四姉妹のお産のこと【伊勢さんちの四姉妹】
2022年2月13日(日)午後5時11分、伊勢家待望の四女が誕生した。
30代後半かつ四人目のお産ということで母体への負担が心配されるうえに、さらにコロナ禍、しかもオミクロンなる輩が蔓延る未曽有の社会環境のなかでの出産ということもあり、家族の不安は相当なものだった。
子をお腹に宿している妻は、私たち以上に不安な日々を送っていたと思う。
それは、現在、妊娠している方やこれからお子を授かりたいと願っている人たちにとっても同様で、そんな方たちに向けてという意味も込めて、今回は、私たち一家が四度経験した〝出産〟について綴ってみようと筆をとってみた。
四回という経験もさることながら、私たち一家が体験した出産はなかなか珍しいパターンでもあるため、記事にすることで参考となる人もいるかもしれない。ぜひ、ご一読を……。
長女の出産(逆子で帝王切開術)
長女は逆子だった。
はじめてのお産、しかも、妻はこのとき25歳。「母になる」ことへの覚悟ももちろんだが、出産に関する知識なぞほぼなく、もちろん、28歳の私なんかはそれ以上に「父になる」覚悟も出産という奇跡に対しての知識も皆無だったわけで、体験から感情まで、すべてがはじめてのことだらけだった。
10年以上も前のことになるので、当時のことを事細かに思い出すのはなかなか難しいけれど、とにかく、当時から妻は「自然分娩」にはこだわっていた。
何も崇高な思想などがあったわけではないのだが、もともと好奇心旺盛なタイプの人間なので、彼女のなかで、「女性として生まれたからには、その性でしか経験できない体験、それこそ痛みや苦痛を感じてみたい」という想いが強くあったようなのだ。私からすれば、だいぶトンがってる考えだなと思うのだが(笑)、だからこそ、ギリギリまで帝王切開術という判断を下さずに、逆子体操などを行ない、胎位が変わってくれることを願っていた。おなかをさすりながら、「回転してねー」など、おなかの中に向かって語りかけていた気もするが、結果、長女は最後までかたくなだった。
お産は胎児からのメッセージとも考えられるので、つまりはこれが長女のなかでは〝自然〟なことであり、そうやって生まれてくることで、私たちに何かを伝えたかったのかもしれない。いまだに、子育ての先発隊として〝様々な初体験〟を私たちにもたらしてくれている長女なだけに、私たち夫婦に、バラエティーに富んだイロトリドリのてんこ盛りな〝メッセージ〟を持参して生まれてきたのではないかと考えている。
ちなみに、逆子については、以下のサイトに詳しいので、現在、悩まれている方は参考にしていただきたい。
そして、帝王切開術をすることになった。
狙ったわけではないけれど、手術の日は七夕だった。
初のお産に立ちあうことができないのは残念だったけれど、出産日が決まっていただけにお互いの家族もかけつけ、待機ルームにて、手術前の団らんを楽しむ余裕があった。
オペの間はソワソワしたが、オペ室から出てきた妻と長女を皆で歓迎、両家にとっての初赤ちゃんを賑やかに迎えることができた。
今は亡き妻の父が妻の頭をなでた瞬間の映像が今でも思い出せる。
平成21年7月7日午後2時44分。2248gという小さな体で、小さな命が舞い降りてきた。
この日は、七夕には珍しく月がキレイに見える日で、病院から出たあとに見上げた空のことも今でも覚えている。そしていつか、壮大なる天の川を眺めることができるような、星降る地に連れて行こうと、心から誓ったことも覚えている(※まだ実現できてはいない)。
次女の出産(帝王切開術後の経膣分娩)
次女は性格が優等生タイプなのだが、出産も優等生で、胎位としては申し分なく自然分娩ができる状態だった。
とはいえ、帝王切開術のあとの自然分娩は一般的ではない。
私自身が帝王切開術で誕生したのだが、翌年に生まれた妹も同じく帝王切開術だった。
