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人間の価値は、人間からはみ出した回数で決まる

人間の価値は、人間からはみ出した回数で決まる(ツチヤタカユキ『笑いのカイブツ』)

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 ツチヤタカユキが『笑いのカイブツ』にて、次のように吐き捨てた。

 「作家の作品のほとんどは恵まれたものが書いたもので、ひりつくような必死さに駆動されていないから、おもろないねん」

 ガツンと殴られた気がした。

 僕は、芥川賞と直木賞の区別もつかないし、本屋大賞も「なんかストーリーがうまいな」という薄っぺらい感想しか持てなかった。なのに、世間で評価されているものを分からないのは自分が未熟なのだと、面白くないことを自分のせいにして苦行的に"有名"な本を読んだ。

 ドストエフスキーを読み、スタンダールを読み、夏目漱石、中上健二、村上春樹を辿った。

 それでも、面白さは分からなかった。だからこそ、「おもろないのは、本が悪い」と吐き捨てる強さに目をしばたたかかせた。

 現代だと、高橋源一郎西村賢太くらいしか、いいものを書く作家はいない。彼らは肉体労働をしていたから、書くものが切実だ。それ以外の作家は、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というマリーアントワネット的な無自覚な恵まれたものを感じて、読んでいられない、とは強い思想だ。

 僕は自分に自信がない。自信がないから、世間で評価されているものに飛びつく。ひりつくような苦しさから逃げたくて本を読む。現実の自分が情けなくて、目を逸らすために、文字の世界に救いを求める。その気持ちは、宗教に救いを求める気持ちと、似ている気がする。 

 人生のどこかの線路の切り替えが異なり、宗教や異性に逃げられるなら、そちらに逃げていた世界線もあったかもしれない。

 ただ宗教は漠然としているイメージがあった。僕は俗物的な救いが欲しかった。すぐに現実を忘れたかった。悟りを開くまで10年も現実と向き合い続けたくなかった。

 異性も好きだ。女の子もおまんこもセックスも好きだ。でも、僕は裏切られるのが怖かった。かっこよくないし、挙動不審だし、モテたことがない。そんな僕が、異性に救いを求めても、お金を貢いでも捨てられるのが怖かった。

 裏切られないから、本に救いを求めた。大学の新歓には、人が怖いから一つも行かずに、1年生の前期はひたすらに一人でお昼ご飯を食べていた。必修の関係で、毎日のように授業が入っていて、毎日お昼を一人で食べた。誰も自分のことを見ていないのに、自意識過剰な自分が、「あいつ1人で食べてるやん」と耳元で囁き続けた。

 2年生になり、コロナが蔓延して大学がオンラインになったとき、不適切にも僕は安堵した。これで一人で学食で食べているところを、誰からも見られずに済む、と。一人でいる羞恥に呻きながら、さりとて一人を脱する行動を取らない自分は醜かった。

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