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まだ始まったばかりだ!

 喉がイガイガして気持ち悪かった。口内で痰を切ろうとしてもなかなか切れない。んん!んん!と連続七回も唸っている。こんなときほど煙草をくわえたくなる。喉の調子が悪いのに喉に負担を掛けるようなことをしようとする。ウイルス性の病に倒れると回復に時間が掛かる。ウイルス性以外の病って何だろう。閑散とした雰囲気の中で喉の不調があると困ってしまう。んん!んん!と七回以上も唸っていたら絶対に注目されてしまう。俺は注目されるために生まれた訳じゃない!と叫んでしまいそうだ。叫ぶ理由など全くありはしないのにだ。俺は今社長の真後ろの席に座っていて、ずっと社長の後頭部を見つめている。これもそうしなければならないという理由などない。社長の後頭部を見つめていれば心が落ち着くとか和むとか運気が上がるとか明日への活力になるといったことは今まで一度もないし、多分これからもない。俺はポケットから綿棒を取り出した。そしてまずは右耳の穴から掃除し始めた。というつもりになっただけで俺はポケットに綿棒など入れてなかったから綿棒などそもそもここにはない。だったらどのようにして右耳の穴から掃除すればいいんだよ!と俺は心の中でブチギレた。ブチギレた拍子におならがプッと出た。というのは嘘でおならが出たのは単に胃腸の具合が悪いからだった。これは絶対に臭い屁だ。だが皆どういうわけか覆面ではなくマスクをしている。この貴重なおならの香りを嗅げないやつら。しかしどういう訳か俺は今注目を浴びている。なぜだ。んん!んん!と唸っていた訳ではないぞ。あ、覆面じゃなくてマスクをしていても耳は聞こえるのか。俺がおならをしたことは皆にバレていた。しかもさっきのプッという音だけで誰のおならなのかを特定できるくらいに大きな音のおならだったのか。でも社長はこちらを振り向かない。微動だにしない社長。さすが堂々としている。というか俺は本当におならをしたのだろうか。俺の記憶が怪しくなってきた。綿棒を探さなくては。こんな奇跡があるだろうか。俺の席の真下を見ると綿棒が一本だけ落ちていた。この綿棒は誰かが落としていったものなのだろうか。それとも実は俺のポケットには綿棒がさっきまで入っていて、それを取りだそうとしたときに取り落としてしまったものだろうか。これは拾うべきか否か。もしかしたら誰かの使用済みが捨てられているだけなのかも知れない。しかしこんな会議室にいて綿棒で耳掃除などするやつなど俺の他にいるのだろうか。もしいたとしたらとても気があうか絶対に気が合わないか、後者だろうことは目に見えている。本当に見えたわけではない。なぜなら今日は眼鏡をかけ忘れてきたから。フライデー・ナイト、いやまだ昼間だ。眠い会議には社長の後頭部を見るに限る。なぜなら特に意味はない。さっきから俺はつまらないことばかり考えている。会議の内容が全く耳に入ってこない。ちょっと耳の穴をかっぽじってやろう、と思って指を耳へ持って行くと耳の穴に綿棒が刺さっていた。そりゃあ会議の内容が耳に入らない訳だ。先に綿棒が耳の穴を塞いでいたのだから。俺は誰にも気づかれないようにそぉーっと耳から綿棒を引き抜こうとした、周囲を見渡しながら。しかし周囲の者たち全員の視線は俺に集中していた。なぜなんだフライデー・ナイト。いやまだ昼間だ。俺は座っている椅子の上でおしりを少しずつずらしながら床にしゃがみ込み、床に落ちている所在なき綿棒を拾い上げた。救ってやったのだ綿棒を。そしてその綿棒を左耳の穴に突き刺した。なぜなら右耳はもう満員だったから。突き刺し方が思いがけず強すぎて、う!と声を出してしまった。それでも社長は動じない。その後頭部は神だった。俺にとって神。その他の雑魚どもだけが俺に注目している。俺はこの会議室の中の主役になりつつあるフライデー・ナイト。いやまだ昼間だ。フライデー・ナイトに拘る必要はない。今日はまだ月曜の朝だからだ。マンデー・モーニングだ。モンデー・マーニングと言えば気分は軽くなる。というような奇跡は起きない。後悔してもしょうがないが、綿棒を左右両耳に突き刺すのはやめておけばよかった。マスクじゃなくて覆面をしてくるべきではなかった。皆マスクをしているからといっておならをするべきじゃなかった。俺は現在進行形で絶賛後悔中だ。俺に残された逃げ道は社長の後頭部だけだった。その一点をじっと見つめているしかなかった。会議はまだ始まったばかりだ!

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