けれども、長女出産後も、妻はどうしても自然なお産を体験してみたいと考えていた。むしろ、帝王切開術を体験したことで、よりその想いが強くなっていたのかもしれない。
だからこそ、わざわざ地元の病院ではなく、そういったトライが可能な病院を調べ、相談に行き、自らが動くことで自然分娩での出産にまでこぎつけたのだ。私自身は、トントン拍子に話が進むものだから、それがどういうことなのかを理解することもなく、妻のエネルギーの流れにただただ乗っかっていただけだった。
TOLAC(帝王切開後の経腟分娩の試み)、そしてそれが成功したことを VBACと呼ぶそうだが、実はこの言葉はこの記事を書きながら初めて知った。
気になる方は、取り急ぎ、以下を参考にされたし。
とはいえ、当時の妻も今の妻も、この用語の検索はしないようにしているらしい。曰く、「いろいろ出てきて怖いから、私は調べないようにしてる」とのこと。おそらくは失敗例などが恐怖なのかもしれないが、いずれにせよ、次女は無事にVBACができたので結果オーライだ。
しかも、冒頭にも書いたが、超絶優等生な彼女は、なんと病院にたどり着いてから2時間で〝スポンッ〟と生まれてきたのだから拍子抜けというか、助産師さん含め、皆で相当驚いた。
もちろん、どのお産もしっかりと覚えているが、この日のことはいろいろな意味で忘れられない出産だった。
というのも、実は、前日に陣痛らしきものがおこり病院に相談に行ったのだけれど、「もう少しだねー」ということで一時帰宅していた。
そして、その日の真夜中に「むむむ、これは陣痛だ!」という症状が出てきたっぽいのだが、なにせ、長女で陣痛を経験していないものだから、また病院に行っても引き返すことになってしまうかもしれないと考え、なかなか出発できずにいた。
私は、当時、とにかく最強にブラックな編集プロダクションにいたものだから、連日会社に泊まり込んだりしていて、この日ももれなく会社で作業をしていたところに連絡が入る。
「始発で向かうね」
と、メールをもらったときは、まさにひと仕事終えたところだったので、通過する駅で待ち合わせをしてふたりで向かうことになった。
ん? いったん冷静になって考えてみよう。
妊婦さん、しかも、陣痛が始まったっぽい妊婦が、電車に乗って病院に向かうってありなのか!?
である。
いやいや、否! でしょう、ふつう。
だが、このときは誰もが冷静ではなく、何を血迷ったのか、のんびり気分でほぼ乗車客のいない始発電車に揺られながら病院のある駅へと向かっていた。
そして、事件が起きる。
そう、目的の駅のひと駅手前で〝破水〟したのである。
「キャーーー!」である。
むしろ、「ギャーーー!」だったかもしれない。
慌てふためく我々は、とにかく目的の駅に着いた瞬間に病院に電話をし、さらに速攻でタクシーを拾って病院まで急いでいただいた。なぜに、自宅からタクシーで来なかったのか!? 次女出産時の最大の謎とされる案件だが、当時に想いを馳せてみると、おそらく本当に「お金がなかった」のではないかと思われる。最高に多忙な仕事をしておきながら薄給だったので、妻自身もタクシー代のことを考えて、電車での移動を選択したのだろう。今思えば、「いくらなんでも……」と感じるが、健全なお産を目指すこと以上に家計問題のほうが重要度を占めていたのかもしれない。
そう考えると、当時の我々、結構いじらしい。
って、結果オーライだからよいものの、下手したら大惨事の可能性もあったわけなので、良い子は絶対に真似しないように(笑)。
そして、そんなテンヤワンヤがあったからなのか、破水後もタクシー乗り場まで歩いて行ったからなのかはわからないが、ベッドに寝かせられてから約2時間後……。まさに、〝スポンッ〟と誕生したのが次女なのだ。
帝王切開術後の自然分娩ということを忘れるほどに、それはもうあっけなく……(笑)。
え? もう終わったの!!?
