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医療者たちの日常の暴力

齋藤美衣さんが、雑誌精神看護(医学書院)にかかれた2回連載の記事「ありふれたふつうの措置入院」の内容に毎日の仕事への姿勢が変わるきっかけがあった。この原稿を見たのはSNSでご本人の投稿で紹介してあったのを、病院の図書館で見つけて読んだ。何度かご本人ともやり取りしたことがあり、歌人でもある齊藤さんが使う言葉の繊細さと精密さにはいつも驚いていた。

私は、自分のクリニックの仕事をしながら、神戸市内の別の病院でも仕事をしている。いつもマイノリティ志向だった自分にとって、緩和ケアの仕事をしていれば、必ず仕事はある。自分自身を支える能力は、専門知識とそしてコミュニケーション技法。患者、家族の側から見れば「親しみ深さと礼儀正しさ」だ。自分なりに細かな所作の一つ一つまで、信念と配慮を張り巡らせて、一つのスタイルを作れたと思っていた。

自宅で診療する患者に対しては、「原状復帰」が大切な所作になる。椅子を出されたら、その椅子を本来の場所に戻す。診察前にテレビを消したら、リモコンの場所を変えずに戻し、診察が終わったらテレビを付ける。患者のボタンを外したら元通り戻す。こういうテーブルのものを真っ直ぐ並べないと気が済まない人のように、「動かしたものを元通りにする」ことには強迫的なほど原状復帰してきた。これは礼儀の問題ではない。患者の生活環境に自分の存在の影響を少しでも残さないことがとても大切なことなのだ。

自分が帰った後、自分の残り香が残らないこと、患者が自分の存在ではなく、患者自身の力で何か良い変化を起こしていくこと、これが臨床の一番面白い、しかも持続力のある治療になると長年の経験で分かってきたのだ。

このように自宅で患者を診察する所作、技法を、不定期に勤務する病院でもあてはめてみたのだ。大部屋のカーテンの開け閉め、オーバーテーブルと呼ばれるベッドにある食事をする、物を置くための机の上。患者のプライベートスペースは、患者の仮の自宅。その環境を、医療者側が変化させることは、患者の治療に悪い影響があるという仮説で診療するようになった。

ある時、患者に怒られた。その患者はがんの痛みのために入院し、初日は「先生、助けてくれ、早く痛みを何とかしてくれ」と怒鳴っていた。早速麻薬の注射を始めて、何となく痛みがとれてきた数日後、治療の効果を確かめて、痛みが緩和された喜びと成功を共有しようと、浮かれた気持ちで大部屋のベッドに向かった。

音は筒抜けでも、大部屋の患者のカーテンは1ミリも隙間がないくらいぴったりと閉まっていて、外から声をかけた。「新城です、診察に来ました、入ります」返事はなかったが、治療がうまく行っているのできっと歓迎されると思い入った。その時に怒られた。

「急に入ってくるな! もう今日は何度も痛みのこと話しているわ。カルテ見とるんかお前!」

驚いた。耳が遠くなっているせいか私の声は聞こえていないようだった。とにかくいつも不機嫌な患者だった。家族に聞くと、家ではモラハラで精神的なDV(ドメスティックバイオレンス)を繰り返しているようだった。家族も扱いに長年困ってきたようだった。こういう男性患者は、今までなら「不機嫌な直ぐに怒る患者」だが、この数年私も学びを得て認識を変えた。今なら「DVをするハラスメント患者」だ。機嫌をとる必要はない。こちらも強く出てしまう。

「○○さん、診察のために来ましたが、受ける気持ちがないなら帰ります」とはっきりとした口調で目をにらみながら言うと、「おお、帰れ帰れ」と言われる。そしてさっと病室のカーテンから出る。きちっと1ミリも隙間を作らないように閉めて。

こういう患者も何度かいくうちに段々と心を許しあってくる。「あの時は言い過ぎた」と言う患者もいるし、大抵は治療が成功し痛みが緩和することで信頼関係ができる。その日を待つことをした。しかし、何度通ってもその日は来なかった。それ以降は何かを言う前から不機嫌に「帰れ帰れ」と繰り返されるようになり診察がまともにできなくなった。関係の構築を諦めて、同僚らに診察を任せることにした。幸い同僚らとは治療関係ができたようだ。良かった。

「相性が悪い患者もいるわな」と忘れてしまうこともできるくらい多くの患者を診察してきたし、「DV、ハラスメント患者は元々嫌い」と自分の信念を貫くこともできる。「天国でもあの患者だけは頼まれても診察しない」と年甲斐もなく意趣返しをすることもできる。自分の心の置き場としては、そういう患者だったのだ。

