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おじさんミーツガール ~なぜ近年「おじさんと女子高生」のサラリーマン漫画が目立つのか~

おじさんが少女とつきあう漫画が増えている?


私は以前から「サラリーマンを描いた漫画」に興味があり、1960年代の作品から現在連載中の作品に至るまで、多くの漫画を読んできました。日本人男性のマジョリティであるサラリーマンを描く大衆文化には、それぞれの時代の代表的な労働観や人生観が投影されます。だからサラリーマンを描いた漫画を通して、日本人そのものを深く知ることができると思っています。

そんな中で最近、気づいたのです。サラリーマンが少女とつきあう漫画が増えているのでは? と。

きっかけは、おそらく『恋は雨上がりのように』(眉月じゅん/小学館/2014〜2018)のスマッシュヒットです。陸上選手としての夢をケガによって断たれた女子高生が、ファミレス店長である冴えない中年男性に恋をする話です。年の差が28歳もあるプラトニックな純愛を描いたこの作品は、2018年にアニメ化と実写映画化が行われ、全10巻の累計発行部数は200万部を超えました。

『恋は雨上がりのように』眉月じゅん

本作によって、おじさんと未成年少女を組み合わせた物語が市民権を獲得したのか、同様のプロットの漫画が目立ち始めます。ちょっとしたジャンルになっているといってもいいくらいです。ここでは「ボーイミーツガール」というジャンルに倣い、仮に「おじさんミーツガール」漫画と呼んでみることにしましょう。

『月曜日のたわわ』の炎上


今春、『月曜日のたわわ』(比村奇石/講談社/2020〜)という漫画が日経新聞に全面広告を出し、議論を巻き起こしました。これはサラリーマンが巨乳の女子高生と交流する、おじさんミーツガール漫画のひとつです。未成年を性的に描く漫画のイラストを全国紙で大きく広告することの是非が争点となりました。

少し前の2019年には、『娘の友達』(萩原あさ美/講談社/2019〜2021)という漫画がSNSで炎上しました。中年サラリーマンと女子高生の親密な関係を想起させるWEB広告を見た一部の人々が、未成年女子への性犯罪を助長するコンテンツなのでは、と問題視したのです。

世間をざわつかせる、おじさんミーツガール漫画。そこにはどんな欲望が投影されていて、どのような時代的意味を持つのか。上記の2作品を含めたいくつかの作品を読み解きながら、こうした漫画が求められている背景と理由を、おじさんのひとりとして考えてみたいと思います。

『娘の友達』は”令和の『高校教師』”


まずは前述した『娘の友達』を取り上げてみましょう。

主人公のサラリーマンは、妻が亡くなってから高校生の娘と二人で暮らしています。彼は仕事や職場の人間関係がうまくいかずにストレスを溜め込み、さらに娘の反抗、学校からの苦言が重なり、精神的に追い詰められていました。

ある日、彼は喫茶店でバイトをしている女子高生と知り合います。偶然にも娘の同級生だった彼女は、まるで彼の心のスキマに忍び込むように、思わせぶりな態度で接近してきます。実は彼女も家庭に問題を抱えていて、誰かにすがりたかったのです。

『娘の友達』萩原あさ美

序盤はサイコ・サスペンスのように怖くスリリングですが、物語の骨子は、1993年に社会現象化したテレビドラマ『高校教師』(TBS系)にとても近いです。職場と家庭で悩みを抱える成人男性が、親の倒錯的な愛に束縛される女子高生から好意を寄せられ、傷をなめあうような共依存関係に陥り、周囲から批判され逃避行する、そうしたプロットを両作品は共有しています。

しかし『娘の友達』の読後感は、バブル崩壊直後の大きな喪失感と重なる余韻を残す『高校教師』とは異なります。主人公は女子高生との関係が明るみになった代償として、社会的にも家庭的にも閉塞した状況のまま、居心地の悪い日常生活を続けることになります。なにかを先延ばしにするような、地味で息苦しい後味が、今の時代らしくもあります。

『社畜と少女の1800日』が描く疑似父娘関係


共依存ではなく、疑似親子としての共同生活を描いたのが、『社畜と少女の1800日』(板場広志/芳文社/2017〜2021)です。

『社畜と少女の1800日』板場広志

激務に追われる独身中年サラリーマンの部屋に、ある日突然、旧友の娘の女子中学生が転がり込みます。彼女の母親は、彼を頼るよう伝えるメモを残して失踪していて、ほかに頼れる大人が一人もいなかったのです。母親が迎えに来るまで、という条件付きで、二人は同居生活を始めることになります。

