「0円教育物語」note版②

6勉強とは
 「勉強」について考えてみたい。
 僕は決して「勉強ができる」人間ではない。それを大前提としていただけたら幸いである。足が速くない人が、「走ること」について考察をしている、といったことだろうか。
 僕は、あくまでも「自分なりに」ではあるが、子どもの頃から「勉強をする時間」をとってきた。勉強が好きかと問われると、そういうわけでもないが、なんとなく「やったほうがよさそうなことはやっておきたい」気持ちは強かったので、「やらないことの苦痛」を上回る程度に好きだった、と言えるかもしれない。
 勉強に関連する二つの山場として、高校受験と大学受験があり、ただ目標も目的もなく勉強をするよりは、これらのターゲットのおかげで、より身を入れて「よしやるか」といった感じで、本気になったのを覚えている。そして、それなりに大変だったな、という記憶もある。「勉強をする」というのは、誰にとっても、必ずしも快感ばかりではなく、むしろ「苦痛」を感じやすいものであるのが一般的であると想像されるが、「それと同義の苦痛」を感じていたのだろうと、思われる。
 結局、高校受験は希望をしていたところに合格をし、大学受験もなんとか希望通りに終えることができた。
 大学を卒業し、「学生」ではなくなった僕であるが、ひと通りの、いわゆる「勉強」の任期を終えてみて、「果たして勉強とはなんだったのか」と考えてみると、これがあまりよくわからない。勉強をしてよかったことを具体的に挙げたり、勉強をすべき理由を挙げたりするのは、現段階では難しい。「テストがあるから」とか「受験があるから」とか、「それに合格したいから」とか「不合格になったから格好がつかないから」とか、そんな理由しか思いつかないところもある。
 ただ、もし「勉強をしてよかったこと」がこれらの理由でしかないのなら、僕はもう、「勉強を終えた」ということになる。残念ながら、もう、「勉強の良さ」を感じ取れる機会はない、ということになる。これからテストを受ける予定も、受験の予定も、当然のことながら、ない。「それ」が「勉強をしてよかった」と思える場であるのに、「その場」がないのなら、勉強をする必要はないと考えても、不自然ではない。いや、「不自然」ではないものの、なんとなくの「違和感」はある。僕は「勉強を終えた」のだろうか。
 もし、「終えた」とするなら、「勉強をやる意味はさほどない」といえるだろう。というのも、なんのテストで何点を取ろうが、どこの高校に合格をしようがしまいが、どこの大学に行こうが行かまいが、「それぞれに好きに楽しめばいいもの」であるし、「それぞれに好きに楽しめばいいもの」である以上、失敗をして、多少うまくいかなかったとしても、たいして問題ではない。好きなものを食べていい状況で、ラーメンを選んだ人が優れていて、チャーハンを食べた人が劣っているなんてことはない。「好きにすれば」いいのである。ラーメンだろうが、チャーハンだろうが、ギョーザだろうが、マーボー豆腐であろうが、選び方は「人それぞれ」である。
 だが実際、「勉強」においては「そうはいかない」側面があるのだろう。受験業界を見渡せば、「そうではないこと」が一目瞭然である。「みんながそれぞれに好きなところを受験して、楽しんでおいで!合格しても不合格でも、人それぞれさ!」といったテンションや雰囲気では、まったくない。どちらかといえば、「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。「合格をすること」が「善」であり、「合格できなかったこと」は「悪」のような存在である。
 なぜ、そのような状況ができているのかというと、考えられることとしては、人間が恐ろしいほどに競争が好きで、特に理由はないが、「戦いの場があるのならとりあえず勝ちたい」、そのように考える動物だからなのかもしれない。「人間とはそういうもの」だから、こんなにも、あんなにも、受験に盛り上がりを見せる可能性も、完全には否定できない。単純に「勝つこと」に喜び、「負けること」を恐れる動物なのかもしれない。
 ただもちろんのこと、「それだけ」が原動力になっているとも考えにくい。結論を出すにしては、やや早すぎる。
 「競争に勝つこと」ももちろんだが、「勉強において負けること」が何らかの意味をもっているのではないか。そうとも考えられる。もしそうだとするのなら、「勉強競争」に勝つことで、負けることで、それぞれ何らかの「次」に影響を及ぼすという認識が、私たちのなかに、いや「勉強に関わるもの」のなかに根強く存在しているのかもしれない。
 分かりやすいところに「次」を見出そうとするのなら、まず代表的なのは「就職」である。よりよい就職、つまり「生きていく」ということをより充実させ、安定させるために、よりよい学歴をもっていると有利であるため、「その獲得」を目指そうとする姿勢である。たしかに、就職活動では履歴書が必要であり、その履歴書には義務教育期間の小中学校というよりは、「〇〇高校」や「△△大学」といったものが「主役」となって書かれる。そして「その紙」を通して審査をされる以上、「その紙」をできるだけ装飾して、「より優れた人間」の証明をしたほうが、自分の希望通りの進路を実現しやすくなるだろうと考えるのが、人間であり、受験競争の根源かもしれない。ただ人間が競争好きで、目的はなくともとにかく勝ちたい動物だ、というよりは、何となく「人間らしさ」が垣間見える感がある。
 そのように考えると、「勉強」は「いい学歴」を獲得するためのものとなる。勉強をして、「いい学歴」を獲得することで、「他人よりも優れた人間」であることを証明し、最終的には「それ」を利用して、いい職業に就こうとする。「いい職業」というと曖昧ではあるが、「その人の希望通り」とでも言えるのか、はたまた「お給料が高い」とでも言えるのか。「いい職業」に関しては、それぞれ各自の着想点に任せたい。
