note.をはじめました
こんばんは。
シンガーソングライター遥奈です。
note.をはじめてみました!
こちらでも、うた・絵・漫画・映像など、自由に届けてまいります。
note.をはじめてやってみるという節目なので…
私のこれまでの人生と、今現在お届けしているような芸術表現活動に至るまでの経緯など、改めて書いてみようと思います。よろしければお付き合いください。
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私は、子どもの頃から絵を描く事や、音楽や、漫画(特に週刊少年ジャンプ)が好きでした。
小学生の頃からは、姉の影響から私もピアノを習わせてもらい、合唱団にも所属していました。
そして中学生になり、オリジナルのうたをかきはじめ、同じ頃からピアノ弾き語りという形でシンガーソングライターをはじめたのでした。
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子どもの頃(幼い頃)は、夢中になる事が好きな子どもでした。
思春期ごろから、私は内向的な人間になっていったと思います。
自分の思った事を発言して反感を買う事や、嫌われる事、笑われる事、裏切られる事を少しずつ知ると、「人は恐ろしい」と思うようになりました。
なので、必要以上に気を遣い、言葉を選んでいるうちに言いたい事が遠のいてしまい、結局伝えるのをあきらめる…という、暗くダサくてずるい人間でした。
そんな中で、なんとか自分を表現しようと手に取ったのが、ピアノとうたでした。
ピアノ弾き語りという形でうたう事で、
オリジナルで曲をかく事で、
いつも心の中で自分だけが見ていた景色や、説明できなかった思いを、表現できる事を知りました。
うたが好きというより、「うたの世界の自由さ」を愛していたと思います。
うたでなら、言葉(歌詞・詩)が音楽(メロディ)にのる事で、より自分の内側にある情景や思いなど、その質感のようなものが、鮮明に表現できると感じられたのでした。
それに夢中になっているうちに、少しずつですが人と関われるようになっていきました。
うたを通しての人との出逢いもあり、このような自分の世界を愛しいと思えるようになっていました。
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高校生になってからもシンガーソングライターの活動を続けました。その中で、ある大会に出場したのがきっかけでそのまま事務所に所属する事になりました。
その大会でうたったのが、私の内側で見た「戦争に向かう日本兵」という景色をうたにした「春と消えた」といううたでした。
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そして、東京で事務所に所属しながらのシンガーソングライター活動がはじまっていったのですが…
「売れるうたをかく」
「万人に受けるうたをかく」
当たり前ですが、このような事が一番に求められる世界でした。
そこから、私のうたづくりに対する考え方はどんどん変わっていってしまいました。
「何をどう歌えば売れるようになるのか?」
「自分は“女性ピアノ弾き語りシンガーソングライター”なのだから、どんな容姿で、どんな歌い方をすれば、多くの人に求めてもらえるのか?」
そればかりを考えました。
しかし、考えても考えても、自分には答えが見つけられませんでした。
自分の力不足をただただ痛感するばかりの日々でした。
その焦りから、ボイトレやひたすらジム通いをし、
無理な食事制限をして反動でくる過食、その繰り返し、
さらに「内向的な自分を変え、好感を持ってもらえるようになければならない」と、常に緊張しながら居た結果、ライブは失敗続き。
次第に心が疲れていきました。
自分も知らぬ間に真夜中に外を徘徊し、明け方新聞配達員の方に声をかけられ、ハッとする事もありました。
一人暮らしのはずなのに冷蔵庫に買った覚えのない缶コーヒーが並んでいくのが恐ろしかったです。
「人が恐ろしい」
その時の私は、自分もまわりの人々も、何もかもを疑って、恐れて生きていました。
そして、オリジナル曲をかきはじめた頃に感じていた「うたの世界の自由さ」など、私の中にはもうどこにもありませんでした。
事務所の期待には応えられず、うたもつくる事ができなくなり、気づいた時にはうたなどうたうどころではなくなっていました。
私はがんじがらめになり、完全に自信をなくしてしまいました。
◆
事務所をやめ、地元に帰ってきました。
家族の支えがなければ、今の私はここにいなかったと思います。(割愛します)母には特に迷惑をかけました。
本来であれば、帰る場所がある事、家族が支えてくれた事に感謝し、また立ち直ればよいのでしょうが、その時の私はそれもできず放心状態でした。
「うたを認められたかった、認められなかった」
やってきた努力が空回りであった事、挫折というものを思い知りました。
