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感性を綴ること、自身の貧相な肉体を誰かに見られること

 今日は、冊子に載せる短編小説を書いていた。

 小説を書く行為は、自分と切り離して考えても、気恥ずかしい。

 高校から文芸部に所属して書くようになって、7年目だけれど、恥ずかしさは変わらない。

 自らの拙い感性を綴ることは、自身の貧相な肉体を誰かに見られるのと同じような気恥ずかしさを感じる。

 だから、というか、レポートや論文のような「これが好き!!」という生の感情を曝け出さなくても書ける無機質な文章の方が書きやすいと、思っていました。

 論理的な文章を読んで書く、という主にレポート形式の文系の成績評価システムのもと、曲がりなりにも4年生の現在まで限りなく首席に近い成績を保持し続けてこれたのは、無機質な文章を、無機質に書く事にはある程度の適性を持っていたからなのだろう。

 尤も、理系から「実験も、研究室への泊まり込みもない文系は遊んでばかりに見える」と揶揄される我らが文系の学問を、「勉強」と読んで良いからの話だが。)

 しかし、今年の春に友人の卒論を読ませてもらって、論文の形でも、伝えたい背理にある生の感情が、事例や論理の行間から滲み出るような疾走感の溢れる書き方を見て。

 「学問の形式に落とし込みつつも、こんな胸元を掴んで訴えるような卒論が書きたいな」と、思ったのです。

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