ルーツを辿る記憶の旅①
既に他界した両親を含めて僕の家族に元々「大沢」という性は存在しない。
令和の時代では想像が出来ないだろう、いや昭和生まれの僕でさえ丁稚奉公に出た少女がそのまま幼女になって、そこに婿養子としてに入りその家をついでゆく、などという話はあまり聞いたことがない。
僕の祖母は女手一つで昭和初期の激動の時代に「髪結い」として腕を上げ、当時色街の名残も濃かった滋賀県は大津に根を張り、美容院を開いた。
そこに弟子入りしたのがぼくの母親だった。
努力家の母は祖母に気に入られ、間もなく一番弟子となり祖母からの申し入れで跡継ぎとして養女に入ることになった。
当時の大津随一の歓楽街のもっとも上手に美容院を構えていた祖母は、街でもそこそこ顔の知れた女主人で、顔なじみの飲み屋も一軒や二軒ではなかった。
一方の父、幼少期を四国は高知の裕福な家に生まれるものの、母親は早くに病死、父親は大の遊び人で女性をとっかえひっかえ、二人目にめとった嫁を家に入れたはいいものの、連れ子を可愛がり父を目の敵にしたらしい。
精神的、肉体的な虐待にも耐え徴兵も受け、命からがら戦争から戻った父は家を出ることを決意した、二度と戻らぬ覚悟だった。
身体には自身のあった父は競輪選手を職業に選び全国を巡業した。
びわこ競輪の巡業で大津に来た父が飲み屋で出会ったのが祖母だった。
二人は意気投合し酒を交わす。そしてあろうことか祖母が提案した申し出は、「うちの娘を嫁に貰わないか」という突拍子もないもの。
それを受けて父は「次の巡業で琵琶湖競輪に来たとき、二人で大津駅まで迎えに来ておいてくれ。そうすればそこから縁がはじまるかもしれない」と
そんな、飲みの場のやり取りだったそうだ。
ときは半年以上過ぎた約束の日、大津駅には三人の姿があった。
これだけでも僕には信じられない出来事だが、そのあと実際に3つの異なる人生がここで「大沢家」という名のもとに集結することになった。
つづく