発達障害のこと 幼少期

まず一つ、話を脱線するけど生きている人って本当にすごいと思う。

生まれてくる選択肢もなく生まれてきて親も自分の状態(障害や性別等)も選べない中でどんな状況であっても今日という世界を生きているって素晴らしいことではないのかなって感じる。死ぬという選択肢だってできた筈(だからと言って生を諦めた人間が偉くないという訳ではないけど)

自分はADHD+自閉症スペクトラム少々、そして鬱も加算された状態だ。それでも生きているのは自分の生きていることをどこかに記録したいからこのように今もキーボードを走らせている。

正直なところ不便だ。薬や周りのサポートがないと生きてはいけないし、見えないから尚更色々な憶測を立てられたりしてしまうし挙句の果てには同じ診断を受けている人から疑いをかけられるという(○○できるから発達障害又は鬱じゃないという全員が全員自分と同じ症状だと思っている視野の狭い障害ステレオタイプ野郎とか甘えだの私の時代は云々野郎とかもううんざり)始末、ため息ものだ。

さて、本題に入ろう。

1.出生から幼稚園時代

11月25日、聖マリアンナ医科大学の一室で生を受ける。あの川崎殺傷事件の起こった街に近いところで生まれたらしい。色々あり元祖母に育てられたりしていたが、あまり記憶がない。

どうやら話すのは早かったが、むしろ普通にアメリカンコッカースパニエルやエミューなどの言葉がすらっと出たほど。しかし、おむつ離れや立つことや歩くことは遅かったという。しゃべることは流ちょうなため親は問題ないと思ったらしい。

2歳のころ元父親の都合でアメリカへ、当時現地の幼稚園にて英語力もネイティブ、先生がこのまま日本へ帰すのはもったいないというほど上達するが全く記憶がない。アメリカの記憶といえば親の離婚時母は友達の家に泊まっていたそうなんだがその際テレビを見ているときに妹がバナナの皮を食べてしまったことやブルースクルーズが好きだってことと元父親に毛布でぐるぐる巻きにされたとかいう奴…等

全くもっていい記憶がないわ

そしてアメリカにいる間に親が離婚→再婚する

日本に帰国した時の記憶も曖昧で、幼稚園を転園したり入園したり、友達の名前を憶えているくらい、当時は嫌なプールがあっても幼稚園に通う我慢強さとかいろいろ兼ね備えていた。今はそこまでないと思う。

全く人見知りしないどころか余計な事聞いたり空気を読むことはしない子だったらしい、アメリカにいた時にさかのぼるがタトゥーを掘ったいかつい兄ちゃんに体に絵をかいたらママに怒られるよとか色々、母からすれば冷や汗ものだ。

友達は少数でもいた。普通にゲームも好きで他人と関わることが好奇心から嫌いではなかったんだと思う、しかし手を引いていないとちょろちょろ落ち着きがないためここでも母はヒヤッとしていたらしい

小学生編へ続く

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