第一回新民社宣言――現代的諸問題と性理学について――

2024/6/17追記:元々これは新民社の活動の指針を示す為に書かれた文章でしたが、現状この文章を執筆した時期から運営者の見解が大きく変化しており、また活動方針としても、暫く結社としての活動を休止させて他の媒体への寄稿を中心としていくという路線を取っているため、こちらはスタンスの定まっていなかった過去のものとしてご覧頂ければ幸いです。

はじめに

 現代の日本に於ける主要な社会問題のうち、最も幅広い層に懸念材料として受け取られており、且つ問題に対する諸個人の見解に顕著な社会的分断が見られるものの一つに、少子高齢化、及びそれに伴う経済成長の鈍化が挙げられるであろう。与党である自由民主党や公明党を始めとした、日本の国会に議席を有する諸政党は各々対策案を講じているが、中でも、立憲民主党の現政務調査会長である長妻昭氏の談話[1]は、過去40年間における未婚者の割合増加について指摘されているという点で、他の政党の発表とは一線を画している[2]。

 しかし、肝心のその対策については、住宅支援や、正規雇用と非正規雇用の同一価値労働同一賃金化といった悉く金銭的なものに留まっており、そもそも何故我々が結婚し、子供を産み育てるのか、そして、現代においてそれが為されるために個々人の経済的な余裕以外に必要なものは無いのか、といった観点が欠落している――という以上に、意図的に触れていないとさえ感じられる――と言わざるを得ない。そして、その問題が見過ごされてきた背景には、立憲民主党を始めとした現代日本の諸政党の多くが、左派、右派を問わずジョン・ロックに始まる自由主義的人間観を下敷きとした政治思想を受容しているということが原因として考えられないであろうか[3]。

 このような問題について、古代のシャーマニズムから連綿と引き継がれてきた確固たる死生観をその体系の根本に据えている、政治思想としての儒学を日本の思想史上の伝統から掘り起こした上で活用して論ずることには一定の意義が認められうるであろう。しかし、それは単なる掘り起こしであってはならない。寧ろ、それは現状の社会と、それを成り立たせている諸思想に対し、ぼんやりとした違和感や割り切れなさを感じている人々に対しての、最大限の説得であらなければならない。つまり、少子化問題のような、基本的には自由主義の外側に位置する問題に本気で取り組もうとするのであるならば、近代的自由主義よりも説得力のある政治思想を、儒学をベースに建設し、自由主義を超克しなければならないのである。儒学的人間観は、自由主義的人間観と両立しない。自由主義的人間観それ自体を問題にしない限り、儒学的人間観によって人間を語ることは現代社会において何らの説得力も持たないばかりか、「時代錯誤」の一言で片づけられ、一笑に付されるのみである。そもそも、儒学を始めとした東アジアの前近代思想は社会が時代によって進歩していくといった世界観を基本的に持たない。そのため、進歩史観に則って過去のものを倫理的非難の対象とする意図が込められている「時代錯誤」なる語が一般に使用されることそれ自体が、現代日本において明治期に移入された自由主義的進歩史観が未だ社会的な優越性を保っていることを物語っているのである。

近代について

 しかし、「近代」そのものの超克ということを考えることは極めて困難である。我々は全て近代国家に住まう近代人であり、この枠組みはそう簡単に崩されうるものではない。では、近代の超克不可能な部分とはどこにあるのであろうか。

 一般に近代と訳されるところのmodernは、「近世」という意味も兼ね備えており、この場合、固有の「近代」は、産業革命を経た工業化社会の時代を意味するのである。今日の情報化社会においてもなお、工業化社会それ自体は下敷きとして依然機能しており、当然その社会を支えるイデオロギーも考慮しなければならない。一方「近世」の方は、「近代」の起源ではありつつも、その必須構成要素とは言い難い。なぜなら、少なくともヨーロッパ以外の地域にこの意味での「近世」は存在せず、日本を始めとした東アジア諸国は、全く異なる社会体制の形態に西洋の近代を接ぎ木することにより社会を変革したためである[4]。

 産業革命以前としての「近世」を哲学史的に捉えるのであれば、通常近世哲学として捉えられる、フランスのルネ・デカルトに始まる合理論と、イギリスのフランシス・ベーコンに始まる経験論の系譜のみならず、その後百数十年が経つも未だ資本主義以前社会であったプロイセンにおいて両者を継承したイマヌエル・カントの哲学より始まるドイツ古典哲学の系譜までがここに含まれることとなる。