 「勉強」をして、よりよい高校に行き、よりよい大学に行き、よりよい就職を得る。そのレールにおいて、「置いていかれること」を恐れて、人は勉強をする。「置いていかれる」というよりは「ただ優位なポジションを得たい」ということかもしれないが、ほとんど同じこととみていいだろう。小学校、中学校、高校、大学で「勉強は終わるもの」とするのなら、一言でいうと「そのレールを渡り歩くため」と言えそうである。
 そうなると、僕はたしかに「勉強をしてよかったこと」を見出しづらい。なんせ僕は大学生の間に、エントリーシートすら見たことがないほどに、就職活動をしていない。学歴の「最終着地点」ともいうべく「就職」に僕は向かっていないため、それだけで、「学歴」は水の泡状態である。どんなに「学歴」を揃えようとも(僕は自分の学歴が、「揃っている」とは思っていないが)、それは「無いもの」同然である。僕は、意志をもって就職活動をしなかったが、もしかしたらその過程で、自ら勉強をした時間を、無効にしてしまった可能性がある。もしそうだとするなら、それは大惨事である。
 そんな「勉強の成果」を無駄にしてしまった恐れを抱える僕が、多くの人に披露できる「勉強の良さ」には、あまり説得力がないかもしれない。だが、自分が勉強してきた時間で得たことはなかったのかというと、そんなことはない。「成果」は無駄にしてしまったとしても、「行為」が無駄だったとは、まったく思っていない。
 僕が「勉強」をしてきてよかったと感じることは「勉強の時間」を経験できたことである。
 「勉強の時間」は当然のごとく、それほどの快感は、残念ながら、生まれない。むしろどこか苦痛を感じたり、それ以外のことをしたくなったり、できるだけやらずに済ませたいと思ったりしやすい。
 ただ、「勉強の時間」をそれ単体で切り取るのではなく、「未来の自分」まで時間軸を伸ばすとなると、これが意外と面白い。「今できないこと」を「未来ではできるようにする時間」になる。「わからないこと」も「勉強の時間」を通過させて、未来に進めてみると、それが「わかること」に変化する。
 これは「苦痛の時間を通らないと、良いことには出会えない」という、何だか人生は重苦しものだということを示唆したいのではまったくなく、一見苦痛に見える時間、苦痛に感じる時間も「見方」を変えると、それなりに面白いものにも、ワクワクするものにもなりえる、ということである。「自分にできなかったこと」が「できるようになる」と、それなりに自分の視野であったり、可能性であったり、選択肢が増えたりしうるのは、極めて自然なことである。歩くことができない赤ちゃんと、歩けるようになった園児とでさえ、「できること」の幅は大きく違う。その「歩けるようになる」のと似た行為が、勉強によって「できないこと、わからないこと」を「できるようにし、わかるようにする」ということである。
 「勉強」が果たして、何の良さをもっていて、どんな効果を持つのかは、定かではないが、能力の如何を問わず、誰にとっても共通して言えることとして、「今の自分にできないことができるようになる可能性を秘めた時間」が、「勉強の時間」であることは、間違いないのではないか、と、僕は思う。そして、もし、勉強を「できないことをできるようにする時間」や「わからないことをわかるようにする時間」だとするのなら、人生のどこかの地点で、「終わるもの」ではなくなる。人が生き続けて、「できること」を増やそうとする限り、それは「勉強」といえ、「勉強をしている人」となる。このように考えると、「人生」と「勉強」が一体化するようにも思われる。
 僕は自分の経験から、何となく「そこ」に納得したからではあるが、「勉強」とはそういうものではないか、と考えている。「そういうもの」とは、改めて、できないことをできるようにしたり、わからないことをわかるようにしたり、ということである。できないことができるようになって、わからないことがわかるようになって、その結果として、テストの点数が上がったり、行ける学校が広がったり、希望する進学が実現したりするという「だけ」であって、あくまで、勉強の「核」となるのはテストの点数でも、試験の合格でもなく、「未来に向かう時間」と言えるのではないだろうか。それが僕の、提案である。もちろん、テストの点数が上がることも、行きたい学校に合格することも、「未来の時間」の一つである。
 そうすると、たとえ、就職にまで効力を及ぼすことのできなかった僕の「勉強」にも、何かしらの効果があった、としても、良さそうである。「そのとき」にできないことを「今」ではできるようになったのなら、それだけで、十分である。そして、「テスト」や「受験」が課されなくなる今後においても、それがテストや受験という形がないだけで、「できないこと」、「わからないこと」と向き合い続ける限り、ある種の「勉強」が、勉強とは呼ばないかもしれない「勉強」がたしかに存在することになる。
 この時点で出しえる一つの結論は、「必ずしも何かの数値を高めること自体が勉強ではない」ということである。少なくとも僕は、「高い数値」を獲得するための行為が「勉強」だとは思っておらず、「そのスコア」をもとに生きていきたいとも、これっぽっちも思わないため、「就職をしない」という選択肢をこの上なく楽しめているのかもしれない。僕には明確には、わからない。
 ひとまず、勉強は「できないことをできるようにするもの」と定義をしてみたい。