独身中年男と女子中学生が二人で暮らすという状況の異常さについて、本作は極めて自覚的です。物語中盤で、二人は警察によって引き離され、世間から好奇の目に晒されます。その後再び同居しますが、身寄りのない少女を守ってあげたいという親心が動機となっています。少女を性的な対象として見るという視点はほぼ皆無で、セックスや過度な巨乳といったエロ描写は、主人公の同僚など成人女性が担うことで明確に切り分けられます。

やがて彼女は高校生となり、彼に対して明確に恋愛感情を抱き始めますが、少なくとも高校卒業までは、彼は親としての立場を頑なに崩しません。2人二人で月を見ながらスイカを食べたりするような、なにげない日常の生活描写を、本作は丁寧に重ねながら進行します。スキャンダラスなテーマでありながら、まるで父娘の成長譚として読めるところが、本作のユニークさです。

カジュアルなラブコメ化するおじさんミーツガール


この2作品は、成人男性と未成年女性の恋愛関係に対する「社会の目」が内面化されていたので、必然的にシリアスな展開でした。一方で、そうした社会性を保留してカジュアルに「年の差恋愛」ととらえる、いわゆるラブコメ感覚の作品群も多くあります。

『冴えないリーマンとヤンキー女子高生』(玉姫なお/フロンティアワークス/2017〜2020)や、ライトノベルからコミック化された『29とJK』(裕時悠示・加藤かきと・渡辺樹/スクウェア・エニックス/2016〜2020)は、いずれもサラリーマンが女子高生を些細なトラブルから助けたことがきっかけで、少女の側から好意を抱かれます。潔く堂々とお付き合いをするので、タブーな印象は意外と受けません。特に後者はラブコメ要素よりむしろ本格的な仕事描写が見どころだったりします。

過酷な業務に疲れ果てて自殺しようとしたサラリーマンが、謎の女子高生の飼い犬として生きるハメになる『ポチごっこ。』(アッチあい/集英社/2019)や、女子高生が好意を抱く社畜の弱みを握って支配しようとする『JK、社畜を飼う』(田口ケンジ/小学館/2019)など、大人と子供の主従関係が一見逆転したように描かれる作品もみられます。

くたびれた社畜のおじさんがスーパー裏の喫煙所で若い女子店員と出会い、交流を深めていく今年のヒット作『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』(地主/スクウェア・エニックス/2022〜)は、実は彼女が学生時代のバイト中に二人が出会っていたという過去が描かれるという、おじさんミーツガール要素が強いサラリーマン漫画です。

『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』地主

家出少女との「セックスしない共同生活」


こうした近年の「年の差ラブコメ」の中で最もヒットしたのは、アニメ化までされた『ひげを剃る。 そして女子高生を拾う。』(しめさば・足立いまる/KADOKAWA/2018〜)でしょう。もともとは小説投稿サイトで話題になったライトノベルで、2017年に小説の連載がスタートし、2018年から漫画版が連載されています。

『ひげを剃る。そして女子高生を拾う。』原作:しめさば 漫画:足立いまる

26歳のサラリーマンが、酒に酔った帰り道で「ヤらせてあげるから泊めてよ」と誘う女子高生に出会い、自室に連れ帰ります。彼女は男たちに身体を与えながら泊まる場所を転々としている家出少女で、自尊心が極めて低く、自分にセックス以外の価値はないと思っています。彼はそれを変えたいと思い、泊める対価としてセックスではなく「家事全般をすること」を要求します。最初は戸惑う彼女も、彼のもとで共同生活を始めることで、徐々に心を開いていきます。

主人公は、高校生には性的興奮を覚えない、好きではない女は抱けない、といって彼女とのセックスを断り続けます。これは倫理的なふるまいに見えるのですが、そもそも家出少女を長期にわたり同居させること、家事手伝いとして奉仕させることへの罪悪感が、周囲の大人たちも含めて希薄なのが気になります。

未成年者を自宅に連れ込む行為は、仮に同意があっても保護者の監護権・親権を侵害しているので、親告罪とはいえ、未成年者誘拐罪に問われるはずです。本作では、そのことを棚上げしたままに三角関係や四角関係が進みます。

少女が家出をした背景が判明するあたりから物語は重苦しくなり、彼女は自らの過去にけじめをつけるために行動を起こします。問題解決は基本的に少女が自分自身で行い、主人公はそこに深くコミットしない安全圏にとどまるので、センシティブなテーマを消化しきれずに終わったという印象を受けました。