と、その場にいた誰もが思ったことだろう。
平成23年4月26日午前8時25分。3000g一歩手前の2944gという素晴らしく健康な状態で、小さな命が舞い降りてきた。
まだ2歳になる前の長女が、不思議そうな表情で降臨した妹を眺めている姿が愛らしかった。
三女の出産(7年後のVBAC)
三女も同じくVBACとなった。
「帝王切開術のあとに自然分娩をしてみて、自分の中では自然なお産のほうが体的にも負担ではなく、いかにナチュラルなことなのかを身をもって知ることができた」
次女をVBACしたときの妻の感想で、2時間での出産という安産だったからかはわからないが、とにかく、「生まれた瞬間は痛み以上の快感を得た」そうで(※そういう感覚になれるのがまたスゲー)、そんな体験があったからこそ、三女も可能な限り自然分娩するつもりでいたのだ。
とはいえ、次女出産から7年のときが過ぎているだけに、帝王切開術後というよりも、そもそも母体的には大丈夫なのか? など、やはり心配は尽きない。
けれども、なんだかんだで夫婦ともども年をとり、長女と次女を数年にわたって育児してきただけに、根性やら肝もすわったというか、とにかく私たちの気持ちにもゆとりがあり、ドンっと構えて出産に臨むことができていた。
もちろん、陣痛が起きたら即タクシーを呼べるように、「陣痛タクシー」なるものにも登録、いつでも移動できる状態を整え、準備も万端だった。
そう、タクシー代だってケチらない。さすがに30代の大人だし。
もとい、ちなみに、まだコロナ禍前であるこのときは、複数人で出産に立ちあうことも可能であったため、当初は私と長女と次女と、家族全員で母を応援するつもりでもいた。
だが、三女は母と父を独り占めにしたかったのか、長女と次女が体操クラブのスキー旅行に行っているときに生まれてきやがったのだ(笑)。
しかも、もしかして大晦日!? いやいや元旦ベイビーか!? と期待していた我々をあざ笑うかのように、大晦日の前日に降臨したのである。
そして、三女は難産だった。
いや、難産と呼ぶべきかどうかはわからないけれど、兎にも角にも〝なかなか出てこなかった〟のである。
太陽が昇り始めたころ、妻と共に陣痛タクシーに乗り込み、朝焼けを見ながら、「次女のときが2時間だっただけに、今回も早いかもしれないから、タクシーのなかで破水しないか心配」などと言っていたことは杞憂に終わり、たっぷりがっつり〝お産のたいへんさ〟を体験させてくれたのだ。
次女とはうってかわって、待つこと2時間にプラス10時間。とんでもなく時間のかかったお産の一部始終を記しておこう。
病院入りしてから、速攻の出産に備えて、カメラなどをあわてて準備していたものの、まったく一向に生まれてくる気配がない。
「出ようかなー、あ、やっぱりやーめた。もう少しおなかにいようっと!」みたいなノリで、のらりくらりとマイペースにおなかの中で何やら企んでいたようだった。
まさに今の性格にそっくりじゃん!(笑)
もったいぶるねー。
ちなみに、12時間もの激闘だっただけに、途中、病室でカップラーメンを食べてみたり(私だけ)、お産体操的なストレッチをしてみたり、足湯をご用意いただきひとっ風呂あびてみたり、ポールを握りながらの踏み台昇降運動をしてみたりと、とにかくありとあらゆる出産を促すあれこれにトライした(※カップラーメンを除く)。けれども、全然出てこない。
これ、あれね。天照大御神が天岩戸に隠れてしまって、あの手この手で彼女に再降臨を求めていたエピソードに似てるね(笑)。
神さま仏さま三女さま、お願いだからそろそろ出てきてくれないかなー!?