同時に、高校生の頃からずっと「売れる音楽づくり」というものとだけ戦ってきた自分にとって、もはや音楽は苦痛でした。
そんな中、地元でライブイベントに参加する機会をいただきました。
「音楽が苦痛」そう思っているのに、自分には他の事がまるで出来ず、それしか残っていませんでした。
「うたわなきゃ」「なんとかうたで復活しなきゃ」
と、うたわせてもらった地元に帰ってきてはじめてのライブでした。
すると、そこでうたをきいてくれる方がいる事を知りました。
私のうたで、喜んでくださる方や、涙を流してくださる方がいる。
東京で失敗ばかりのライブを続けていた私にとって、それは衝撃でした。
◆
次第に私の精神は安定していきました。
家族の優しさや、懐かしい家のまわりの景色を眺めたり海からきた風のにおいを感じたりして過ごしました。
生まれてはじめてのバイトもしました。(失敗ばかりでてんで駄目でしたが)
音楽でも新しい事をはじめるようになっていきました。
ギター弾き語りをはじめたり、違う楽器と合わせてみたり、アレンジをやってみたり、YouTubeでラジオ番組をはじめてみたり。
地元で活動されている音楽家や、支えてくれるスタッフさん、地元のミュージシャンやアーティストを応援してくれる方々との新しい出逢いもあり…
私はついに、「フリーで音楽活動をもう一度はじめよう」と決めました。
「あなたにとても会いたくなった」といううたを、自主製作CDで2015年4月28日に発売しました。フリーになってはじめてのCD発売でした。
◆◆
今、フリーになって音楽活動をはじめてから、4年が経ちました。
私は4年前のあの時、原点にかえる事を選択をしていたのだと、思います。
事務所所属時代に、どんなに背伸びをして、がんばって「売れるための音楽」をつくろうとしても、結局その答えを見つけられなかったという事は、
つまり、私はもうその時からその道を本心では選んでいなかったのだと思います。
「売れるための音楽」をつくる事が楽しくなかった、苦痛にさえなってしまっていた、つまり本当はやりたくなかったのだ、と。
では、私が本当にやりたい事は何だったのか?愛していた音楽はどこにあるのか?
それは、あの日の未来に生きている今ここの私の中に答えがすべてあります。
元々、夢中になる事が好きな子どもであり、
人を恐ろしいと思っていた臆病者であり、
そして、音楽でなら自分を解放できるという「うたの世界の自由さ」が何よりもうれしかった。
「そうだ、私は私のままでいられる自由を手にしたくて、うたをつくりはじめたんだった!」という事を思い出しました。
私が心の内側で見ていた景色や思いを、自由に現わせる「うた」というものを、本当はずっとつくりたかったのだ…。そんなうたを愛していたのだ、と思い出しました。
こんなふうにして、原点にかえる旅は4年前からここまで続いてきました。
この4年間にも、何度も何度もあの頃の苦しみの残骸につまずきはしましたが、家族や、支えてくれるスタッフさん、アーティストの仲間の方々、応援し続けてくださる方々のおかげで、歩き続ける事ができました。とてもとても、感謝です。
それに、今思えば、これまでのどんな挫折も、ここに心がたどり着くためにあった事だと思います。事務所に所属して、私の作品づくりには心の自由さがなくてはならないとても大切なものだと知る事ができました。事務所時代の多くの経験や出逢いにも、とてもとても感謝しています。
どんどん原点に戻っていくと、すべてを「自由さ」で選択するようになってきました。
すると不思議な事に、うたづくりはもちろん、そのアレンジや、絵を描く事も、漫画を描く事も、写真を撮る事も、映像をつくる事も、ラジオで話す事も、
私の中の表現方法になりました。
自分の内側の景色や思いを、音楽だけに括らずとも、自分がその時やりたいように最適な形で表現していいんだと感じるようになったのです。
下手だろうと、失敗しても、「自由さ(楽しさ)」を自分が感じられるかどうか?それだけが今では一番の私の心の基準となっています。
すると…、
もっと不思議な事に、私のもっと奥の原点にも触れるようになっていきました。
それは、私の過去生との出逢いです。
私は、日本兵として戦争で死んだ過去生の事を思い出したのでした。
それが、後に私という人間に転生し、「春と消えた」といううたになっていた事もわかりました。
過去生の記憶から、私はこれまでも作品をつくってきていたようです。(過去生や魂からのメッセージの事ついては、また別の記事にしてシェアしますね。)
大変長くなりましたが…
このようにして自分の内側の世界からどこにでも繋がる事ができる自由を、いろいろな形で表現して、これからも楽しく作品を届けてまいります♪
よろしくお願い致します♪
あなたの心の自由と共鳴が起きたなら幸いです♪読んでくださって、ありがとうございました。
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