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西洋哲学と東洋哲学を混ぜこぜにしたやつを試しにつくりたい

お金稼ぎの資本主義ゲーム、アルゴリズムハック、生産性至上主義、的な文脈(よくわからんけど、そういうロボ的なギスギスしたやつ)で忘れ去られそうな何かがある感覚が確実にあるんだけど、「それ何?」とずっともやってた。

真逆をいく、「人情を大事に!数値で測れない感性や情緒に価値を!無駄を許容して!」みたいなウェッティーな話を安直に推進するのも、「何か脳筋感あってキモいな」という感覚もあり。

でも、この気持ち悪さに対しての解決策、何かしら考えたい・・・


考える糸口みっけ!!

深井龍之介さん(COTEN)・野村高文さんのラジオ「a scope 資本主義の未来編」で、「疲弊する現代人。資本主義は私たちに安息をもたらしてくれるのか?」というテーマの回で、深井さんが語っていたことが、とてもヒントになった。

西洋的な理性に対する信奉は重要。あれがないと、生産性は上がらなかった。

一方で、「身体性が理性に従属している」と考えるのは、デメリット。 身体じゃないと悟れないことがあるのはすでにわかっているはず。であれば、身体的アプローチで物事を理解する、「非言語的”知性”」があると理解しないといけない。非言語は知性じゃないと捉えるのはナンセンスだろ、ということが東洋哲学から導き出されることが大事。

ふむ・・・。
つまり私は、西洋哲学的なものだけで100%まかり通らせようとしている感覚に違和感を感じており、その解決策は東洋哲学にあるかもしれない・・・ということかな・・?

取り急ぎ、東洋哲学の入門書を読んでみた

西洋哲学と東洋哲学は、関心のベクトルがちょうど逆。
・西洋哲学→人間の外側にある何か
・東洋哲学→人間の内側にある何か

どんな雑念・煩悩が現れようと、それはただの「認識の対象物」にすぎない。どんな認識の対象物が現れようと、純粋な鑑賞者である自には、なんの影響もない

「私」はでしゃばらなくて良い。餅は餅屋に。それが1番最大限に発揮したい行いができる。「私」は何も為さない観客に徹し、人生は映画のようにひとりで為されていく。

東洋哲学におけるゴール(悟り、無分別智、梵我一如)に到達すると、人は無為自然になる。「あなた自身が何もしなくても、物事は勝手に起こるよ。」

よくある、「悟りとは何か」「イマココ・あるがままを認知すれば苦痛はなくなる」的な話だと解釈したんだけど、まあ理解10%に満たない感じで取り急ぎここは前提として読み進めてw
私の課題感を考える糸口はその先にありそうだった。

ゴールである悟り・梵我一如・タオに達した後、もう一度かえってくるべきだと禅は主張する。無の世界に達した後、再び分別を始め、悟りの境地を捨てて元の世界(特定の文化や価値観により物事が区別された日常)に戻ってくる。そして、最終境地、欲を出して普通に楽しく生きる。悟りすました態度で教え導くのではなくただ出会いを楽しむ。

お茶を飲んで目を覚まし、いまを味わって生きる、それ以外ほかに何かすることがあるだろうか?

それを知った人は、何が起ころうと起きたままに起きたものを感じ、それを味わい尽くす

・・・ん??これっぽいぞ?なんかいいこと言ってる気がする。

さて、何からはじめましょう・・

ここまでそんな深く考え尽くせていないけれども、とりあえず信頼できる賢い人の主張に少し触れた上で腑に落ちていることを3つ。

  1. 西洋哲学的思想・東洋哲学的思想、どっちも持ち合せた方が良さそう

  2. 西洋哲学的思想が蔓延っているから、どうにかしていい感じに東洋哲学的思想をブレンドさせた方が良い方向に向かいそう

  3. 東洋哲学は基本的に、理論を最優先にしている訳ではない。「知識を詰め込めば詰め込むほど進む」とは考えない。プロセスは何でも良いので結果重視。実践ありき。

初心を忘れないように記述しておくと、
「苦から逃れるために悟りたい」というモチベではなく、「東洋哲学のスタンスを拝借してみたら現状は改善しないか」という実験がしてみたい。

プロセスは何でもいい。
「西洋哲学的なソレが絶対である」と思い込んでることに、まずは気づけたら、もっと楽しく生きられんか?????
人を悟らせることは私には無理だが(自分も悟ってないし、取り急ぎ、完璧な悟りは目標にしていない)
結構毎日社会生活で苦痛を感じているこの感覚を、なんとか改善する方法を探りたい。
で、それは、ハウツーを示す方法ではおそらくあかんくて、別の方法じゃないと結果に結びつけられないのでは?という、東洋哲学を参考にした仮説。

もう一回言うと、プロセスは何でもいいんだったよな・・
よし、何かとりあえず作ってみるか・・

誤読を誘発させる、「コンテクストデザイン」を参考にしてみる

何を作ろうか、考えた時
渡邊康太郎さんの著書「CONTEXT DESIGN」が、参考になりそうな気がしたので、また本棚から引っ張り出してきた。

「コンテクストデザインの方法」の章で書かれている下記が参考になる。

人は解釈の余地があるものに出会うと、自ずと想像をはじめてしまう。
作品のなかに不完全なもの、未完成なものが見出された時、人は想像を働かせ、解釈へと導かれる。

欠如、余白、不完全、中空、不足、矛盾、分類不能、無目的

このうち、「不完全」で引用されている「茶の本 / 岡倉 覚三」の一説も興味深い。

想像は強いられるものではない。不完全なものに触れ、知らず知らずのうちに働くのだ。

(茶道教室行ってみるのはありだな・・・)


図らずも、個人的にやっている「料理下手の料理アカウント」は、「欠如・不完全」的な要素を満たした良いプロトタイプかもしれん

https://www.instagram.com/shinju_ryori/?igshid=YmMyMTA2M2Y%3D


不完全なものを飾らずそのまま紹介する挑戦は、引き続きこのアカウントでやるとして

他にできることはないかなぁ〜〜〜〜

日本のお宿の「余白」集めでもする???
書いてから思ったけど、「これをしてくださいね」とシステマチックに規定されている宿ではなく、「あとはあなたにお任せしますよ」と余白を残したデザインがされている空間は、居心地が良いよなぁと思います。
綺麗だから良い、映えるから良い、のではなく。
この視点のメディアは名案かもしれん。どうやって集めよう

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