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リガ武官室へようこそ(Part 1) 陸海軍の横着から始まった日本・ラトビア軍事関係史

この連載記事では、在ラトビア日本公使館附陸軍武官室の視点から日本・ラトビア関係史を追います。

1924年初頭、2人の日本人がラトビア共和国の首都リガにやって来ます。1人は日本陸軍ロシア駐在武官の橋本虎之助中佐、もう1人は清水規矩(しみず・のりつね)という若い陸軍大尉でした。

橋本中佐はロシア帝国崩壊後に誕生した社会主義国家ソ連の情勢分析を担当していましたが、革命後まだ日本とソ連の間に国交が無く、ドイツの首都ベルリンに滞在して情勢分析を行っていました。

彼は当時、リガにあった日本外務省の「在リガ外交官出張所」(代表:上田仙太郎一等書記官)への挨拶を終えるとすぐにベルリンに戻ってしまいましたが、清水大尉はリガに1人残されました。

数日後、清水大尉は上田仙太郎書記官を訪問し、目下、ベルリンに滞在中の橋本中佐をソ連情報収集により便利なリガに「移駐」出来ないかという参謀本部の意向について相談します。これに対し、ベテラン外交官で外交業務に精通する上田は激怒します。

「ラトビアにはいまだに日本の公使館は開設されておらず、国家元首たるラトビア大統領に対して日本国家の代表として信任状を提出した特命全権公使もいない。そんな状況の中で、同じく信任状が必要な駐在武官だけをリガに置くのは考えが甘いのではないか」

外務省の中でも、1920年代に独立が確定したばかりのバルト三国に対する認識は甘く、外交書類の中でも国名を間違えるなど、上田仙太郎は新興国ラトビアに対する扱いの軽さに怒りを感じていました。

折りしも、前年の1923年9月1日に発生した関東大震災では、リガの小学生たちが集めた240円(現在の十数万円、当時の日本は「100円で一軒家が建つ」と言われた時代)の義援金が東京市の児童に送られるなど、ラトビアの日本に対する厚意を裏切るような事が許せなかったのでしょう。


ラトビア大統領府前の衛兵(2018年撮影)

清水大尉提案の橋本中佐リガ移駐案は外務省の反対もあって取り止めとなりましたが、今度は日本海軍が同じ事を繰り返しました。

1924年6月下旬、日本海軍の池中健一中佐がポーランドからリガに到着します。池中の任務もまた、リガからソ連海軍バルチック艦隊の動向を調査し報告する事でした。

池中のリガ赴任直前、すでに外務省は海軍省に対し、池中をラトビアにおける正式な日本の外交代表(駐在武官)として認めることは難しい旨を通知していました。公的な書類には残っていませんが、上田仙太郎が外務本省に対し、事前に警告していたのは間違いないでしょう。

しかし、翌1925年1月10日には、日本とソ連の間で日ソ基本条約が締結され、正式に国交が樹立されます。これにより、陸海軍のソ連情報収集業務はモスクワに新規開設された日本大使館附武官室に移管される事となり、ラトビアの重要性は低下します。

5月には、池中中佐にもロシア駐在海軍武官としてモスクワへの転勤命令が下り、慌ただしくリガを去って行きました。

日本・ラトビア軍事関係史は、このように新興国ラトビアを軽く見る日本陸海軍の横着から幕を開けたのでした。



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