と、何度も何度もお伺いして、ようやく降臨したときには、もう妻も私もヘトヘト状態だった(※あまりに長いものだから私の母も駆けつけて、最終的にはうちの母も出産に立ちあった)。
相当なねばりを見せていたので、これはもしかしたら、今日旅行から帰ってくる長女と次女も間に合うか!? と思っていたのだが、ところがどっこい、それは頑なに拒否なのか、姉妹が到着する寸前、「今、車で向かってるよー!」な状況で、「あ、そろそろ生まれよっかな」みたいなうっかりなノリで、〝ヨイショ〟とお生まれあそばされたのである。
あ、とはいえとはいえ、感覚的には、次女のときの〝スポンッ〟的な感じではなく、〝エイヤーッソイヤーッ〟という、たいへん気合いの入った感じでの出産だったのは間違いない。
平成30年12月30日午後7時00分。激闘を繰り広げつつも2348gというチマっ子感で、小さな命が舞い降りてきた。
誕生直後に到着した姉妹と、姉妹を連れてきてくれた妹ファミリー、さらに叔母や祖母など、たくさんの人たちが駆けつけて、三女の誕生を喜んだ。はじめておくるみを着せたのは、事前に「キッザニア東京」にて助産師さんの仕事を体験していた次女だった。
四女の出産(華麗なる出産)
四女はお産のお手本とでもいうべきほどに、美しく降臨なされた。
個人的には、もはやコレは芸術では!? と感じるほどで、病院入りしてから約4時間での誕生となった。
とはいえ、コロナ禍での出産ということで、病院入りするまでには相当ハラハラさせられたのも事実である。
なにが戦々恐々かって、世の中は絶賛オミクロンが一世風靡していた時期で(※今も?)、デルタやなんやの時代はとくに周りでの感染などの話を聞いていなかったのだけれど、オミにかんしては次々に周囲での感染者が出てくるなど、なんだか、とうとううちの外堀まで埋められてきた感があり、出産前の家庭内パンデミックだけはなんとしても避けなければならなかったのだ。
しかもプラスして長女の中学受験もあったため、よもやよもや……。もっとも外での活動が多い私が細心の注意を払わなければならないことは明確で、年が明けてからは極力の自粛を頑なに守ってはいた。
ただ、〝どんなに注意していても……〟現象が蔓延ってもいたので、こればかりは神頼みに近い祈りを常に捧げていたように思われる。
2022年2月22日が予定日という、とんでもなく縁起のいい日取りだったのだけれど、もはや四人目ともなれば予定日より早くお生まれになるのは確定事項で、案の定、2月に入るとすでにおなかはパンパン! 最初から〝男のコっぽいおなか〟といわれていたのが、後半はさらに突き出るようになってきて、「まさかの男のコだった! なんてオチはないよね」なんて話まで出ていた。
ちなみに、やたらとおなかのなかの四女を、「ミノさん、ミノさん(おなかのなかのベビちゃんのあだ名)」と言って可愛がっていた三女は、出産時期が近づくにつれて、四女は「火曜日」に生まれるのだと、ひたすら予言めいたことをつぶやいていた。
「もし火曜日だとしたら、バレンタインの次の日かー」なんて、皆でワイワイやっていた2月12日の真夜中……。
妻が陣痛らしきものを感じたのだ。
ここから先については、今回、出産の様子をYouTubeにて公開することに決めたので、以下の動画を観ていただき、四女の誕生を追体験していただきたい。
こちら、今後、中編、後編と続いていくので(※現状、前編のみ。中編は来週以降、後編は限定的に公開予定)、まずはさわりだけ観ていたくとして、このあとは、とにかく今回のお産で、四人目にもかかわらず、学んだことがいくつかあったので、それについて記しておく。
そう……。
「出産はちゃんと食べてから挑もう」
である。
今回、ちょうど昼どきにタクシーに乗り込んで病院入りしたため、食べるタイミングがないままに分娩室にたどり着いてしまった。
だからこそ、再三、助産師さんに「今、食べましょう! 少しでもいいからとにかく口にしましょう」と言われていたのだが、なにせ、出産前の母体ほど〝何かを口にするのがつらい〟ことはないという。この現象は妻だけではないはずで、そういう意味でも食べておける状態のときに食べておくのは、妊婦さんにとって必須なのである。
実はこの日、というか、少し前から、なぜだか私は、ヘミングウェイの「老人と海」を読んでいた。何を突然! と思うことなかれ。そう、カジキマグロとの激戦中、老人は、少しでも体力をつけようと、途中で釣り上げた魚を口にしているのだ。それも何度か。
これはつまり、ツール・ド・フランス的なロードレーサーの携帯食にも近いもので、長時間におよぶ闘いのためには、少しでもエネルギーを体に蓄え、そして、それをすぐにでも使わなければならない状況ということなのだ。