 「できないこと」というのは、当然のことだが、「その人が」である。「その人ができないこと」があってようやく勉強はスタートすることになる。僕のできないことが、僕の勉強のスタート地点であり、あなたのできないことが、あなたの勉強のスタート地点である。そしてそれをできるようにすることが勉強であり、「その過程の時間」を「今、勉強をしている」と表現できる。できることを淡々とこなす作業、できるとわかっていながらできることに留まろうとすることは、この場合、「勉強」とは言いがたい。もちろん、「できることの安定性を増やす」ための反復練習が必要になることもあるだろうが。
 つまり、「勉強」とは「自分ごと」なのである。非常に他人とはかけ離れていて、自分に近い行為が、「勉強」である。学校などでは、運営の都合上か、その仕組みの効果に対する期待なのかはわからないが、「みんなで学ぶ」体制がとられているが、みんなで一緒に学んでいるからといって、「みんなが理解をしなければ勉強が成立しない」ということでも、「何となくそこにいさえすれば勉強が成立する」ということでもなく、やはり、それぞれがそれぞれに、自らの頭を使いながら、自らが理解するように努めて、「自分が」できるようになることを増やそうとする姿勢がなければ、それを「勉強」とは言えないだろう。「あの子がどうやら理解しているようだから、私はわからないけど非常に勉強になった」というのは、果たして「勉強」なのかというと、極めて微妙なことである。「みんなで学ぶ」ことの効果は、たとえば「教え合うと理解が深まる」とか、「人に伝えようとするとより身につく」とかが考えられるが、それは自分が理解し、身につけようとするからこそのものであり、あくまでも「勉強は自分ごと」という前提は不適切ではないだろう。
 そして「自分ごとの勉強」は、「今の自分」と「未来の自分」を接続する過程のなかに身を置くことである。または「過去の自分」と「今の自分」を接続する。「自分ごとの勉強」は「自分が解決したい問題と向き合って、それを解決しようとする過程に身を置く」行為で、「解決した時点」で成立するというよりは、「解決しようとしている時点」で成立するものである。「解決するため」に勉強をするのはたしかであるが、結果として「解決できたかどうか」以前に「解決しようとしている」態度が、「勉強」ではないだろうか。「解決すること」の前段階の、「解決するためにあの手この手を試してみる時間」が「今と未来」、「過去と今」を繋ぐ時間である。結果うんぬんではなく、「その過程に身を置く」、つまり「できないことをできるようにする過程を経験する」ことが「勉強」だということである。
 そのように考えると、テストにおいても、受験においても、一つの見解が導ける。「テストで何点をとる」という目標があっても、「その点数を取った」時点で勉強が成立するのではなく、「何点かを取ろうとして、それに向かっている時間」を「勉強」と言えるのではないだろうか。「今」はその点数が取れずしても、「未来」のいつかのテストを目標にして、「今からそのテストまでの時間」を、「その点数を取るために埋めていく行為」が、「勉強」ではないだろうか。つまり、80点取れるときには、「それまでの過程」がすでに80点を取れるだけのものとして完結していて、「その過程」が80点を生み出す、とも考えられる、ということである。テストをやって、「やり終えて」ようやく「勉強」が成立するのではなく、受験において、「合格して」はじめて「勉強」が成立するのではなく、「それに近づいていく過程」こそが「勉強」である、そんなことも、考えられる。
 僕が勉強をしてみた、わずかばかりの経験から導き出せることは、そのようなことである。
 もちろん、子どもの頃からそのように考えてきたわけでもなく、高校受験を「合格するため」に取り組み、大学受験を「合格するため」に時間をかけてきたが、受かってしまえば、それで終わりで、卒業してしまえばそれで終わってしまうのかというと、そのようにも思えず、また「就職に有利であるから」というところに価値を見出すのなら、僕はまったく生かすことができていなく、無駄なものになりかねないが、どんな時間が進むにしても、「その時間」が消えることはなく、「その経験」が残り続けているということを考えると、「その時間」自体に価値があり、「その経験をした」ということだけで、もしかしたら十分なのかもしれないと思えてくる。そして「その時間」つまり「自分のできないことをできるようにする時間」は、「今」でも再現が可能であり、「今」も継続することができる。子どもの頃は「勉強」すなわち「科目」に留まっていた「自分のできないこと」も、その科目を通しての練習によって、科目の範囲を飛び出した、「今できないこと」と向き合うことへの抵抗感はまるでない。人が「今できないこと」に向き合おうとするのなら、未来に向かって「できること」は当然、増える可能性が高まるであろうし、「人間」の能力を拡大させていくためには、「自分」の可能性を拡大させていくためには、「その時間は不可欠である」とみて、問題はなさそうである。安易に「君の可能性を広げるために勉強をしよう!」と言うつもりは毛頭ないが、「あなたができないこと」に対して「あなた」が向き合おうとするのなら、それだけあなたが「新しい自分」に出会える可能性も、「進化した自分」に出会える可能性も、少なくとも「変化した自分」を手にする可能性は高まるのではないか、と言うことはできるだろう。その練習として、その予行演習として、子どもの時間に与えられる「勉強」はこの上なく都合がよく、そして「その練習」のために子どもの時間には「勉強」が用意されているのではないか、と僕は感じる。1本もホームランが打てなかった野球選手が、1本打てるようになるために、あれやこれやと練習を重ねれば、「打てるようになる可能性」は高まり、「ホームランを打つ」という「その人の理想」に近づいていくことは間違いない。ここでは「練習をしたからといって、すべてが報われるとは限らない」ということは問題ではなく、「打てないものを打てるようにするために、練習が不要なはずがない」ということである。そして、「練習」をすれば、それだけ理想を現実にする可能性は高くなる、ということである。
