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真夜中三時、「本当は自分なんかいなくてもやっていけるんだと、バレてしまうのが怖い」と弱音を漏らした
真夜中三時、「本当は自分なんかいなくてもやっていけるんだと、バレてしまうのが怖い」と弱音を漏らしたのは私が心底愛する新宿のバーのマスターだった。(F『20代で得た知見』)
かつて「二十代の人生の質は、出会った言葉で決まる」と書いてある本を手にしたことがある。思えば人生に低品質も高品質もない。いまや未来もへったくれもない。しかし、私は当時若く、愚かで、傲慢だった。ならばと、数万冊の本を読むことにした。(F『20代で得た知見』)
深夜にそんな言葉に出会ったのは、偶然だった。
恋人と口論した勢いで、やけになってつくったTwitterの投稿きっかけだった。毎晩、通話をしていた。「お互い忙しいのに毎晩電話なんて。喧嘩するくらいなら無理に時間を取る必要はないよ」と口論の際は言い捨てたくせに、半年ぶりに電話が無くなった夜は何も手につかなかった。寂しくて、ひたすらSNSを巡回した。電話の時間がなくなったら仕事が捗る、なんて嘯きながら、それが強がりだったことに気がついたのは、電話が無くなってからだった。
持て余した虚無で、ふらふらと新しいアカウントを作成した。「猫より暇な文系大学生」と揶揄される、私立文系に通う自分を、自虐してハンドルネームを付けた。
それまで、恋人と繋がっていたSNSでは、何となくほとんど投稿しなくなっていた。「2ちゃんは便所の落書き」「SNSは感情の掃き溜め」という俗説は的を射た指摘だ。昼間に顔を合わせている時は、羞恥心や自制心というパンツを履いて押し込めている感情がある。SNSは、そのパンツを脱ぎ捨てた発言になる。ある文化人類学者は、人間を「パンツを履いたサル」と言い表したが、その表現を借りるなら、匿名のSNSに集まる我々は、パンツを脱いだサルだろう。
しかしすべてのリアルな人間関係と同様に、同じ場所に長くいると、しがらみが発生する。SNSを使い始めて半年もすると、普段リプを交わしている人から「こんど、リアルで会ってみませんか」と連絡がくる。1年もすると、SNSでもLINEでも繋がっている人が1ダースはできた。肉体関係を持った人も、その延長線で「付き合おう」と睦み言を交わした相手もいた。
「リアルとネットの差が匿名の有無にある」と述べたのは、2ちゃんねる管理人時代の西村ひろゆき氏だったか。水と油が混ざらないといっても、長年置いておくと、両者の境界は芒洋として混ざり合っていく。リアルとネットも身を浸す期間が長くなるなつれて、混ざり合い、境界線が希薄になっていった。
久しぶりに新しく作ったアカウントは、知り合いがいないことを、清々しさを感じさせた。
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