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リガ武官室へようこそ(Part 2) 陸軍の若き語学研修生たち

この連載記事では、在ラトビア日本公使館附陸軍武官室の歴史を追っていきます。

今回は、1920年代にラトビアの首都リガに数年間住んでのロシア語研修に臨んだ若い陸軍尉官らの話になります。

1920年代初頭、いまだに日本と国交が樹立されていないソ連の国内情勢を調査するにはソ連の周辺国における情報収集が肝心でした。リガもまたソ連情報の収集拠点として重視されていましたが、1925年1月の日ソ基本条約締結と同年春の在ソ連日本大使館開館に伴い、周辺国の重要性は低下していきます。

また、日本外務省自身の予算難もあり、北欧地域にあった日本の外交公館も閉鎖が検討され始めます。1925年12月にはフィンランドの首都ヘルシンキにあった在ヘルシングフォルス外交官出張所の閉鎖が検討され、在リガ外交官出張所に至っては1926年10月の閉鎖が決まってしまいます。


在リガ外交官出張所が閉鎖まで入居していたAndreja Pumpura通り6番地。(2018年撮影)

そんな中、1926年3月1日、1人の若い日本陸軍大尉がリガの街にやってきます。彼の名前は河辺虎四郎(かわべ・とらしろう)、陸大を出たばかりの大尉で約2年間の在外でのロシア語研修を命じられてラトビアにやって来たのです。

河辺が到着して1ヵ月後、前任の語学研修生である清水規矩大尉はリガを離れ帰国の途に着きます。また、外務省の在リガ外交官出張所も予定通り10月12日に閉鎖され、河辺はリガに住むたった1人の日本人になってしまいます。

河辺に与えられた任務にはロシア語の研鑽だけでなく、ソ連の軍事情報収集もありましたが、たった1人、それも語学を磨いている最中での情報収集にはかなりの困難を伴い、帰国後に提出した報告書にはソ連の特殊軍事施設(おそらくトーチカや対戦車用の壕などと思われる)についての調査が記されていますが、これもリガで手に入る少ない資料の中でやり繰りした最善の結果だったのではないかと思います。

1927年4月頃、河辺の苦境を察してか、もう1名の陸軍大尉がリガに派遣されます。彼の名前は柳田元三(やなぎだ・げんぞう)。河辺の回想録によると、2人はリガ在住中に欧州諸国を共に巡り、第一次大戦後も続く各国の緊張状態などを感じ取ったようです。

河辺は翌1928年8月に帰国を命じられますが、柳田はその後もしばらくリガに住んだ後、エストニアの首都タリンへ移住します。こちらでも主に語学の研鑽を積んでいたようですが、特に任務は無く、勉強に勤しんでいたようです。

こうした中、ソ連国内では1928年1月にレーニンの後継者争いを巡ってトロツキーが逮捕され、アジア方面でも6月4日に張作霖爆殺事件が起こるなど、世界的に緊張が高まっていきます。日本国内でも6月29日に、改正治安維持法が公布され、天皇制を中心とする国体の変革を求める個人・組織への処罰として死刑・無期刑が追加されます。

日本陸軍のリガへの語学研修生派遣制度はその後も1930年終わりまで続きますが、平和な時代の最後にリガやタリンでのんびりと勉強が出来た河辺・柳田の両名は幸せだったのではないでしょうか。

(続く)



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