 ここまでを踏まえると、「勉強」は「できないことをできるようにする」ことであり、「その姿勢」は、子どもに課される「勉強」の範囲に留まることのない態度であり、いつ何時であっても、「自分はこうなりたい」という理想を実現するためには不可欠な態度である、ということである。そしてそれは極めて個人的な「自分ごと」であり、他人に見せびらかすためのものでも、自慢をするためでも、実績として示す道具を作るためでもなく、ただひたすらに「今の自分」と「未来の自分」を繋ぎ合わせて、「自分の理想」に近づこうとする時間である。ただひたすらに、「自分を高めていく行為」といえる。
 点数を取ることが可能性を広げるわけでも、偏差値の高い学校に進学することが「あなたの可能性」を広げるのではなく、「あなたがあなたのできないことやわからないことを解決しようとする態度」自体が、あなたの可能性の開拓である。「勉強」では「その態度を学ぶ場」である。だから、社会で今後一度も問われることのないような、三角関数の知識であったり、方程式の計算であったり、ガスバーナーの使い方であったり、顕微鏡を使って実験をさせられたり、古文の読解を課されたりするのである。それ自体の価値以上に、「あなたがそれに向かっていく姿勢」が問われるのが「勉強」である。
 つまり、「勉強」をやろうがやらまいが、「あなた以外の人間」には、まったく関係のないことである。そのぐらい「勉強」とは「自分ごと」なのである。

7「きょうえい塾」は何のため
 「きょうえい塾」は何のための空間か。
 きょうえい塾は「学習面に困り事を抱えている小中学生」が対象である。簡単にまとめてしまえば、「この子たちのための空間」である。
 小中学生の生活は「学校」が中心となって構成されている。なかには珍しいことに「そうではない」子もいるかもしれないが、基本的には平日の5日間、学校に行き、授業を受け、みんなで過ごして、部活動をして、というものだろう。
 その「学校」では何が中心かというと、それは「授業」である。学校の時間のほとんどは「授業」が行われる。1時間目から5、6時間目まであるのが一般的だろう。「授業」つまり「勉強」の時間である。
 日常が「学校」を中心に構成されていて、その学校では「授業」が中心となっている。そうすると、否が応でも、子どもたちの生活に「勉強」が存在する。「義務教育」というのはある種、強制的に「勉強」が課される時間であり、「勉強」が与えられる時間である。
 この構造自体は僕がとやかく言うことではなく、言って変わることでもなく、つまりは「議論すること」ではないので、特に問題ではない。「義務教育の可否」は正直よく分からない。実際のところは「良いところもあり、そうでないところもある」という程度のものではないだろうかと、僕は思う。それに抵抗しようとすることの労力の方が、僕は生み出すのに苦労する。ここでは「それはあるもの」として考えることとしたい。
 この「学校」、そして「勉強」が中心となっている世界線に生きる子どもたちにとって、「勉強の価値観」が、「絶対的なもの」になりかねない側面があるのではないかと、僕は想像する。というのも、勉強ができる子がその集団のリーダーになりやすいだろうし、勉強ができる子がその集団でチヤホヤされやすいだろうし、どんなことをするにしても「その集団」で行われる以上、「勉強」が関係のないところにおいても、「あの子は頭がいいから」という理由でその子に多くの役が回ってくることもあるだろうし、勉強を元に出来上がったある種の「無意識のヒエラルキー」が「他の、本来全く関係のない場面」にでも効力を発揮する、なんてことも容易に起こりうるだろうと思われる。
 それはたまたま「学校」という空間が「勉強」を中心に構成されているだけであるが、「勉強」を中心に構成されているからこそ、たまたま「勉強」における能力が優れていた子どもや、また、それを伸ばす環境を人よりも多くもっていた子が、その集団内で、「有利なポジション」を得る、なんてことは想像に難くない。それ以外の指針として、「運動ができる子が有利なポジションを得る」ということも、全くの同義である。
 そのような環境が「日常」であると、「勉強ができる子」が正義となっても、「勉強ができること」がこの上ない価値となっても、つまり「勉強の価値観」がその空間内で「絶対的な存在」となっても、不自然ではない。というより、それが「自然」である。常に「勉強」の時間が用意されている世界では「勉強ができる子」にとっては「勝ち戦」であろうし、「勉強が苦手な子」にとっては「負け戦」となる。それを、僕たち外部の大人が「勉強は絶対ではないよ」とか、「勉強できたって幸せになれるとは限らないよ」と優しいのか優しくないのか分からないような、甘い言葉、その場限りの優しいささやきをしたところで、「そんなこと言ってられるか」というのが子どもたちの本音であっても、全く理解に苦しまない。
