幸せとは、不幸が何かを識っていることさ。
「幸せとは」。
人生の永遠のテーマですね。
以前、インスタで書いて欲しいトピックを募集した時に、数あるリクエストの中でも最初に届いた、友人からのリクエストです。
僕の大好きで大事な言葉と絡めながら、幸せって何なんだろな、って考えていきたいと思います。
幸せとは、不幸が何かを識っていることさ。
少し哲学チックで、小難しいよね。
でも、この言葉は真理を突いていると思うんです。
幸せというものは、個人に存在する絶対的な何かの様に見えて、実は極めて相対的、つまり環境や外的要因によって常に変化しうるものなのじゃないでしょうか?
考えてみましょう。
さて、想像してみましょう。
<紛争地域に暮らす時>
今、とある国の紛争地域で、日々死と隣り合わせ、生きる事がギリギリの生活を送っている事を想像してみてください。
僅かな食料と水を分け合いながら薄暗い、埃まみれの壕でやり過ごす。遠くから銃声や爆発音が聴こえてくる。死の音は、少しずつ近づいてくる。また、移動しなければならない。そうして、目的もあてさきもないまま、いつ紛争が終わるかも分からないまま、延命していく。
そんな状態で、彼ら彼女らにとって、幸せとは何でしょうか。
それはきっと、約束された生命でしょう。
豊富な食べものと水でしょう。家族や友人との安らぎの時間でしょう。
<ロシアがまだソ連だった時>
また、ロシアがまだソビエト首長国連邦という名前だった時代、スターリン政権下のソ連は文化的抑圧が徹底されていました。彼が政敵だとみなした人は皆投獄・殺害され、その1930年代はアーサー・ケストラーによって『真昼の暗黒』という小説にされ、有名でもあります。
スターリンの死後も彼は彼自身が作った政治的体制に生き続け、国民の心を深く縛り、絶望の底へ追いやりました。
その後、フルシチョフが政権を握り、文化的抑圧からの解放を推し進め、ソ連の人々は数十年ぶりに将来の希望を感じる事ができました。
教育、スポーツ、芸術、技術といった機会が戻って来て、それは希望に満ちた時代であり、このフルシチョフ時代の数十年続いた抑圧からの軟化は「雪解け」と呼ばれています。
この時代、人々にとっての幸福は、若さと健康、そして知的好奇心でした。
何より、自由とチャンスを持っていることでした。
この様に、人々にとって幸福とは、知らず識らずのうちに極めて環境に依存しているのです。
彼ら彼女らはそういう事はきっと自覚しておらず、人生において幸福とは安寧である。自由である。そう考えていたことでしょう。
その後、その幸福を手に入れた彼らは次の幸福を探すでしょう。
安寧を手に入れた人々は、次は豊かな生活を幸福と定義し、求めるでしょう。自由を手に入れた人々は、次は精神的に満たされる事を望むでしょう。
幸福の定義は、環境によって日々アップデートされていくのでしょう。
たとえ話は終わり。
この国、この時代にとっての幸せとは
僕たち、2020年の日本で暮らす僕たちにとって、幸せとは何なのでしょうか。
歴史から学ぶと、そこにヒントがあります。
それは、彼らは皆すべからく、不幸を識っているということ。
あえて「知る」ではなく「識る」と表現している事には意味があります。
「知る」という事は、情報としてしっているということ。
「識る」というのは、自分の目で見て、聴いて、感じ、経験しているという事。本当の意味でそれが何かを認識し、解っているという事。
知ると識るの間には、深い溝と距離があるのです。
紛争地域で死と隣り合わせで暮らす人々も、スターリン政権下を生き延びたソ連の人々も、不幸が何かを身に沁みて理解しているのです。
僕たちが幸せについて悩み、時に生きる事への絶望さえ抱くのは、きっと、僕たちが不幸というものを正しく識らないからでしょう。
(もしくは識っていても、ちゃんと腑落ちさせてないこと)
僕たちの時代の日本社会は、間違いなく物質的に豊かであり、満たされています。
