手放すこと、繋ぐこと ~父の死と私の生き方~

2月も半ばを過ぎた頃、突然、父の訃報を聞いた。特に治療中の病気もなく、本当に突然の死だった。ただただ驚いたが、なかなかどうして涙は出なかった。

遠く離れて住んでいるのをいいことに、私自身は一年以上、父とは会っていなかった。

その2月末はなにかと締切りも多くて、バタバタとした。こちらの仕事や友人関係への説明もバタバタとしたもので。説明しながらも、悲しんでいないみたいかな。とか、呆れられてるかな。とか、余計なことを気にしてしまっていたっけ。

ようやく涙が出たのは、葬儀の日、弟が弔辞を読んだ時だった。「波乱万丈... 激動の人生... 」という言葉が耳に残ったその時だけ。でもその後もなぜ私は父の死に、これだけしか涙がでないんだろう。そんなことを滔々と考え続けた。

父の死から3ヶ月経って、それは正に父の激動の人生から私が享受したものがあることにようやく気づかされた。

父はかつて小さな会社をいくつか抱えた経営者だった。40台半ばを過ぎた働き盛りの頃、真夜中に突然交通事故に遭い、生死をさ迷うほどのけがを負った。命は助かったものの、特に頭部に負ったけがの後遺症はひどく、リタイアを余儀なくされた。

医師ですらうまく説明できない事柄に、中学生だった私は、大人や人間への不信感が募るばかり。自分の中で一つ明らかになったのは、「もはや父はいない」ということ。そして、大人は驚くほど、頼りない存在に思えた。

その後、 心理学の道に入ったが、心理に関する本は最低限しか読まなかった。大学の頃は与えられた課題、仕事でも出逢った現場やケースに沿ったものぐらい。その中で一貫してやっていたことは「運営」だった。

仕事の現場はほぼ最初から、新しい職場や心理が初めて入る場所が多く、知識も経験も最低限しか無い中、ゼロから考え直すという作業が私の臨床だった。10年経つ頃には、分野に関連してNPO も立ち上げた。

それはこの職種にしてはかなり珍しいことかもしれなかった。周囲から色々批判されながらも、でも不思議と怖さが無かったのは、父の姿がどこかにあったからだったと、今になって思う。

急に無くなってしまった父の姿を探しながら、20年近くこの道を歩んできた。そして、現実に父が亡くなった。だからつまり、父の本流は私の中で生き続けてきたのではないか。

そして父が本当に亡くなった今は、自分の「運営」してきたものが残っていくように、手放し、繋いでいこうと考えるようになった。

父の経営していた会社は、父のリタイアから数年後に全て無くなってしまった。それには他への若干の腹立たしさもありながら、でもやはり父は「繋ぐこと」をしていなかったのではないかということ。

ワンマンは必ず破綻がくる。

批判や面倒をこうむるなら自分でやる。

そんなスタンスではいけないのだ。

そして「本当にやりたいことはなにか?」年明けからそんなメッセージを受けとることがたびたびあった。

たぶんこれは偶然じゃない。

独りポツンと水割りを飲んでいた父の孤独が、「運営」に携わるようになってよくわかる気がしていた。

私の天職は、おそらく「運営」であり「経営」なのだ。心理であることは、「人」や「繋ぐこと」への拘りがあるからだ。

会社経営者だったかつての父と、そうして何度も邂逅しながら、私は私だけの道を歩んでいくのかもしれない。
父がなし得なかった形を、想いを、私は確かに繋ぎ、この世に遺していきたい。

そう思う。

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