 僕はその認識、つまりは「幻想」を破壊するために、きょうえい塾を始めた。幻想を幻想としては認識できない空間が当たり前に、日常になっている子どもたちに、ひとつの「逃げ場」を作りたい。子どもたちにとっては当たり前になっている、もっというと、よりそれにとらわれかねない「その親御さん」の逃げ場をつくる。嬉しいのか、悲しいのか、「学生」が終わってしまえば試験の機会などほとんどない上に、多くの人にとって「勉強」なんて、遥か彼方の「前にやっていたもの」でしか無くなってしまう。それにも関わらず、子どもの時間の、幻想による「勉強の価値観」をきっかけに、自己否定に向かったり、「自分はダメな人間だ」という認識を作りかねない空間しかないのは、考えものである。勉強ができたって、できなくたって、いや、「誰かに自慢できるほどに」できたって、「誰かに馬鹿にされるほどにしか」できなくたって、所詮、「そのテスト」がなくなれば「ない」も同然である。それでも、「テスト」が用意される環境が続く限り、それは「絶対的なもの」という「幻想」に変わってしまう。
 ただ忘れてはいけないのは、だからと言って、「その環境」を変える必要があるわけではない、ということである。それよりも、「その環境」をふわふわとしながら適当にやり過ごす術を探した方が、面白いのではないかと、僕は考える。僕は、そうやって、適当に通過してきた。そして大学を卒業した今になって、ようやく「それが本当に幻想だった」ということを実感している。「学力ヒエラルキー」は自分で勝手に作っては、勝手に盛り上がって、ときに盛り下がって、気がついたら忘れているのである。それならば、そんな「勝手にできて、勝手に消えていくもの」としての「勉強」ではなく、もっというと時間が経過したら「勉強をする」という概念すらどこかに行ってしまうような「学び」なんかはどんどん無視して、もっと気持ちよく勉強に向かって、勉強の真髄を自ら探す旅をする時間にする。僕は勉強の真髄がわかっているわけではないが、勉強はそれなりに面白いものだな、とは感じていて、今ももちろんであるが、これからも勉強をし続ける人生にしたいな、とさえ思っている。「自分のポジション」を確立するためにやる勉強、そして「用が終わったら必要でなくなる勉強」ではなく、もう少し気楽に、もう少し楽しく、時に疲れながら、それでもずっと続いていく勉強。謎の絶対性を帯びた勉強とは少し距離をおくための空間が「きょうえい塾」である。

8「課されるライン」は人それぞれ
 学校では基本的には、皆が集団行動をする。授業をするにしても、授業の移動にしても、給食を食べるにしても、どこかに出かけるにしても、家に帰るにしても、集団行動が求められる場である。あれだけの人数が所属しながら、30人のクラスを1人の担任の先生でみることもあるぐらいなので、「各自自由に生活をしてください」というわけにはいかなくて当然である。まして、小中学生ともなれば、そう簡単に「自由」を許容してしまうと、おそらく収拾がつかない、無秩序な空間が出来上がりかねない。そのように考えてみると、学校の集団生活は、毎日をしっかりと運営する点において、非常に効率的だとも思える。
 僕は学校には学校の良さがあり、学校の生活の中でしか経験できないこと、知り得ないこと、学べることはあると考えているので、「それ自体」には、あまり問題意識はない。たまにニュースで報道されるような、変態な先生が唯一の気掛かりである。
 ただ、「集団生活」から生まれる、ちょっとした問題点があるとすれば、どうしても、何をするにしても、「課されるライン」が「みんな一緒」になりやすいことである。たとえば、テストをして、100点満点で80点以上取れると優秀な子、とか、50m走を7秒台で走れると足の速い子、とか、二重跳びができる子が縄跳びが得意な子、とかとか。人が持つ能力は皆違うにも関わらず、「同じライン」で競争が発生しかねない。算数がもともと得意な子であれば、算数のテストで80点を取ることはそこまでの苦労はともなわないかもしれないが、算数が苦手な子が60点を取るためには、それなりの苦労や努力が必要かもしれない。結果的に両者が「80点」と「60点」をとったとして、前者が優れていて、後者が劣っているようにしか見えなくなってしまうのは、少々もったいない。別に「どちらが優れているのかを競うものではない」としても、やはり、みんなで同じテストをして、同じ問題を解いている以上、無意識のうちに「基準」ができあがって不思議ではなく、その基準によって「区分け」がされても不思議ではなく、それによって人間関係ができあがることも、「自己」ができあがることも、十分に考えられるのではないだろうか。ひとまず、同じ算数のテストをして、「60点」と「80点」の子がいて、それぞれがどのような過程を経て、その点数にたどり着いたかは、「点数だけ」では「わからない」のではないか、ということである。
 集団生活のなかでは、「課されるラインがみんな一緒」になりやすい、と僕は感じる。「目標がみんなでつくられやすい」ともいえるだろうか。「その人」であることを通り過ぎて、「その人」に求められるラインが似てくる。なんとなくテストでは「80点以上」が求められ、50m走では「7秒台」が求められる、といったことが代表例だろう。ちなみに僕は水泳の授業が大の苦手で、高校生になってからようやくそれなりに泳げるようになったのだが、水泳の授業は「得意な子」と「不得意な子」が実に明確に出る。もともと、運動神経がよく生まれた子で、「なんとなくやればできちゃう子」もいるが、「水泳を習っている子」と「水泳を習っていない子」の差というのは恐ろしく激しい。僕は残念ながら、運動神経は良くなく、しかも水泳を習ってはいなかったので、そして水恐怖症かというほどに水のなかが大嫌いだったので、まったく泳げなかった。それは純粋に「できない」という側面もあるかもしれないが、それ以上に「日常生活で練習をする機会がまったくない」、つまり「授業なしにテストをする」みたいな状態である。ただ、そんな僕も、日頃から練習の機会を持っている「水泳を習っている子」と横並びでタイム測定をさせられる。なんとか練習の成果もあって、今では、クロールの50mを1本限定で死に物狂いで泳ぐことができる。みなさんには悪いが、僕はそれでも「水泳が得意になった」と思っている。
