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シーラカンスと僕


 茹だるような暑い夏の夜明け。百円ちょっとで買った冷たいペットボトルの水を煽る。外の温度と同化してしまった僕の身体に、冷たい、冷たい水が流れ込む。図らずも見上げた空は深い青の海、雲は僕の吐く泡。ペットボトルの中身が、僕の喉が鳴るたびに半分、また半分になっていく。冷たい水は僕の身体をふわりと浮かせた。漂うような感覚。
 空になったペットボトルを口から離し、近くのゴミ箱に名残惜しくも捨てる。
 確かに、僕は魚になっていた。

 面倒で開けっ放しだった玄関のドアを開けて、リモコンのボタンを押すと、画面の中では夜寝る前に観たニュースと同じだった。自分が世界から取り残されたような感覚なのか、それとも世界が進んでいないことに対するつまらなさなのか。僕はなぜか寂しくなった。テレビから視線を外し、ベッドの上に仰向けに横たわる。
 どこかに行きたい、自由に、気ままに。
 ふとテレビからゆっくりと泳ぐ深い海の主の映像が流れ出した。

 シーラカンス。

 百年以上の寿命を持ち、生きた化石とも呼ばれる。八つのヒレを持ち、ゆっくりと深海を泳ぐ。
 ベッドの上から、深い夜の中で、僕はその映像から目が離せなくなった。

 仕事終わりの僕。
 ここは本当の居場所なのか? 何度も自分に問いかける。生暖かい風のなか、足を止めて空を見上げた。頭によぎるのは昨日の映像。シーラカンスに魅せられた僕には夜遅くの街並みは深海に、灰色のビルたちは珊瑚礁にみえる。どこかへ泳いでいきたい。

―― それは一体どこ

 昨日のテレビによると、シーラカンスはかつてシャロー、つまりは浅い海にも生息していたそうだ。しかし、生物の大量絶滅という逃れられない運命から、生き残るため深海に沈む。光も差さない深海へ。さらにシーラカンスには肺が備わっているそうだ。深海の住人となってからは不要となったそれは、人間の盲腸のように体内に居座り続けた。
 シーラカンスも息切れをして、シャローへと戻りたいと思ったのだろうか?長い長い時の中、自分の身を危険に晒してでも、自分の居場所へと帰りたかったのだろうか?
 どうしても今の自分と重ね合わせてしまう。不条理な状況、自分に対しての焦燥感。そして、息切れ。ゆっくり、ゆっくりと泳いでいきたい、シャローへと。

 僕の中に住むシーラカンスが、僕をどこかへと走り出そうとさせる。あの青い目と目が合い、ウロコが僕の身体をなぞる。きっと行き先は、僕にとってのシャローなのだろう。こんな真っ暗な深海から、ゆっくりと泳ぎださせようとする。あの夜僕が魚になったんじゃない。僕の中に魚が泳ぎだしたんだ。飲み干した水は僕の中に海を造って、泳ぎだしたんだ。
 ゆっくり、そうゆっくり。

 帰り道、僕は一駅前で降りて歩き出した。電車の音が僕を追い抜いていく。一歩一歩、僕はゆっくりと進む。

 今までの僕は、この感情を捨てていた。泳ぎ出そうとする望みを。有るべき場所を探し戻る感情を。丸め込んで、ゴミ箱に捨てた。あの夜のペットボトルのように。けれども、僕の中には海がある。そして、ゆっくりと泳ぐ君がいる。

 どうか僕が僕のままあり続けられますように。

Fin.

オトノトショカンシリーズ。

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