 一方、「近代」の方に至っては、まず近代資本主義体制においての国家における法を基礎づけたジェレミ・ベンサムの名を外すことは出来ないであろう[5]。しかし、この時代自体を特徴づける哲学者の名前を挙げるならば、スコットランドの近世最末期に活動したデイヴィッド・ヒュームの哲学は重要な意義を持つ。また、産業革命を起こせなかったものの、産業革命以前の最末期における経済的中心であったオランダで活動したバールーフ・デ・スピノザの哲学は、「もう一つの近代」を示すための極めて重要な示唆を与えるものである[6]。これらの哲学と、後述する「性理学」を融合することによって、現代において儒学を社会思想として確立しなければならない。そして、事物への外的なアプローチである社会思想のみならず、内的な問題に答えを出しうる、生活態度としての儒学を確立させるためには、もう一つ、現象学の方法を取り入れなければならないのであるが、このことは後述する。

性理学について

 性理学とは、主に朝鮮王朝時代の朝鮮半島において、朱子学を始めとした宋明理学を指した言葉である。朝鮮における日本とは異なるこの呼び名は、まさに当時、理学の枠組みにおいて、朱熹の議論を下敷きに儒者たちの活発な論争が行われ、文化として土着していたことを示しているのである。性理学は身体と感情にその基礎を負うところの形而上の学[7]である。朝鮮性理学において最も有名な論争である四端七情論争は、そこで用いられている言葉に注目するのみでは何らの意義もないもののように映る。しかし、この論争の背景には理学の理論の根幹に関わる重大な解釈の差異があり、それは人間存在に対する基本的な見方に直結する問題であった。

 先述したジェレミ・ベンサムは、その言語論において「自然法」、「自然権」、「社会契約」などといった、我々が一般に近代法、政治思想の基本的な概念であると見なしているものを有害無益な「政治的フィクション」であるとして非難している[8]。これに対し、性理学における四端七情や五常、天命、大義名分、華夷といった概念は、ベンサムの体系においては「知覚可能なもの」乃至「推論的なもの」として取り扱われることとなる[9]。このことは、法や政治の問題を空虚なフィクションではなく、身体的、感情的な次元において取り扱うことが可能であるということである[10]。

 さて、日本の伝統において、「朱子学」がこの意味での身体化を経ていたかは極めて疑わしい。日本の思想史の方向性を決定付けたのは、儒学ではなく鎌倉時代の仏教思想であり、江戸儒学の発展によってもこれは基本的に覆ってはいない。彼ら――とりわけ道元と親鸞――の思惟は、同時代の宋や高麗の僧侶のそれからは大きく断絶したものであり、それ故に大陸地域においては宋学によってなされた、同時代の仏教思想の克服も日本においては仏教の更新によって成し遂げられたのである。

 しかし、東アジア漢字文化圏の思想を歴史的に受容し、そしてそれを朝貢システムの外側で発展させてきた半文化圏としての日本が、それをこの先受け入れられないという理由はない。近代日本における思想家の多くが、臨済禅や陽明学を身体化することによってその思想を確立させた。そして、それは来るべき日本の性理学受容において下地となるものであり、また批判の対象でもある。そして、その為に日本の性理学は、新たに道元や親鸞の思想を再解釈したのちに取り入れなければならないであろう。

 著名な現象学者であるエマニュエル・レヴィナスの初期の論考に、身体にその基礎を持つ「同一性の感情」を問題としたものがある[11]。この『ヒトラー主義哲学に関する若干の考察』と題されたテクストは、近代的な自由主義がユダヤ=キリスト教においての「赦し」に由来しており、そしてそれは時間や肉体を始めとしたあらゆるものに対する魂の絶対的自由、解放を意味するとした。しかし、それは現実には不可能であり、この思想は「同一性の感情」をその基盤においた「ヒトラー主義哲学」に対して無力であると述べた。もし、戦前から戦後の長い期間にかけて活動を続けていたレヴィナスのテクストを、この「同一性の感情」を元に読み解くのであれば、しばしば家父長制との関連性を指摘されるレヴィナスの恋愛論や生殖論について、儒学モデルにおける具体的な社会制度との関連性を示すことが可能であろう[12]。そしてそれは、この文章においての最初の問いであるところの、婚姻及び生殖の意味付けという我々の至上命題へとたどり着くための直接の道でもある。

陰陽について

 さて、これらの哲学を接合するための道は当然困難を要する。スピノザとレヴィナスを筆頭に、彼らの哲学にはそれぞれ重大な相違点があり、それを朱熹の体系において接合することは一見不可能であるかのように思える。これを整理し、纏めていくために必要なものの一つとして、陰陽思想が考えられる。