 やや話がバラバラになってはいるが、つまり、何事をするにしても、「違う人」がやる以上、「課されるライン」は人それぞれでいいのではないか、ということである。生まれた場所も違えば、食べてきたものも違い、習えることも違えば、お父さんお母さんだって違う。さかのぼれば、DNAが違う。好きなことも違えば、得意なことも違う。苦手なことも違えば、不得意なことも違う。でも、集団のなかでは「ライン」が一緒になってしまう。
 「はい、それでは集団行動なんてやめましょう」ということではまったくない。そうではなくて、「集団とはそういうものだ」という認識が必要なのではないか、と僕は考える。社会の構造に対する不満をためようとするのではなく、それを変えたいとも思うことなく、むしろそれを大好きになって受け入れた上で、「課されるラインがみんな一緒なんてありえないっしょ!」と笑い飛ばしておく姿勢をどのように保つか、を考えるといいのではないか、ということである。集団の空間を笑い飛ばして、「自分が納得した60点」であるならそれでいいし、納得した「死に物狂いのクロール」ならそれでいい。ただ、そうはいっても、「子どもたち」というのはそこまで強い動物ではなく、「人間」とはそこまで強靭なメンタルを持ち得ないとも考えられるので、「そうでない別の空間」が必要になる。「別の空間」が徐々に「その認識」を作り出してくれるのではないか。その「別の空間」として、「無料塾」は役割を果たせるのではないか。僕はそんなことを考えてみている。

9 0円で勉強をする場
 きょうえい塾は「0円で勉強をする場」である。僕は自分でこのような場をつくりながらも、この言葉自体には、いささかの違和感を覚える。というのも、「そういえば、勉強とは有料だったのか」という違和感である。果たして、勉強とは有料なのだろうか。
 もし、勉強が「有料」だとするならば、「勉強をする時間、勉強ができる時間、勉強を身につける時間、勉強を教えてもらう時間」と「お金」を「交換」していることになる。「前者の価値の大きさ」と「お金で表現し得る価値」の「交換」である。「勉強の有料化」があるとするなら、このような図式になる。
 もちろんそこには、勉強をしたことで「より高い点数を取れるのではないか」や「できる限り偏差値の高い学校に進学できるかもしれない」といった期待感も込み込みの価値があるだろう。必ずしも「その時間」の価値だけではなく、それによる「未来の一つの勝利」に向けた、そのための「一つの苦労」を買っているという側面もあるように思われる。実際、多くの人が社会に出る段階で、履歴書を書き、そこに「〇〇高校」と書き「△△大学」と書いて、それを通して「その人」を審査するシステムが広がっている以上、「その道具集め」に走りたくなる気持ちが生まれても、不自然ではない。できる限り「優秀な人」を製造するために、そしてその証明をするために、「道具としての勉強」を「買う」行為はいたって、人間が考えることとしては驚くべきことではない。
 だが、僕は「勉強」を「何か」と交換しようとする態度に、またまた違和感を感じずにはいられない。もし「交換」であるならば、「自分がした勉強が、何かに取って代わる」ということになる。「自分がした勉強」を差し出して、「何か」を手にする。その「何か」を手にしたら、「自分がした勉強」は何になるのだろうか。「勉強」は、数値を高めて、何かと交換し終わってしまったら、もう「自分のもの」ではなくなってしまうのだろうか。「交換」とはそういうことである。例えば、僕が焼きそばを食べたくて、300円で購入したとする。これは「手に持っていた300円」と「売っている焼きそば」の「交換」である。そして、焼きそばを食べ終わった後に、150円のアイスクリームが売っていたとする。それを食べたいがために、焼きそばに使った300円を返してもらって、150円のアイスを買うということは不可能である。「交換」とはそういうものである。いくら「自分がもっていた300円」であっても、一度「焼きそば」との交換が成立してしまったら、自分のものではなくなってしまう。焼きそばを食べ終わった後に、「すみません、アイスを食べたいので、150円だけ返してもらえませんか?」とは、不釣り合いな交換にも程がある。
 つまり何が言いたいかというと、「勉強を何かと交換しようとする態度」は不自然ではないだろうか、ということである。もし「何かと交換」をするのなら、した時点で、「自分のもの」ではなくなってしまう。「勉強」と「お金」を交換する態度。「お金で得た勉強」と「受験」を交換する態度。「勉強」と「合格」を交換する態度。「学歴」と「就職」を交換する態度。勉強をすることで「何か」を得て、その「何か」のための道具となった「勉強」は、交換物になる。交換されたら、後になって、「それを返してください」とは残念ながらいかない。交換をした後には、「前に持っていた」と言葉で説明をしない限り、そこにあったのか、なかったのかさえ、わからない。「前にあったから、今の状況が生まれた」と説明するのが限度である。焼きそばを食べ終わった空箱を見せて、「前は300円を持っていた」ことを証明するのが精一杯である。勉強が「交換物」となる最終形態としては、「その会社に所属をしているのなら、さぞ勉強をしたんでしょうね」というものに、とどまってしまうのではないか。道具と化した勉強は、一つの「手形」に過ぎないのである。「小さい頃から勉強を頑張ってきたけど、結局なんのためだったのだろうか」という抜け殻のような状態は、このようにして生まれるのではないか、と僕は想像する。
