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他人の作品を便利に消費する、ということ

SNSを通して暮らしにまつわる発信をしていると、いわゆる「掲載許可」の類の連絡をもらうことがあります。これまでに投稿された写真を借用して、他アカウントや記事などで紹介したいとのこと。

インテリアや暮らし系のメディア、アカウントなどは、ここ数年の”おうち時間”トレンドもありずいぶんと増えてきたもので、決してフォロワー数が多いとは言い切れないわたしのアカウントにも、まあまあの頻度でそういった連絡が届きます。

ささやかな投稿に目を向けていただき、本当にありがとうございます。


先日、そういった旨の連絡をひとつもらいました。ある投稿の写真に写っているデスクライトを紹介したい、というものです。

そういった連絡が届いた際、わたしは基本的に掲載にあたって「ノー」とは言わないスタンスを取っています。今回も、いつもと同じように「よろしくお願いします」とお返事を差し上げました。

その後、何度か連絡いただき、デスクライトへのこだわりや空間づくりで意識していることなんかを聞いてくださったアカウントの担当者さん。

掲載可否の確認もなく気がついたら載っているというタイプのキュレーションメディアも多いなかで「丁寧にやりとりいただき、とてもありがたいな〜」とほっこりした気持ちになりました。


ところが数日後、投稿された内容を見てとってもびっくり。というか「え……?」と一瞬、思考が止まりました。

なぜならその投稿には、デスクライトの写真以外にも、わたしのアカウントから借用した10枚ほどの写真と元投稿の文章までもが掲載されていたからです。

しかも、その投稿は“ルームツアー”とタイトル付けされ、今現在暮らしているお部屋の写真と、昨年の冬まで暮らしていたお部屋の写真が混在している状態。

すでに手放した家具なんかも紹介されているのに、まるで「今もこの空間にすべてが存在するかのような在り方」で投稿いただいていたのです。もう見ることのできない投稿なのでイメージ図のみでご紹介しますがこんな感じで。

流行りのルームツアーという形式にのって作られた、時空の歪んだお部屋紹介が完成してしまいました。

さて「これはミスリードだ……」と思ったわたしは、すぐに担当者さんに連絡し訂正を依頼。翌日、投稿は削除され、修正を施して再掲載いただく運びとなりました。

文章の仕事をしていたり、情報を伝える仕事をしているからこそなのかもしれませんが、掲載する内容の正しさや紹介の方法が精査されないままにこういった投稿がされてしまうことに対して、正直とても悲しさを覚えました。

それに、意図しないかたちで文章が引用されていくことにも違和感があったり(引用の範ちゅうを超えているのも気になりますが……まあむずかしいね)。

少なくとも、わたしの投稿はあくまで普段から投稿を見てくれている人のためのもの。その読み手が変わるのであれば、自ずと文章も変わって然るべきなのになあと思ってしまうわたしがいます。

とはいえ、そういった事情や思いを伝える間もなく、一度世の中に放ったが最後。コンテンツは”便利アイテム”として引用され、誰かの意のままに再掲されていってしまうようです。

同時に、私たち編集者もまた、便利アイテムを召喚して作り手の意図を無視するかたちで掲載する側の人間にもなり得てしまう。その事実が、とてつもなく恐ろしいのです。


こういった話って、案外よく起きているのだろうなあと思います。SNSをはじめとするWebコンテンツはクリックひとつで投稿を削除したり修正できる世界なので「とりあえず投稿しよう」という文化がやっぱりどこかに根付いている。

ひとりの編集者という立場で見ると、このカジュアルに投稿できてしまう状況の危険性をひしひしと感じる場面が増えてきました。適当に情報が収集され、本来の意思を無視されるかたちで世の中に出てしまう可能性が高いからです。

編集者の仕事は、企画をしたり、取材をしたり、文章を書いたり直したりと多岐に渡ります。ただ、個人的に一番大切な仕事は「交通整理」なのではないか、とも思うのです。

コンテンツを制作するうえでの情報整理であったりとか、制作されたコンテンツが届いていくまでの動線整理であったりとか、そのかたちはさまざまですが、道をつくり、整理をすること。それが、編集者として求められている大切な役割なのではないかな、と。


もうひとつ、そういう話題にまつわる話をさせてください。

知っている人は知ってくれていますが、わたしは1年とちょっと前くらいまで、あるメディアの編集者として約3年間働いていました。

Webメディアも存在しましたが、SNS上で情報発信を行うメディアとして伸びていたこともあり、わたしの仕事はSNSで掲載する記事の企画や編集が中心。

運営上、当時課題だったのが投稿頻度です。SNS上でメディアが成長するためには投稿頻度が重要な鍵を握っています。そのため、責任者からは「投稿本数を増やしてくれ」と耳にタコができるほど言われていました。

あの手この手を尽くして頻度を高く投稿できるようにと考えてきましたが、ひとつだけ、なにがあっても手を出さないと決めていたことがあります。それが「再掲載(リポスト)」でした。

再掲載とは、要するに、以前投稿した内容とまったく同じ内容を投稿すること(他アカウントの写真をお借りして掲載するものを指すこともありますが、今回はそのケースではないです)。

再掲載は超がつくほど楽ちんです。ゼロから企画を考える必要もなければ、執筆も撮影もデザインも必要ありません。以前投稿したものとまったく同じものをポンと世に出せば落着。最高のハックでした。

「これ以上、投稿頻度を上げるのはしんどい!」と思ったとき、わたしは何度も再掲載という蜜に手を伸ばしたくなりました。SNSの投稿は何百本も出せば埋もれていく。再掲載することがフックアップになるという考え方だって、世の中には存在するからです。

でも、どれだけ考えを巡らせてもわたしのこたえは変わりません。「それだけは絶対にやらん」としか思えませんでした。それはなぜか。メディアとしての矜持を失った行為だと考えていたからです。

創刊から数十年の時が経過している雑誌ですら、再掲載という思考はありません。同じようなトピックスを取り上げる場合でも、必ず切り口や見せ方を変えて世の中へと届けられます。

わたし自身も雑誌の仕事に携わることがあり、その際には写真のレイアウトを変えたり、テーマにあわせて文章を書き換えたりと、企画に合わせて素材の編み方を変えて、誌面を制作しています。それが編集者として世の中にコンテンツを届けていく人間の、最低限の営みだとも思うのです。

これまでに送り出したコンテンツをまとめて紹介する「総集編」という企画を組んでいるのならまだしも、安易に行う再掲載を良しと思えないのは、図々しい一編集者のエゴなのでしょうか。

いったいメディアとしての軸はどこにいったのだろう。素材だけを集めて安易に行うキュレーションや再掲載では、足元がぐらついて仕方がないだろうにと思うわけです。


あ〜またなんか耳の痛そうな記事を書いてしまいました。

もちろん、これらの話はメディアや編集者それぞれのスタンスにもまつわるもの。一概に「これが正解なのである」と言い切れるものではありません。

かくいうわたし自身も、自分の仕事に責任こそ持っているものの未熟です。編集者として不勉強だと思う場面もあります。そういった前置きをふまえても「なんだかな〜」と思うできごとがあったので、せめて精一杯言葉に残しておこうと思い書きました。

すごくいやな気持ちになった人がいたらごめんなさい。「ああ、なんか言ってら」くらいの感覚で読んでいただけたら幸いです。最後までお付き合いいただきありがとうございました。それでは、また。


編集 - とある友人

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