専業主婦のように振る舞う少女たち


こうした代表的なおじさんミーツガール漫画には、共通する点が3つあります。

まずひとつめは「女子側の能動性」です。どの漫画も、好意を能動的・積極的に寄せるのは女の子の側で、成人男子側は深い仲になることに消極的です。もともとこれはラブコメ全般に多い傾向ですが、おじさんミーツガール漫画において女子側が能動的であることは、成人男性側の倫理的問題を免責する印象を産む効果があるような気がします。

ふたつめは「専業主婦感」です。少女たちは昔の主婦のように甲斐甲斐しくサラリーマンの世話をやくのです。

『ひげを剃る~』の女子高生は、お風呂のお湯を入れて主人公の帰りを待ち、笑顔でおかえりと言い、ハグします。雨の日は駅まで傘を持ってきてくれます。主人公はこうした同居生活を「居心地のいい場所」と感じ、ずっと彼女にいてほしいと願うようになります。『社畜と少女の1800日』でも、主人公は女子中学生に炊事洗濯、お風呂の準備、ビールの用意など、家事すべてを当然のように担わせていました。同居までしない他作品でも、男性のために手料理をふるまったり掃除をしたり、女性のほうから積極的に抱きつく姿がよく描かれています。

最近のドラマや広告では、男性が料理や洗濯をする役割を担うことが当たり前になりつつあるなど、家事をしない男性は世界的に時代遅れとされています。そうした観点からすると、これらの漫画で描かれる男女関係は、前時代的な家父長制度を連想させます。成人男性と女子高生のペアリングは、年齢と社会的立場という二つの格差が前提となるので、必然的に男性優位のヒエラルキーになりやすいのでしょう。

美しく純粋な少女に愛される「社畜」


そしてもう一つの共通点は「社畜」です。主人公となるサラリーマンの多くは、生活時間の多くを会社に奪われていて、社畜を自称するのです。

実は2010年代の半ばころから、社畜を主人公とする漫画自体が増えています。給与が増えず、格差拡大が進む中で、深夜残業など過酷な勤労環境で疲弊するサラリーマンを描く漫画が、現代のプロレタリア文学のように共感されているのです。

社畜漫画の中には『世話やきキツネの仙狐さん』(リムコロ/KADOKAWA/2017〜)や『貧々福々ナズナさま!』(稲葉そーへー/集英社/2020〜)という、独身サラリーマンが少女や幼女の神様と同居するバディものも存在します。おじさんミーツガール漫画は、こうした社畜漫画ブームのバリエーションという側面を持つともいえます。

美しく純粋な少女に積極的に愛され、そばにいて奉仕してもらうことで、過酷な勤労生活から逃れて安らぎを得たい。それが多くのおじさんミーツガール漫画に通底する欲望なのかもしれません。そう考えると、「癒し」こそが本当のニーズなのでしょう。

『月曜日のたわわ』を考える


さまざまな論争を巻き起こした『月曜日のたわわ』も、こうした潮流の延長上に存在すると思います。この作品は、おじさんミーツガール漫画とエロコメの融合です。

『月曜日のたわわ』比村奇石

主人公は社畜を自称するアラサーのサラリーマンで、偶然知り合えた高校1年生の女子の巨乳を満員電車で感じる時間が彼にとって安らぎとなります。彼女以外にも巨乳の高校生や新入社員が登場して、男性陣がたわわな巨乳に抱く欲情を自制する様子が笑いのフックとなって物語が進行します。

作中では主人公が「導く側と導かれる側の関係」に性的関係はあるべきではない、という倫理観を表明します。ただ、そのことを免罪符として、作品自体の視線は女子高生(の胸)を「ぶるんっ」「たぷんっ」と確実に性的アイコンとして見つめ、妖艶な肢体を丁寧に描きこみます。それゆえ、倫理的見地からの世間の評価が分かれてしまうのでしょう。

別の女子高生が男性教師に片思いを続け、卒業直後に男性教師と結ばれセックスするというエピソードも本作では描かれます。高校卒業をセックスのボーダーラインとして明示することで、上記のエクスキューズを補強する形で、エロコメとして軟着陸させようとしているようにも思えます。

ラブコメの元祖とされる『翔んだカップル』(柳沢きみお/講談社/1978~1981)は、高校生男女が共同生活を送ることから始まる成長譚で、若さゆえの性的欲望も隠さず描かれました。それ以降、ラブコメやエロコメは、若者にとっての恋愛やセックスのシミュレーションとして受容されてきました。

