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【妖怪百科】幽霊 好色一代男より

 井原西鶴、好色一代男において奇妙な話がひとつ収録されている。落ちぶれた世之介が旧知の男のボロい小屋に世話になるのだが、そこで幽霊に襲われる。その幽霊とは過去に一生添い遂げると騙した女たちと交わした証文だった。証文に込められた女の恨みが幽霊となったわけだ。この小説で人ならざるものが登場するのはこの話のみだったように記憶する。世之介の放蕩を描いた物語の中で異彩を放つ話となっている。こういった話を普通に盛り込んでしまうほど、江戸時代において妖の類は日常的で、人気コンテンツだったことがわかる。井原西鶴もトレンドを取り入れたといったところだろうか。
 尚、この話の締めはいわゆる女の恨みは恐ろしいものだから気をつけなくては、といった結論ではなく、簡単に神々に約束を誓ってはならないと説法めいた結論で閉じられる。これも当時の発心もののトレンドを取り入れたのか、江戸の庶民の感覚は普通に女を騙したことより、神々の名で誓いを立てて破ることが駄目だというものだったのか興味深い。

 幽霊とは妖怪なのかという問いは奇妙だ。幽霊も妖怪も「ある」という前提で、アカデミックなカテゴリー上の質問となるのだろうか。不特定多数に訴えかける場や時の怪異を妖怪とし、特定の個人に対し、原因がある怪異を幽霊とすることはできるだろう。しかし、元々は原因があり(たとえば川に突き落とされ死んだ男の恨み)幽霊的に現れるようになるが、月日とともに原因が忘れ去られ、存在だけが語り継がれた場合、原因不明の怪異となり、これは妖怪に類することになる(最終的には河童や狸の仕業となり得る)。その論理で言うと、幽霊と妖怪はその名が持つ情報の質と量によって区分されることになるが、妖の類にロジックを持ち出して検証するのもなんともむず痒い。
 そもそも区分などなく、後世に名付けられ分類され現在に至る妖怪や幽霊なので、一貫した論理はいささか矛盾するものだろう。こういった学術的な考察をよそに、「妖怪」や「幽霊」といった名前の持つ魅力は圧倒的だといえよう。妖怪でも、幽霊でも、おばけでも、それらが意味する感覚は、幼少の頃より刷り込まれており、まぁまぁ歳をとった今も子供のようにそれらと戯れるのである。

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