だからこそ、〝海〟で〝いのちのやりとり〟をしていた老人ではないが、妻も〝産み〟な〝いのちのやりとり〟をしているだけに、これはもう食べることが最重要課題でもあったのである。
そうは言っても、「食べたくない……」し、「できれば飲みたくもない……」というのが、このときの妻の状態であった。
そこで、〝妻の口に無理やり飲食物を入れる作戦〟を実行せよ、と、助産師さんから私に指令が発せられる(笑)。
三女ほどの格闘はなかったとはいえ、栄養が足りていないため、「あとひとふんばり」が足りないらしく、いかにエネルギーというものが、私たち生き物にとって大切なことなのかを痛感した。
後半戦は、とにかく「眠い」「疲れた」と、何やら思春期の子どもたちの定型文句のようなことをひたすら言っていた妻だったが、私の栄養補給大作戦が功を奏したのか、分娩台にのぼってから約4時間後、見事な〝いきみ〟と共に四女が降臨。助産師さんや私の歓喜の声をかき消すような力強い泣き声が部屋中に響きわたった。
「ミノが出てきた瞬間、私なにも言わなかったでしょ? あれね、感動の声を出したかったのに酸欠で苦しくて、声が全くでなかったんよ」
そう、こんなときでも〝マスク着用〟が義務付けられているため、とにかく、いまどきのお産は〝呼吸が苦しい〟という現象にも陥りがちなのである。実際、私自身もずっとマスクを着用していて、妻ほどのハードな運動を求められているわけでもないのに、相当呼吸はキツかった。
妻の場合、出産直前には酸素マスクが装着された。
それくらいに呼吸困難となる可能性が高いのが今のお産なのである。
兎にも角にも、無事にミッション終了。
令和4年2月13日午後5時11分。赤ちゃんのお手本のような産声をあげながら、2844gの小さな命が舞い降りてきた。
追伸、退院の前日に、出産時に最初から最後まで担当してくれた助産師さんが、わざわざ妻の病室に来て、こんなことを言ってくれたそうだ。
「コロナ禍で分娩自体が本当に減っていて、しかも、タイミング合わなくて立ちあえないパパも多くて……。そんな中で、とても感動したお産でした」
「(生まれた直後に)おふたりがずっと、『かわいい! かわいい!!』を言い続けてたのがすごく印象に残っていて、愛が溢れてていいなぁと思いました。私も赤ちゃん産みたくなりました」
最後まで焦ることなど一切なく、常にやんわりとした優しいオーラで妻のお産を見守り、スムーズに進行してくださった助産師さんに、心の底からの感謝を申し上げたい。ありがとうございました!
妻のこと(四人を産んだ母強し)
最後に、四人もの赤子をその身に宿し、しかも一人目が帝王切開術だったにもかかわらず、その後の三人を自然分娩で無事に出産することができた妻について綴ってみよう。
四姉妹のお産……。その経験は何よりも代えがたいものであり、茨の道を歩もうと覚悟を決めた決断力もさることながら、最後までやり通したその精神面での強さと、最後までやり通すことができた肉体面での強さ、どちらが欠けても成立しなかったであろう。
〝健全な精神は健全な肉体に宿る〟ではないけれど、四人目を出産したときの妻の姿は、なかなかどうして神がかっていて、それこそ何かがその身に宿っているのではないかと錯覚するほどに、神秘のオーラを発していた。
そして、なんというか、美しかった。
「今回のお産は、とても美しかったね」
と、出産の翌日に妻にLINEしたのだが、何かと心配が尽きない世の中ということもあったからなのか、とにかく、私の心はおおいに揺さぶられ、これでもかという勢いで震えたのである。
夫としてこんなにも誇らしいことはない。ないのだけれども、妻と四人の娘たちの絆の深さを考えると、うらやましいという感情すらも浮上する。
多くの生物にいえることかもしれないが、正直、私たちオスにできることといえば、仕事をして彼女たちを守り続けていくことだけで、もちろんそれも大切なことではあるけれど、実は代替が可能だったりする。
けれども、〝母〟という存在は、限りなく代替不可能なものなのだと思う。
妻と四人目が自宅に戻ってきてからというもの、〝母〟がいかに偉大なものなのかを目の当たりする日々を過ごしている。
最後の最後に、もうひとエピソードを……。
四女出産の直前、妻は一瞬寝落ちをした。
「生まれる直前に寝落ちというか、一瞬意識が飛んでたんだけど、そのとき、ゆっち(長女)が生まれた日の夢を見たの。そしたら最後のひとふんばり、頑張れた!」
これぞまさに、〝母強し〟!
そんなキミが愛おしいよ。
そして、そんな妻に、心からの尊敬と感謝の意、そして、深くて強い愛を捧げたい。
本当に本当にありがとう。
2022年3月4日
妻と四人の娘たちに愛をこめて……この文を贈る。
夫および父より
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?