それが近年、女性は少女のままで男性側だけが成人化した変異型が増えている、という状況なのだと思います。成人男性と未成年少女という非対称な関係性のエロコメであることが、『月曜日のたわわ』の評価を複雑にしています。会社の巨乳な後輩など成人女性が描かれるパートは、見慣れた明るいエロコメなのです。

『月曜日のたわわ』の主人公は、自分が高校生の頃に巨乳の女子高生と出会って付き合えていたらと妄想し、「そんな青春送りたかった…」とつぶやきます。自分だけ時計を巻き戻し、女子高生と交流することで甘酸っぱい青春を追体験して癒されたい。そんな叶わぬ青春回帰願望が、この作品には垣間見えます。

そう考えると、本作の新聞広告が意図したような「サラリーマンの不安を吹き飛ばし、元気になってもらう」コンテンツというよりは、もっと後ろ向きの願望を抱えた作品のような気がします。

「人生100年時代」がおじさんを引き裂く


ではなぜ、こうしたおじさんミーツガール漫画が2010年代中盤頃から目立ち始めたのでしょうか。

2013年、政府によって定年が60歳から65歳へ引き上げられました。2016年、リンダ・グラットンの著書『ライフ・シフト 100年時代の人生戦略』(東洋経済新報社)が日本で発売されて、「人生100年」が流行語となります。2017年には内閣に人生100年時代構想会議が設置されて「生涯現役社会」が謳われ、2021年になってからは通称“70歳就業法”(改正高年齢者雇用安定法)が施行されました。

いまや私たちは、超長寿社会を生きることを否応なく自覚させられるようになりました。人生100年と考えたら、30代や40代は若者です。男性の生涯未婚率は3割近くになり、勤労を終える年齢も先延ばしされ続けた結果、成熟するタイミング、あるいはなにかを卒業するタイミングが、よく分からなくなっているように思えます。

おじさんになっても自覚しにくく、気持ちは学生の頃のままで、しかし一方で日々の厳しい勤労は果てしなく続いて消耗し、老後のために2000万の貯蓄が必要と言われて途方に暮れる。この気力と体力が引き裂かれた状態が、おじさんの肉体と青春の残滓を併せ持つ主人公を生み出し、空想の制服少女に癒される物語を求めさせたのではないでしょうか。

日本経済の鏡としてのおじさんミーツガール


成人男性と未成年少女の関係性を描いたコンテンツ自体は、谷崎潤一郎や川端康成を挙げるまでもなく、洋の東西を問わず古くから存在してきました。また、1980年代のおニャン子クラブが『セーラー服を脱がさないで』を歌い、1990年代後半頃にはブルセラや援助交際が話題になるなど、女子高生がダイレクトな性欲の対象になることもありました。

ただし、現在のおじさんミーツガールは、性欲を抑え込んだ受動的な関係性に重点がおかれてジャンル化しつつあります。これはとても興味深いことだと思います。

これまでサラリーマンを描く漫画は、常に時代ごとのサラリーマンのモデルケースを浮き彫りにしてきました。日本経済の成長期には、『フジ三太郎』や『釣りバカ日誌』のような平凡な日常を楽しむ核家族モデルや、「島耕作」シリーズのような立身出世ファンタジーが描かれ、バブル崩壊後は「サラリーマン金太郎」シリーズのような自立裁量・実力主義モデルが現れ、近年の長期不況下では過酷な社畜生活を生き抜くサバイバル・モデルが登場しました。それらの多くは、時代に適応する生き方の指針となってきました。

しかし、おじさんミーツガール漫画は、現実的には生き方の指針にはなりえません。そこにあるのは、時計の針を青春時代、あるいはさらにその前の「古き良き時代」に戻そうとする、衰弱した日本経済に呼応するかのような後ろ向きの自画像です。幻想の制服少女に好かれ癒される、その余韻に浸る先に待っているのは、『娘の友達』のエンディングが象徴するような、さらなる閉塞のような予感がしてしまうのです。

と思ったのですが、最近Amazon Prime Videoの『仮面ライダーBLUCK SUN』を見て、少し考えが変わりました(以下ネタバレ注意)。この作品もある意味でおじさんミーツガールなのですが、最後、女子高生はおじさんにとどめを刺して遺志を継ぎ、日本の未来のために力強く戦うのです。

おじさんという衰弱した「過去」が少女という「未来」に希望をバトンタッチする。おじさんミーツガールには、そんな未来志向の諦念が多分に含まれているのかもしれない、とも考えなおしました。一方的に希望を託される少女たちにとっては迷惑な話かもしれませんが。


真実一郎 (https://twitter.com/shinjitsuichiro


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