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妹をヌードのモデルに…「右腕を伸ばして座っている裸像」エゴン・シーレとゲルトルート・シーレ


 ウィーン・ミュージアムのコレクションから発見された「右腕を伸ばして座っている裸像」は、 オーストリアの画家エゴン・シーレ(Egon Schiele)が1910年に妹のゲルトルート(ゲルティ)・シーレ(Gertrude Schiele)をモデルに制作した水彩画です。

1910年 右腕を伸ばして座っている裸像 (英題:Seated Female Nude with Raised Arm)

 ゲルティはこの時代、ヌードで生計を立てていた兄の絵画モデルを度々引き受けています。二人は兄妹でありながら、近親相姦の関係にあったのではと推測されています。

 エゴン・シーレは1890年に、オーストリア国鉄トゥルン駅の駅長であったアドルフ・シーレと、チェコ系オーストリア人の母・マリーの間に誕生しました。父の仕事の影響から、子供の頃は電車に魅了された少年だったといい、何時間もかけて電車を描き、父を呆れさせたというエピソードが残っています。絵に没頭する一方、人付き合いはそれほど得意なタイプではなかったようです。内気で控えめだったエゴンは、運動と図工を除いては学校の成績が悪く、周囲からは少し変な子だと思われていたそうです。

 エゴンは幼少期から妹のゲルティに近親相姦的な感情を抱いていたようです。16歳のとき、まだ12歳だったゲルティを親の許可なくイタリアのトリエステまで連れて行き、彼女とホテルの一室で一夜を過ごしたというエピソードが残っています。またある時、部屋に閉じこもったまま出てこなくなった二人に不信感を抱いた父親が、中で何をしているのかを見るために、部屋のドアを破壊して踏み入ったというエピソードも残っています。この時、二人は部屋の中でフィルムの現像に夢中になっていたそうです。

 エゴンはゲルティのヌードを多数残していますが、その秘密のデッサンは長く続きませんでした。ゲルティが年頃を迎えた頃、徐々に兄を拒否するようになり、その後疎遠になったと言われています。二人の関係については2016年に『エゴン・シーレ 死と乙女』(2016年、原題:Egon Schiele: Tod und Mädchen)という映画も公開されています。

 エゴンは、妹とヌードデッサンに明け暮れていた時代から、性に対してかなり奔放で、特に自分より年下の女性にひどく執着していたと言われます。妹を相手に「右腕を伸ばして座っている裸像」を描いた翌年、まだたった17歳のヴァリ(ウォーリー)・ノイツィルと出会い、ウィーンで一緒に暮らし始めます。彼女は画家としてエゴンを惜しみなく指導し、支援していたグスタフ・クリムトのモデルも務めており、クリムトの愛人の一人であったとも言われています。

 エゴンとウォーリーは、ウィーンの閉鎖的な環境から逃れたいと考え、ボヘミア南部の小さな町チェスキー クルムロフ (クルマウ) へ移りますが、そこで町の10代の少女たちを(ヌードなどの猥褻な)モデルとして雇った疑いをかけられ、町を追い出されてしまいます。

 1914年、エゴンはウォーリーとの交際を続けつつ、ウィーンのヒーツィング地区にあるスタジオの向かい側に両親と住んでいた中流階級の家庭の娘であるエーディット・ハルムスとアデール・ハルムス姉妹と運命的な出会いをします。エゴンはより社会的に受け入れられることを目的に、中流階級のエーディットとの結婚を決めます。一方でウォーリーとの関係を維持することにも色気があったと言われますが、彼がウォーリーに状況を説明すると、彼女はすぐに彼のもとを去り、二度と彼に会うことはなかったそうです。

 エーディットはその後、彼のほとんどの絵画のモデルになりました。しかしエゴンの性への奔放さは相変わらずでした。彼はエーディットだけでなく、姉のアデーレとも密接な関係を持っていたそうです。後年アデーレの告発により二人の関係が明らかになっています。

 1918 年の秋、スペイン風邪のパンデミックがウィーンに到達すると、妊娠6か月だったエーディットはスペイン風邪にかかって亡くなってしまいます。一緒に暮らしていたエゴンも同じくスペイン風邪にかかっていて、妻の死からわずか3日後に亡くなりました。彼は亡くなった時、28歳だったそうです。

(了)

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