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黒飴と3塁打。

小学3年生の頃、なぜかタッちゃんはいつも僕だけ贔屓にしてくれた。

神社の神主さんの家に住んでいたタッちゃんは60代ぐらいだったのか。詳しくは分からなけれど、いわゆる自閉症または知的障害と言われる症状があり、神社にある広い空き地(通称神社グラウンド)で野球や鬼ごっこで遊んでいる子供たちをいつも𠮟りつけていた。

ただ、その子たちは神社グラウンドにおける「前科持ち」で、境内のガラスを割って逃げたり、賽銭箱に手を入れたりしていた子たちだった。

私はそんな子たちについていけず一緒に遊ぶことはほとんどなかったが、内心は羨ましかった。

「一緒に野球がしたいなぁ」といつも思っていた。

ある日、神社のタッちゃんが僕の遠い親戚だと知った。

普段から家族での行き来があるような感じではなかったが、ある日母に連れられてタッちゃんの家を訪ねたことがあった。

記憶力のいいタッちゃんは僕のことを知っていたようで、少し怖い顔で「ミッちゃん、こんにちは」と声をかけてくれた。

いつも怒っている姿しか見ていないので、恐る恐る「こんにちは」と返し、さっき駄菓子屋で買った3個10円の黒飴をタッちゃんに渡したその瞬間、大声で「ありがと~」と叫びながら、見たことのなかった笑顔で抱きついてきた。

僕はびっくりしたけれど、きつく抱かれる僕を母もタッちゃんの家族も大笑いで見ていた。

その日から神社グラウンドに行く度に僕に近づいて来て「ミッちゃん、黒飴ありがとうね」と笑顔で言い「ミッちゃんは何してもいいよ~」と遊ぶことを許してくれた。

それを見ていたのは他の小学生だった。

なぜあいつだけが笑顔で優遇されるのか。

ただ、彼らも考えた。「とりあえずあいつがいれば野球ができる」

だから野球をやるときには僕の家に迎えに来て一緒に野球をやろうと誘ってきた。

僕は嬉しかった。ただただ野球がしたかった。

神社グラウンドは長方形だったから、右バッターが引っ張ることしかできないゴムボール野球だったけど、毎日のように汗が出なくなるまで走り回った。


神社グラウンドの簡易三塁ベースの脇にはいつも、60代と思われるサダオちゃんが座っていた。

夕方、僕たちの野球が終わるのを見届けると、寂しそうに家路についていた。

後から知ったことだが、サダオちゃんは大きなけがで脳に障害を持ち、ほとんどしゃべれなくなって仕事につくこともできず、家族からも疎まれていたらしい。だから神社で汗だくの僕たちを見ている時だけが解放される時間だったのだろうか。

僕が3塁打を打って(まあゴムボール野球なので、ボールが変なところに入っただけだが)ベースに立っていると、サダオちゃんが大きな拍手をしてくれた。なんだかうれしくなり、ポケットのビニール袋に入っていた少し溶けた黒飴を渡したら、普段表情を出さないサダオちゃんが驚くほど喜んでくれた。それからサダオちゃんは僕が打つ毎に拍手してくれたのだった。


数年後、僕はその田舎町を離れ、大きな街に引っ越してきた。

中学野球では3年の春まであまり試合に出ることはなかったが、3年の中総体ではレギュラーとして試合に出ることができた。

その初戦、1点負けている9回表、2アウトランナー1、2塁でセンターとライトの間にフラフラとフライを打ち上げてしまった。しまったと思ったが、ちょうど間にボールが落ち、大きくボールが弾んで外野手がモタモタしている間に勝ち越し3塁打となった。

3塁コーチャーが大きな拍手で喜んでくれた時、ふとタッちゃんとサダオちゃんを思い出した。

彼らがいなければ、野球なんてやっていなかったかも知れない。

この喜びを感じることができたのはあのふたりのおかげだ。

僕は試合後の帰り道、駄菓子屋で黒飴を買った。もちろん昔のように3個10円みたいな売り方はしていなかったけど、味は変わっていなかった。

黒飴を舐めながら、またふたりの笑顔を思い出して少し涙が出た。

それぞれの時代に、それぞれの人生がある。

タッちゃんとサダオちゃんは黒飴がつないでくれた数少ない僕の恩人だ。

田中泰延氏の著書に「読みたいことを、書けばいい」という本がある。
タッちゃんとサダオちゃんとの思い出は、僕が一番読みたかったから書いてみた。

たとえ周囲に嫌われたりしたとしても、あのふたりに好かれた事で“おあいこ”なんだと言い聞かせ、僕は今を生きている。



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