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宿坊いってみた

はじめての宿坊。強風の月曜日、花粉の舞い具合を心配しながら、曹洞禅宗のお寺で「禅」の修行体験をしてきた。

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内容
・坐禅(40分×2回)
・法話
・精進料理(夕朝)
・朝のお勤め
・作務(そうじ)
・写経
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結論:世界平和だけでいい

本来なら1年以上お寺にこもって修行するところ、たったの1泊。一晩で何か変わるかな?と思ってたけど……帰るころには、私のなかの悪玉がポロッととれたようなラクな心地に。ホントかよ?って思われるだろうけど、ホントなのよ!!!

帰る前に書いた写経では、最後に好きなことばを選んで書けるとのことで「世界平和」を選んで書いた。

書いてるときに「もうこれだけでいいや」って心底思った。そのくらい、日々の執着を断捨離できた1泊だったと思う。

私をそうさせた、3つの教えをあらいだしてみる。

① 自己を捨てる

朝の坐禅のあと、有名な蜘蛛の糸の法話を聞かせてもらった。地獄に一本の細い糸が垂らされ、男がそれをつかんで必死に登ろうとする。ほかの人もあとに続こうと、どんどん糸に登ってくる。焦った男は下に向かって「やめろ!ちぎれるだろ!」と叫んだ。その瞬間に糸がちぎれてしまう……という話。

ちぎれた理由は、「自己」と「他己」を意識しすぎたから。本来、自分という人間はただのイレモノであり、そこには「自己」も「他己」も存在しない。しかし男には「自分こそ地獄から抜け出すにふさわしい人間だ」「他人は自分の足を引っ張る悪い奴らだ」という強い意識があって、それゆえに叫んでしまった。人の価値を自分のモノサシではかるような"貧しい制限"をかけなければ、どこまでも向上していける。これが禅の考え方らしい。

私は他人の目を気にしながら日々うじうじ生きているけど……これも蜘蛛の糸の話でいえば、「一生地獄から抜け出せない人間ですね、以上」ということになるのだろう。蜘蛛の糸に必死にしがみつきながら下ばかり見ている自分を想像すると、とてつもなく滑稽でバカバカしく思えてくる。

私みたいなもんは、自分のなかから「他己」を脱落させることが大事らしい。カンタンじゃないけど、このさき何十年も蜘蛛の糸ちぎりながら地獄で生きるほうがつらいのでこの話はいつも根底に置いておきたい。

② 今に集中する

食べる、はたらく、排泄する。「今この瞬間」の動作にスポットをあて、ていねいに毎日の営みをおこなうのが禅の教え。ご飯、トイレ、お風呂のときもなるべく音を立てず、動作に集中して黙っておこなう。TV観ながらご飯食べるとか、スマホみながら歯磨きするとか、「ながら」でやることは絶対にゆるされない。

なにか行動するときに目的を持つのもだめ。たとえばドライブするときも、「目的地に向かうための運転」ではなく「ハンドルを握るこの瞬間に集中する運転」でなくてはいけない。たしかによくよく考えてみたら「何もかもがまったく同じドライブ」というのはもう二度と訪れない。そのときの景色、風、音楽、会話はそのときしか味わえない。なのに、なぜかこの先何度も同じ体験ができるような気がしてしまう。

日々のルーティンもそう。特にそうじなんか「面倒いな〜」と思いながらやってしまいがち。でも、朝方にお寺の床をほうきではいてみたら、なんと尊い行為なんだ……と気づかされた。鳥の羽がちらほら落ちてて「こんな寒いのに鳥がこの近く飛んでくるのかな?」とか考えたり。ゴミ箱に桜の花が入ってて「季節によって落ちてるものも違うんだろうな」とか考えたり。「こんなに集中して床と向き合ってるの小学生ぶりくらいかも」と思った。今思えば、小学生のころの床掃除はそれなりに意味があったんだと思う。

夜19:00。お風呂上がり、部屋に戻るまでの渡り廊下で、ほてった体に涼しい風があたる。遠くの山には、ギザギザに連なった木々の影。風に揺れて鳴る鐘の音。なんだか日本昔話に出てきそうな情景。ぼうや〜良い子だねんねしな〜のBGMを脳内再生しながら、この景色も今しかないんだな……としみじみ思い、息を深く吸い込んだ。

③ 悟りを求めない

坐禅をくんで無になった先に、ピカーン!と何かがひらけるのでは……?とあわい期待を抱くなかれ。坐禅はただ座ることに集中する行為であって、何かを求めて坐禅をくむのは御法度らしい。さっきのドライブの話とも通ずるけど、何事も目的や欲望が先にあってはいけないということなんだろう。(お金のために働いちゃいけないとも言ってた)

ホントのこと言うと、坐禅は40分でもキツかった。雑念が浮かんできて考えごとばかりしちゃうし、呼吸を数えてみても集中できなくて途中で今いくつかわからなくなるし。しかも30分くらいすると、組んでいる足がだんだん痛くなってくる。それを乗り越えた先に無になることすら求めちゃいけないだなんて、厳しすぎやしないか?と思ってしまう。

宿坊から帰ってきてから、永平寺の修行僧の動画を観たけど……実際、修行僧もその厳しさにぶちあたってるみたい。永平寺では、厳しい1年間の修行を締めくくるラスト7日間、起きている時間のほとんどで坐禅をくむ一大坐禅イベント(?)がおこなわれる。(釈迦は、この方法で悟りをひらいたそう)ひたすら坐禅をくむ7日間……見ているだけでも足が痛くなってくる。

そんなつらい苦行を乗り越えたあとの禅問答がこれまたつらい。「7日も坐禅をくんだけど、私は何か変化したんでしょうか?」という問いに対して、「全然ダメ。悟りをひらこうとしてる時点でまだまだ」みたいに、全員だいたい一蹴されて終わる。手厳しいけど、何かを得ようとしている時点で愚問なのだろう。求めるな!!!ただ在れ!!!ということなんですね。

そして「世界平和」へ

一部の発展よりも万人の平穏。これはつねづね願っていたことだけど……自分のなかから「自己」「他己」「目的」を脱落させると、必然的に「願い」が色濃く残る。こうして、私のなかに最終的に残った言葉は「世界平和」だけになった。

今回の宿泊でだいぶ心がかろやかになったものの、俗世で禅の教えをまっとうするのはカンタンなことじゃない。またすぐ自己とか他己とかでぐるぐるする日がくると思う。

ただ、私と寺との相性がよすぎて、神より仏派(??)だと確信できたのは大きい。デジタルデトックスで集中力が高まるから、いつもより本の内容がさくさく入ってきたのもうれしかった。こころに仏を育てて生きていきたいものですね……

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