あれからしばらくして、この病院の図書室で齊藤さんの原稿を読み、やはり自分にもまだ足りない配慮と、身につけるべき所作、そして私の中の支配的な気持ちがあることがはっきりと分かった。

齊藤さんの話は、ご自身が自殺未遂の果てに、警察への移送とそこから措置入院にいたり精神病院の中で体験した体験が、時には冷徹な事実と、そして動く感情を詩的な言葉で綴る、独特な文体で語られている。

部屋に入る人は、鍵を開ける前にノックを する。わたしはノックというものについ てベッドに横たわりながら考える。正しくは
「わたしは今からそちらに入りたいのですがよ ろしいでしょうか」という意味合いの行為だ。 だから部屋の中にいる人は「どうぞ」とか、
「お入りください」と言う。あるいは「少しお 待ちください」と言う。でもこの病院で医師や 看護師がするノックには本来の正しい意味合い が含まれていない。医師や看護師はノックをし たら、いつもその後間髪入れず鍵を回してドア を開ける。いくつかの決まった型の 1 つとし て彼らはノックしているのに過ぎない。わたし はいつまでも放っておかれ、またいつでも何かをされることができる存在であった。

齋藤美衣 第1回 ありふれたふつうの措置入院 精神看護 vol.27 no.3  May 2024 210-7

そう、私も含めノックは形骸化して、相手の許可、invitationを受けないまま、どんどん入っていくのだ。「医療者、私たちの病院の部屋に、あなた、患者がいる」そこは患者の部屋ではないのだ。大部屋のカーテンはノックすらできない。○○さんと声は丁寧でもいきなりカーテンを開けて会話を始めることが通常なのだ。

医師は来ないだけではなく、「いつ来るかわ からない」のだった。ある日、朝一番にわたし のところに主治医が来た。7 時ごろでわたしは まだ寝ていたところに、「齋藤さん、少しいい ですか?」と言って間髪開けずにピンクのカー テンがしゃっと開けられた。わたしは急いで ベッドに半身を起こしたけれど、後で「表情が 固かった」と言われて、ひどく心外だった。
「表情が固い」ことは、わたしの精神状態を測 る上でマイナスの指標だが、その評価がわたし が寝ているところにいきなり入ってきてなされ たことに、大袈裟にいえば一種の暴力性を感じた。

齋藤美衣 第2回 ありふれたふつうの措置入院  精神看護 vol.27 no.4 July 2024 312-8

暴力というのは、何も相手の体や心に傷を負わせることではだけではない。リスクとハラスメントに満ちあふれた現在にとって、暴力とは「予期しない、避けられない外部からの力」全てを指すのだ。そう、医者や看護師は患者に毎日毎日暴力を加え続けている。そして医療者側には自覚がない。小さな暴力を与え続け、患者の側はその事実を鈍麻させるために心を防衛する。「病院はこういう場所なのだ」「私は患者であって耐えるべき存在なのだ」と。まさにモラハラを受け続ける被害者のような心性がそこには立ち現れてくる。

医者が不機嫌なのは私のせいなのだ。看護師に好かれるように行動しないと。齊藤さんの文章には至る所にその意図で言動する過程が書かれている。

わたしのこの物語には「悪者」が 1 人も登場しない。口に出して「傷ついた」ということがとても困難になる。わたしは自分が負った傷から回復することができなくなる。誰がわたしを傷つけたのだろうか。誰がわたしの心を殺したのだろうか。

齋藤美衣 第2回 ありふれたふつうの措置入院  精神看護 vol.27 no.4 July 2024 312-8

私は、自分の外来の診察と、オンラインのカウンセリングで時に夫から(男性から)モラハラを受けてきた方の心の回復を援助する機会が何度もある。回復の過程ではまず、「DVだった」こと(診断)、「あなたは被害者だった、そして加害者は相手だった」こと(構造の明示)をする。構造に気づきそこからケアが始まるのだ。そうして何人もの方の時間がかかるカウンセリングを続けて行く。

私が怒らせた患者に私は、暴力を与えたのだ。DVの加害者は自分は被害者だと思っていることが多いため、他人からの加害に非常に敏感だ。仕事を通じて分かっていたことなのに、大部屋のカーテンの所作で私はまちがいを犯したのだ。齊藤さんの文章はその事を私に静かに告げている。
病院で権力を持ち支配者である医療者には、日常の暴力には無自覚なのだ。在宅医療と病院の医療を日常的に行う私でもまだ支配者の匂いは消えていないのだ。