 陰陽思想は一元論であり二元論である。陰と陽はそれぞれ互いがなければ存在せず、それぞれが独自の役割を果たす。これはアウグスティヌスの「悪は善の不在である」に始まり、ヘーゲルの弁証法や、ラカンの「女は存在しない」テーゼなどに典型的に表れているところの、二項対立の片方のみに本質を認める西洋的方法とは全く異なっている。このような方法により、スピノザの汎神論とレヴィナスの無限性は接続されうるのみならず、メルロー=ポンティの両義性概念や、レヴィ=ストロースの二項対立との接点を見出す事もまた可能である。そしてこれは何よりも、性別二元論を新たな次元で捉えなおすと共に、儒教の根幹に位置しているところの家父長制をも新たに捉えなおし、男女の性役割という近代が意図的に回避してきた問題について一石を投じることに重大な寄与をもたらすであろう。

革命について

 恐らくこの章が最後となってしまうので、最もセンシティブな話題で締めさせていただきたい。

 日本的な朱子学解釈の大きな特徴の一つに、いわゆる「易姓革命」の否定がある。日本最大の朱子学者である山崎闇斎のそれが代表的であるが、これは古来の「万世一系」思想と結びついて近代日本に継承されるに至っている。ところで、かの山上徹也氏の伯父は、好んで「天命」という言葉を用いて安倍元首相の暗殺事件について語っているが[13]、まさにかの銃撃事件こそが、現代においてもなお「革命」の意義を我々にひしひしと感じさせるのである。しかし日本国民は未だ、「ポスト安倍」の政治を想定できていない。日本国民は未だ山上徹也に追いついていないのだ。「国連と国際法に基づく国際秩序」なるものの空虚さが国際政治学者を除いた誰の目にも明らかである所の現在、我々は国家が内的にも外的にも暴力において成り立っていることを直視し、そしてそれを秩序付けなければならない。それは、内的には天皇制の改革――天皇公選制によるより強固な家父長制の構築と、小中華としての日本の国家体制[14]の確立及び儀礼の儒教化――、外的にはアメリカ頼りでない国防体制の建設――日韓での核シェアリングは有力な選択肢であろう――、といった政策により示しうる。そして、その為には、自由主義というものを一旦洗い出さなければならないのである。



[1] 政府の少子化対策発表にあたって(談話)

https://cdp-japan.jp/news/20230331_5789

2023年9月21日17時28分閲覧

[2] 筆者の確認した中で、国政政党の公式発表でこの事実が記されていたものは他になかった。

[3] 日本において、「リベラル政党」であることを事実上アイデンティティとしている国政政党は立憲民主党のみであるため代表例としたが、他の政党でもこのような事情に変わりはない。

[4] けれども、広義の封建制社会であった江戸日本近世と異なり、科挙の実施による高度な儒学近世社会が存在していた宋代以降の中華帝国領域及び朝鮮、越南において、近代の導入は、より根本からの変革でなければならなかった。これらの地域の内の多くが共産主義によって近代化を果たしており、また韓国においては、朝鮮戦争以後、マックス・ウェーバーが資本主義の要因の1つであると指摘したカルヴァン主義を採用している長老派系キリスト教が大流行したことが近代化の一要因であった。

[5] なお、資本主義導入後のドイツからは、フリードリヒ・ニーチェやカール・マルクスといった、modernそのものの超克を目指した哲学者が生まれ、後のフランス現代思想の一部に影響を与えている。

[6] 当時のスコットランドとオランダは両方ともカルヴァン派が多数派を占める国であるが、ヒュームには信仰がなく、スピノザはユダヤ教を変形させた独自の汎神論的信仰を持っていた。

[7] これは決してmetaphysicsの略語ではなく、易経にその起源を持つ原義の形而上の問題を取り扱う所の学である。

[8] ソシオサイエンスVol.9 2003年3月 ベンサムの人間観とその哲学的基礎に関する一考察 高島和哉著

https://core.ac.uk/download/pdf/144444852.pdf

[9] 「知覚可能なもの」から推論により想定されるものが「推論的なもの」であるが、四端七情論争においては、まさに四端がどちらのカテゴリーに属するかが問題となっている。

[10] なお、当然ながら性理学におけるそれらの概念もまた究極的には全てフィクションであるが、ベンサムは基本的に全ての種類の実在をフィクションとして取り扱った上で、それが現実的に知覚可能なものと結びつくかどうかを問題とし、我々の知覚と決して結びつくことのない自然権を批判しているのである。

[11] レヴィナスにおける身体の問題Ⅰ1―「ヒトラー主義哲学に関する若干の考察」から『時間と他者』まで― 第一章 2018年 萌書房 庭田茂吉著

[12] 無論、レヴィナスのタルムード読解との対応の検証も不可欠である。

[13] 【独自】 山上被告の「父親代わり」 弁護士資格を持つ伯父が語る 「梅雨のころ接見に行ければ…」安倍元首相銃撃事件

https://www.fnn.jp/articles/-/511715

2023年10月5日12時49分閲覧

[14] これは決して大中華に隷属する国家ということではなく、中華という絶対的な権威が既に存在しない世界において、文化的な徳を以てその相対的威厳を示しうる国家のことである。

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