見出し画像

読書家とは、「人生のどこかの地点で、本の読み方に、独自性を持ち得た人」だ

 永田希氏「積読こそが完全な読書術である』を読んでいて、思い浮かんだことをつらつらと書いています。

 長くてまとまりのない駄文なので、物好きな貴方は眠れない夜に睡眠導入剤にでも使って下さい。

 もっと物好きな貴方が、もし最後まで読んでくれたとしたら(読まなくても)、貴方の読書観をコメント欄にぶちまけて下さい。

 さて、前置きじみた言い訳が長くなりましたがが、本文に入ります。

**
 読書家とは、「人生のある地点で、本の読み方に、ある独自性を持ち得た人」だと、思います。

 小学生の時は、教科書しかり、冒頭から一文ずつ音読するように、丹念に読んでいく読み方を指導されます。

 しかし、たとえ丹念に読んだとしても、一度読んだ本でも1週間も経てば、我々は9割を忘れてしまう。その本について紹介しようとしても、せいぜい3分も話すことができない。それ以上話せるとしたら、本紹介のYouTuberとして換金できる才能です。

 ピエール・バイヤールが『読んでいない本について堂々と語る方法』にて批判している論理も、この「たとえ丹念に読んでも、忘れてしまうこと」を基点に組まれています。

 丹念に読んだ人が、その本の一部しか読んだことのない人を、「お前はこの本を読んだとは言えない」と批判したとする。

 だが、両者とも内容の9割を忘却して、300ページの本でも3分程度しか話せないじゃないか、と。すなわち、「俺は完璧に読めて、お前はダメだ」と他者を批判できる、完璧な読みなんてものは、何処にもない事になる。

 村上春樹風にいうならば「完璧な読みなんて、どこにもないんだよ。完璧な絶望なんて存在しないようにね。やれやれ、僕は射精した。」とでも言うのでしょうか。

 もう一度言いましょう。「完璧に読めた状態」はドラゴンと一緒で、空想上の存在に過ぎないのです。

**

 もちろん人文学を中心に、「完璧な読み」を求める姿勢はありました。

 1700年代のオクスフォードを牙城として、書き手の思考を、行間から丹念に辿ることを是とするような、テクスト至上主義がそれに当たります。

 その際に引用された正典の一つが、T.S.エリオットなどでしょう。

 しかし、1970年代になると、フランス現代思想が世界の人文学部を席巻します。

 ソシュールの言語論以降の系譜をひく構造主義によって、「作者も、時代の枠組みに囚われている」と批判されるようになる。「唯一の正解の読み方」は無いと、述べられるようになる時代です。

**

 さて、2006年にバイヤールが『読んでいない本について堂々と語る方法』を書いた時代背景を丹念に整理すると、次のような問いが浮かび上がります。


 「正しい読み方」を失った構造主義以来、我々はどのような読み方で書物と向き合えばいいのか。


 以上を踏まえた上で、バイヤールの暫定的な回答が、「共有図書館」をつくることです。共有図書館とは、「その時代の読むべき重要な書物の総体」として定義されます。

 ここで言う、「重要な本の総体」とはなんでしょう。

 「重要な本の総体」に一つの答えを出す思考の補助線として、コンサルタントの山口周氏の体験談を引用したいと思います。

 山口氏は『独学の技法』にて、「コンサルティング入社後に経営学部出身でない身で、仕事にキャッチアップするために、2年間で200冊の経営学に関する本を読む計画を立て、実行した」と述べています。

 その上で、「読んだ本の10分の1の20冊だけ読めば、同じ効果が得られた。気づいたのは、200冊読んだ後だったが」と、嘆息気味に続ける。

 これは美学など、2000年の歴史がある学問と比べて、アメリカの大量消費・大量生産以降に、人類史上はじめて、「モノが余る」という現象に直面したビジネスサイドの需要を受けて、経済学から派生的に生まれたマーケティングという学問は、せいぜい100年程度の歴史しかないことと関係している。

 100年程度の中で、参照されるべき本は、20冊程度で、そのコアとなる思想のみ抑えてしまえば、他の本は、「あの本の思想を薄めただけ」「この本の対象範囲を応用しただけ」と敷衍的に理解することができる。

 具体例が長くなりました。戻します。
 つまり、バイヤールの「共有図書館」とは、そのような、押さえるべき重要な数十冊の限られた書物を指します。

 しかし、ここまで思考を進めると、新しい疑問が生まれます。それは「そんなピンポイントに、重要な書物ばかりと出会えるのか」という疑問です。

 確かに、初学者なら大学の教授の薦める本は、その分野の重要書物である可能性が非常に高い。

 教師の仕事は、教科書を読み上げる事ではなく、膨大な知識の中から、「まずはこれを1冊丁寧に読み込むと、他の書籍100冊もすっと理解できる」と道標を付けること、とは國分功一郎の言葉だが、頷けます。

 しかし大学のように学問が整備されていない分野、もしくは自らが学び終わって教える側となり、フロントラインを切り拓いていく側に立った途端、教えてくれる人は一気にいなくなる。

 この時、「共有図書館」をどうすればいいのか、雛鳥が口を開けてエサを貰えるのを待つように、正解を求めていた我々は途方に暮れるのだ。

 これは、経済的な正解が追うべきところにあり、その比嘉の差を差分として詰めればよかった時代(高度経済成長期)から、非我の差分を抽出できないほど、2位の経済大国となった日本が、一気にビジョンを失って経済停滞した実情と似ている気がするが、これも話が逸れるので一旦傍に置く。山口周の論点だ。

 その際の一つの施策が、たくさんの本を読んで、その100さつのなかから中から「これだ!!」とピンとくるものを見つけるような営為だ。

 1日200冊、1年に7万冊出版される現状を鑑みれば、砂漠から砂金を探すような気の遠さを感じされるが。

 いわゆる知識人の領域に達して、思想を紡ぎ続ける人々が、行なっている行為はこれである。逆にその閾値を超えて初めて、世に出る知識人の下地が整ったとも言える。

 

 外務省元情報分析官を務めた佐藤優氏や、月に億に迫る売上を上げると動画の中で語るメンタリストDaiGo氏も、このような、日に30冊の中から、抽出して読むべき本を見つけているから、あのような読み方をしているのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?