなかったのではないか。内容が芸術的に素晴らしく、さすがに無視して切り捨てるわけにもいかないだろう。」などと言われて特別な扱いを受けているような状況は、一体どういうことだろう。こうして辛うじて、定型律を守っている短歌の枠組みからこぼれ落ちずに残ったものが「破調の短歌」と呼ばれているのだろうか。奇抜な印象で自分の作品を他へ印象づけるような「ルール違反の歌」を、短歌として認め、仲間入りさせてくれる歌壇やコミュニティは、なんと寛大なことだろう。まじめに定型を守って歌を詠んでいる人達にしてみれば許しがたいとまではいかなくても、あまり気分の良いものではないだろうに。それでも、彼らは言うだろう。『「自由律」が「定型律」の美しさや大切さを逆説的に証明してくれることだってあるのだ。』とか「短歌における歴史的な芸術運動の一つとして重要な意味をもっているのだ。」などと。そして、実際にそれを咎めたり、否定するようなことは誰もしないのである。

前提を疑わなければ

 話を最初に戻そう。「前提として、その作品が短歌を創作する意図をもって作られたものであるのは当たり前である…」と僕は冒頭で述べた。疑ってはいけない前提である。そんな中で、破れてしまうことだって全く無いとは言えないだろう。偶然作られることだってあるかもしれない。出来上がったものに正式な評価は与えられないものの、それを見て勉強する材料には十分なりうるのである。したがって完全に切り捨ててしまうのは、文学の世界ではきっと出来ない行為なのかもしれない。もしも、短歌の世界で、こういったイレギュラーな短詩(破調の短歌のことである)を、一緒に扱うのであれば、短歌という芸術文学にとっても、利益になる部分は決して少なくないのかもしれない。意図的に破調を推進するような悪魔的な行為をする人などこの世には存在しないという「歌人性善説」に基づいて考えればよいのである。そう考えれば、実は最初から問題は解決していたのである。

 でも、なぜか、それさえも心のどこかで信じがたく納得のいかない僕なのである。破れてしまったら、破れないように作り直せばよいことだ。語順を入れ替えたり、言葉を替えてみたりすればいいだろう。どうしても出来ないのであれば歌壇への投稿を諦めるか、もしくは、「短詩」として世に送り出せばよいのではないか。にもかかわらず、なぜ無理やり短歌に収める必要があるのだろう。そこに作者の意図が見え隠れするように思うのは、僕だけだろうか。偶然とか必然という言葉では説明がつかない、意図的に作られた歌であると。そして、それらは定型律に疑いもなく心棒している歌人たちへのアンチテーゼとして示されているものなのではないだろうかと。

短歌の初心者を惑わす「破調」

 多くの歌人は定型保守派であり、初心者へは定型を遵守して歌を作るように呼びかけているだろう。これは短歌が短歌であるための必要十分条件であると僕もずっと思っていた。なのに、この「破調」という響きの持つ妖しいイメージに魅力さえ感じられるのは何故だろう。まるで「定型律を極めし者だけに許された特別な行為」のような「裏の意味」さえ想像させるような語感は何だろう。あるいは、アナーキストとして歌壇に反旗を翻すための「飛び道具」のような「かっこよさ」をちらつかせている印象は何なんだろう。

 具体的に、有名な歌人の作った「破調」と呼ばれる歌を片っ端から集めて読んでみれば、どういうことなのか何となくはわかりそうなのだが、何か自分の短歌に対するイメージが崩壊してしまいそうで、僕は敢えて読みたいとは思わないし、そこを目指そうとも正直思わない。それよりもむしろ、万葉集や古今集、新古今集などの古典(和歌)からしっかり基礎を学んで行くことのほうがずっと大切なのではないかと思っている。また、定型を破らずに詠っている現代の歌人が作った歌を多く読み学ぶことのほうが、ずっと自分のためによいのだということも分かっている。ただ、それでも、どうしても気になる「破調」という言葉。これを「破調の短歌」と呼び、短歌と認めた人々のことを恨めしく思う今日この頃である。

まとめにかえて

 最近では、短歌投稿サイトに毎回のように「破調気味」の短歌や「あきらかな破調」の短歌を同一筆名の人が投稿している現象が起きている。僕は、気づかぬふりをして放置しているが、中には挑発にのって歌評に「字数の過多」や「律の乱れの過ぎた表現」を指摘したコメントがされている時がある。もちろん当人からノー・リプライなのは言うまでもない。しかし、ほとんどの人は僕と同じように気づかぬふりをしている(決して無視しているわけではなく、歌にはちゃんと敬意をもって目を通している)。だが、みんな本心は複雑なのだろう。「ちょっと、ひどすぎやしないか。」とか「よく、これ、平気で投稿できるな。」などと否定的・批判的に思う人もいるだろう。また、僕のように横目で、「こんな風に破調短歌を堂々と自由に詠えるなんて凄いな。」とか「本当は、たまにはこういうのやってみたいって思ってるんだよなあ。」などと内心羨ましがっている人も、ひょっとしたら、意外と大勢いるのかもしれない。でも、それを本当にやる人は極少数だ。

 こうして、何だかんだ言っても、破調の短歌に憧れているという僕の本心が明らかになったのである。でも、憧れはきっと、この先も憧れのままであり続けるのだろう。僕は、それだけ小心者なのだ。