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幸せとは?

自慢したい訳じゃないけど、「あなたは幸せですか?」と聞かれたら100%「はい
幸せです」と答えます。

べつに特に自慢できるものは何も持ってないです。お金も持ってないし、生まれもった特別な才能がある訳でもないし、地位や名誉も何も持ってないです。

さらにいえば、何かを成し遂げたみたいな実績もないです。

側から見たらもうすぐ50歳のただのサラリーマンのオッサンです。

小さい頃は母親に毎日毎日「鈍臭い鈍臭い」と叱られ「あなたは生まれつき他人より能力が低いのだから他人の3倍努力してやっと人並み。だから3倍努力しなさい」言われ続け育ちました。

なので、中学校3年生の中盤頃まで自分は何か障害があって生まれたんだと本気で思ってました。

そんな感じで育った結果、当然、何をするにも自信が無く引っ込み思案な性格で自分のことが大嫌いでしたよホント。

勉強はできないし運動もできないし、得意なものなんて何もないんだから地獄でした。

でもまあ、今となっては懐かしい思い出です。そんなんでも好きなものや楽しいと思える事があったし、多くはないけど友達にも恵まれた。

そんな幼少期を過ごしてきて社会に出たら出たで、ザ昭和価値観に縛られる訳ですよ。更に団塊ジュニア世代。

北海道の中でも閉鎖的な中途半端な都市で育ったので他の価値観を知ることができず、自分の置かれている環境が全てでした。そして頭も悪いので知ろうともしなかった。

お金、地位、名誉といったステータス。そんなものが男にとって最も価値のあるものと植え付けられ、それらを持たない男は負け組と称された。

子供の頃は何も自信が持てなく引っ込み思案な性格だったけど成長するにつれプライドばかりが高いイキった若者になってた。

誰にも馬鹿にされない男を目指して生きてて今思えば間違ったプライドを持ってしまった。

長い間、社会から植え付けられた昭和価値観に縛られ苦しんできました。

でも、そんな時でも幸せを感じることができる瞬間は沢山あり目指したものには未だになれていないけど、本当に100%「幸せ」と思う。

それは何故かっていうと「幸せの基準は他人が決めることではなく自分が決める」ことだと気がついたから。

もっと正確に言うと「決める」でも無く「感じる」もの。

どの瞬間、どの場面で幸せを感じるかは、ひとそれぞれ全く違うってことに気がつくまでかなりの時間を使ってしまったけど、よくよく考えて思い返してみると子供の頃に経験した他人の目など気にせず無邪気に夢中になっていた、あの感覚を大人になるにつれ、みんな忘れてしまっていただけなんだと気がついた。

僕の仕事の中に氏子参りというものがある。

北海道では数は少なくなってきたけど未だ各家庭で神棚を祀る習慣がある。

各家庭を一件一件訪問して、その家で祀る神棚の前で日々の暮らしに感謝し家内安全を願い祈祷する。ご祈祷の後は大抵お茶やお茶菓子が出され色んな世間話をして帰る。

若い頃から、この氏子参りを通して多くのことを学ばせてもらった。その中でも印象に残っているのは、残り少ない寿命を迎えられたある氏子の方からの言葉だった。

その氏子さんは自分の死期を知り「神主さん、随分長い間生きてきたけど何もない、本当に何も…。あるのは小さい頃に友達と兄弟で無我夢中で遊んだ記憶だけだ」と言われた。

「それなりに若い頃から仕事も頑張ってきた。それなりのお金の蓄えもある。海外旅行なども沢山経験してきた。でも、今あるのは本当に心が躍ったあの時の記憶だけ。」

そう言い残してこの世を去りました。

棺が焼かれる瞬間、ご家族の「お父さん、ありがとう」って泣きながら感謝している様子を見て、「お父さん。何も無くないじゃないか。きちんと受け継がれる魂を残したよ」と僕は告げ見送りました。

この氏子さんから、あの世に持っていけるものがあるとしたらお金でも地位や名誉でも無く心躍る瞬間の記憶だけと僕に教えてくれました。

幸せの正体

医学的にはオキシトシンやらドーパミン、セロトニンという物質が、どうのこうのいうのだろうけど、魂が輝く瞬間、躍る瞬間などは本人でしか味わえない感覚だろう。

この魂の感覚を忘れず大事にして生きていきたいと強く思いました。



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