 僕は、それが必ずしも悪いことだとは思わない。考え方は人それぞれである。どんな意味を込めて、どこに焦点を当てて、どんな意識で勉強をしようとも、それぞれの自由であり、誰かに強制されるようなことではないと、思っている。
 ただ、「勉強は何かと交換されるもの」なのだろうか。
 そうではない、というのが僕の考えである。勉強は、ただ「自分ができないこと、わからないことを、できるようにする、わかるようにする」という、極めて個人的な「自分ごと」であるという、考えである。
 たとえ「交換物」としての「勉強」であっても、実際には交換されず、「テストの結果」として、「学歴」として残るではないか、と突っ込みを入れられそうな感もあるが、そういうことではない。ここで考えたいのは「勉強をどのように捉えるのか」ということである。テストでいい点を取ることが勉強、「学歴を持っていることは得であるから、そうであるならばやる勉強」ではなくて、自分ができないこと、わからないことと向き合って、できないことをできるようにする、わからないことをわかるようにする経験のために勉強をしてはどうだろうか、と僕は思う。焦点を、点数や偏差値の「数値」にあてるのではなく、「自分のできないこと、わからないこと」にあててはどうだろうか、という提案である。結果として「テスト」が目標になること、「受験」が目標になることとと、「そのための道具」として勉強が扱われるのとでは、「同じ行為」であっても「違うもの」に思えてならない。
 というのも、一次関数の知識や、三角比の知識を、生きていく上で生かせる職業につく人など、残念ながら、ほとんどいない。少なくとも、僕の周りに、いまだに一次関数の知識や三角関数の知識を「利用して」生きている大人は、どうやらいないようである。僕自身も、「問題」を課されない限り、その知識を使う場面に遭遇したことはない。
 ただ、だからといって、それは「無駄な知識」なのかというと、全くそんなことはない。というのも、「勉強」は「自分のわからないことをわかるように、できないことをできるようにするもの」だという前提にかえると、「それがなんの知識か」ということは大して問題ではなく、「その知識を身につける過程」を私たちは「数学」という科目を通して、他にも「理科」という科目を通して、「社会」という科目を通して、学ぶのである。もし、「交換物」としての勉強に留まるならば、それは「やっても意味のないもの」であるために、せめて、「いい人生につながるらしいから」という苦しまぎれの「価値」を見出すしか無くなってしまうだろう。勉強とはもう少し個人的なものであり、自分ごとであり、だからこそ「何か」と交換されることなく、そして交換のための道具でもない。「交換のための道具」であるなら、「どこかで自分のものではなくなる勉強」が存在するということであり、「やってきたのは自分であるが、今や誰がやってきたものなのかさえわからない」という状態が生まれるということである。そういった類の「勉強」が、よく世間で問われる「勉強をすると何になるのか」、「勉強をしたところで、どんないいことがあるのか」という議論の震源となるのだろう。
 僕はその「それぞれができないことやわからないことと向き合う経験」は何かと交換できるものでも、されるものだとも思わないため、そして「その経験」こそが「生きる糧」だという考えがあるので、「0円」で「その場」を提供したい。「0円」というよりも、「お金と交換することができないもの」なのである。いや、ある側面からみれば「お金と交換し得るもの」であるのはたしかであるが、僕は「その認識」で「勉強」を捉えることはできない。「勉強」で得られるものは、交換をすることで「他人に対して価値が生まれるもの」ではなくて、もう少し、自分よりな、「自分に向けられたもの」だと、僕は考える。そこに、「勉強はなんのためにやるものなのか」という問いの発生の余地は、ない。
 僕のわずかばかりの経験から感じることとして、勉強は「やったからこうなる」という、直線的で単純なものではない。そして、そのような「わかりやすい効果」や、「即効性」があるものでもない。やってみることで「やってよかった」と感じたり、やってみることで、「自分の特性」に気がつけたり、やってみることで「面白さ」を発見できたり、やってみることで「未来」が生まれたりするものなのである。そしてそれは永遠に体内に残り続ける。「勉強をしたこと」が何かによって失われることも、誰かに奪い取られることも、ないのである。たとえ「知識」としては忘れてしまうことはあっても、「それを学んだ過去」が消えることはなく、「わからなかったことをわかるようになった経験」自体が消えてしまうことはない。
 そうすると、やはり、「勉強をした人」と「勉強をしなかった人」とでは、上下はないものの、明確に「違い」はあるし、「勉強をする人」と「勉強をしない人」では「違い」があって、しかるべきである。「何かのため」とか「誰かに披露するため」ではなく、ただただ「自分ごと」として勉強をする時間は、できないこと、わからないことを克服する時間であり、それを克服した経験が多ければ多いほど、自分の視野が広がり、可能性に変化が生じるのは、当然のことである。
