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リガ武官室へようこそ(Part 3) 在ラトビア日本公使館の開館

この連載記事では、ラトビアの首都リガに置かれていた在ラトビア日本公使館附陸軍武官室の歴史を追います。

1928年8月21日、当時の日本陸軍ポーランド駐在武官である鈴木重康大佐にラトビアの兼轄が命じられます。これに続き、同年10月には長岡春一駐ドイツ大使にも駐ラトビア公使兼任の命が下り、同月28日には長岡・鈴木らがリガを訪問し、ラトビア大統領に対し信任状を提出します。

1928年当時の日本陸軍ポーランド駐在武官・鈴木重康大佐(中央)

1929年4月、ドイツの首都ベルリンにおいて、日本陸軍の在欧武官らが一同に会しての会議が開催されます。主な議題は4つ、1)各国での収集情報から考察するソ連とソ連国内情勢と今後の展望、2)将来の対ソ戦において欧州諸国から実施する謀略手段の検討、3)各国におけるロシア人亡命者らの状況と将来の活動に関する予測、4)将来の対ソ断交時の欧州諸国間の関係に関する展望でした。

その席上、鈴木(ポーランド駐在武官兼ラトビア駐在武官)は列国がリガに独立した武官を置いている事を述べ、またソ連駐在武官の小松原道太郎は「ラトビアは英国やポーランドの政治的影響を受けやすく、傀儡国家のようになっている。我が陸軍の(対ソ)謀略活動の拠点として使い勝手が良いかもしれない」と述べています。

このベルリン武官会議から約半年後の1929年9月、極東の満州において中華民国とソ連との武力衝突(奉ソ戦争)が発生します。この戦争において、大規模な工業化によって軍備近代化を成し遂げたソ連軍は質量ともに中華民国の奉天軍を圧倒し、日本陸軍部内でも対ソ戦を見据えての軍備近代化の必要性が強まります。しかし、近代化には時間が必要で、当面の間、対ソ開戦は避けねばならないというのが陸軍中央の一致した意見でした。

すでに欧州においては謀略的手段で将来の日本の対ソ戦争を支援する事がベルリン武官会議での決定方針となっていましたが、近代化成ったソ連軍の実力に対し、周辺国からの軍事情報収集も重要な課題となっていきます。

1929年10月1日、ラトビアの首都リガに初の公式な日本の公館である「在ラトビア日本公使館」が開館します。初代代理公使は杉下裕次郎、他には館員数名を抱えるだけの小さな公使館でした。

1929年10月、在ラトビア日本公使館が開館したリガ市内のホテル・ぺテルスブルク。

この時点ではまだ、ラトビア駐在武官はポーランド駐在武官の兼任で、独立した武官はラトビアには置かれていませんでした。

(続く)

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