かの有名なマズローの5段階欲求では承認欲求、自己実現欲求の域に達しているでしょう。
(マズローの5段階欲求:人間性心理学の生みの親、心理学者アブラハム・マズローが「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階に理論化したもの。)
つまり、幸福というものが極めて個別化され、それぞれの人生に意味や意義を見出そうとする時代なのです。
不幸を識ることが難しい。物質的には満たされているから。
だから僕たちは皆、かたちのない不安や、絶望の海で溺れそうな感覚を、常に心のどこかに感じてしまうのでしょう。
しんどいよね〜〜〜〜〜
だからこそ
だからこそ、僕たちは不幸について考えなければならないのです。
自分にとって不幸は何か?何が嫌か?何が苦しいか?何に悲しむか?何に怒るか?それをきちんと自分で識る事が大事なのです。
人間の感情を喜怒哀楽に分けた時、「喜」「楽」は基本的に皆似た様なもんでしょう。ご飯が美味しかった、恋が実った、夢が叶った、大好きな友人が結婚した。「喜」「楽」は非常に共有しやすくできています。
なら、「哀(悲)」「怒」は?人によって結構違うと思いませんか?
貴方が許せないものを、「そんな怒らなくて良いじゃん」と言われる。貴方が許せるものに対してブチギレたり、涙を流す人がいる。
つまり、その人をその人たらしめる、つまりその人の本質というものはネガティブな感情にこそ隠れているのです。
僕たちが何に怒るか。何に悲しむか。それは、家でのんびり考えるだけでは分からないでしょう。考えるための素材、つまり感情が振れた経験が必要ですから。
だから、行動を起こさないといけないのです。新しい環境に飛び込み、挑戦し、失敗し、人と触れ合う。ぶつかり、傷つき、やさしくなる。苦難を乗り越える、つよくなる。
そうした経験を重ね、自分の中に感情や体験のサンプルが溜まってこそ、自分にとって、ぼんやりとしていた不幸がくっきりと輪郭を帯びてくるのです。
なんか、分かって来ましたね。
幸せとは
だから、この言葉なのです。
自分にとって何が不幸かを識っていること。
それは、自分にとって幸福が何かを識っていることなのです。
そして何より、貴方だけの本当の苦痛、辛い事をちゃんとわかっているという事は、貴方は日々、そこらに溢れている小さな幸せを見逃さないということ。
貴方の日々は小さな幸せに溢れる様になるということ。
向き合いましょう。自分と。
沢山、新しいことを知って、新しいものや人に触れて、体験し、何が不幸かを識りましょう。
最後に、もう一度、一文だけ添えて。
幸せとは、不幸が何かを識っていることさ。
そして不幸とは、幸せしか識らないことさ。
きっと、僕たちの人生は僕たちが見つけれないだけで、日々、幸せに満ちたものなんでしょうね。幸せしか知らないから、気づかないだけであって。
おわり
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あとがき
リクエストをくれた彩実、ありがとう!
自分の中でぼんやり考えてたことを言葉にするきっかけになりました。
中々綺麗にまとめられて、凄いすっきりした!よかった!
感謝です。本当にありがとねん!
そして最後まで読んでくれた皆さん、これからも、都度トピックを募集してますので、いつ書くかは約束できませんが、またよろしくお願いします〜!
そして、いつも感想をくれる人!
長文で送ってくれる人、応援してくれる人、もう本当に大好きです。
皆からすると些細な一言かもだけど、僕からすると、note書いてて良かったー!てなります。笑
特に、僕のnoteは結構人生観の話が多く、つまり僕の人生そのものなので、それを褒められると生まれて来て良かったなぁ、とか思えるのです。まじで。まじで嬉しいのです。
そんな訳で、感想もトピックもどしどし応募中です〜〜!
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