 勉強には、「分かりやすい効果」などないのである。それはただ「自分」に向かって「自分ごと」の克服をする時間である。その時間を経て、できることを増やそうとする行為であり、つまりそれは「進化の機会」なのである。わからないことが何であれ、できないことが何であれ、実は大した問題ではなく、もっというと「テストで何点か」なんて本当に小さな小さな問題で、そんなこと以上に「それを放置しない態度」が求められているのだ。「それを放置しない態度」はもちろん、「一生もの」である。
 ここで、「勉強は有料なのか」というテーマに戻ってくる。交換するものではない「勉強」を、「交換物がないから」という理由で、その機会に恵まれないとあっては、本末転倒である。必ずしも「自分ごと」としてではない「勉強」が主流になることを、僕は謎の正義感から、放置することはできない。ということで「0円」で勉強ができる場をつくる。それが「きょうえい塾」である。このままでは「勉強にはお金がかかる」という前提が「現実」となりそうな予感がしてならない。僕は静かに、ひっそりと、その現実に挑戦してみようかと思っている。

10きょうえい塾は受験のためにあるのではない
 きょうえい塾は「受験のため」にあるのではない。僕は、「偏差値を獲得すること」が勉強だとは考えていない。僕の「勉強」に対する基本姿勢は「できないことをできるようにする」という、「その人」が基点となるものである。そもそも「集団の平均値」を基点とする偏差値は、「その人」というよりむしろ「自分以外」に焦点を当てるための数値ではないかと思われる。
 ただ、「受験を頑張りたい!」という子に対して、「偏差値を獲得したいのですか?」と問うことは、当然ない。そういうことではない。「受験を頑張る」ということも一つの「目標」になり得るし、克服したい壁になり得る。つまり、「受験を頑張りたい子」のことは、僕にできる限りのことをして、全力で応援する気、マンマンである。
 「偏差値を獲得すること」も、もちろん「一つの目標」にもなり得るだろうが、「高い偏差値を獲得するため」に勉強をすることのネガティブな部分を考えてみたい。
 例えば、「偏差値65」の学校を目指そうとする。偏差値は「50」を基準とするのが一般的であるため、「65」といえば、難易度はそれなりにあるとみていい。
 それが「どういう回路」を経て生まれた目標であれ、「それを目標にすること」は個人の自由であり、その人が好きにすればいいことである。誰かに止められる必要はない。ただ、「受験」をする以上、受かる可能性もあれば、落ちる可能性もある。うまくいく可能性も、うまくいかない可能性もある。これは、「その人の能力次第」というところからはもう一歩手前の段階、つまり「受験には合格と不合格がある」という極めて「ルールの説明」に近いことである。
 「そのルール」に基づいて、「そのルール」が強くなり過ぎてしまうことで、合格が正義で、不合格が悪のような捉え方をされる場面が、私たちのなかにはある。それまでに頑張ってきたことが、そして「合格」に向けて走り続けてきたことであればあるほど、「合格」という結果が賞賛され、「不合格」という結果は残念なものとなる。ただ、そもそもの「ルール」に立ち返ってみると、「合格する可能性も、不合格になる可能性もある」というのは、皆が認識できることである。つまり「それをわかって」、勉強をして、目標を達成しようとするのが「受験」といえる。
 それにも関わらず、「偏差値を獲得するために、勉強をしよう!」とはいかがなものであろうか。というのも、皆が、「その偏差値を獲得できる可能性も、できない可能性も持っていること」が「大前提」の場が、「受験」にも関わらず。「できない可能性」には極力目を瞑り、とりあえず勉強を進めて、できなかったら残念賞では、無責任にも程があると、僕には思えてならない。ただ、「そういう盛り上がり方」はたしかに存在しているように、思われる。
 「その学校」に入るためには、たしかに「偏差値65」が必要かもしれず、たしかに「それを突破するため」に頑張らなくてはならないかもしれず、たしかにそれは「一つの目標」になりえるかもしれず、たしかに「合格をしたら」嬉しいものかもしれないが、だからといって、「不合格になったから」といって、「うまくいかなかったから」といって、「それが台無しになるだろう前提」で勉強をするのは、僕には違和感がある。つまり、「高い偏差値を獲得するため」の勉強は「高い偏差値」を獲得してようやく成立するものであり、「高い偏差値を獲得できなかった」ら、果たして「その人の勉強」は「無かったこと」になるのだろうか、という違和感である。僕は「そうではない」と考えるために、そうなると、言葉にすると、「高い偏差値を獲得するために勉強をするということには賛同ができない」、ということになる。もちろん、そもそも「ある学校」に合格するための「ノウハウ」を、僕はもちあわせていない。
 「受験を頑張りたい」気持ちと「高い偏差値を獲得したい」気持ちには、明確に違いがある。「この違い」など、本来説明して、区別するものなのかはさておいて、ひとまず、僕は、きょうえい塾は、「受験のため」、受験生養成のためにあるのではない、ということを承知していただけると、幸いである。ただ「受験を頑張りたい」子のことは、全力で応援をする気概である。
 「受験のため」を謳った勉強は、どことなく窮屈である。時間をかけて勉強をして、その過程で「できるようになったこと」がたしかにあるにも関わらず、そしてその過程のなかに、多少なりの「面白さ」や「喜び」も感じられるにも関わらず、そしてそれは「良かったこと」にも関わらず、「受験でうまくいかなかった」という、たった一文で、すべてが台無しになるような空間を、わざわざ作る必要はないと、僕は思う。勉強が「自己否定」の震源地になるような存在であっては、そりゃ勉強は悪者になる、嫌われ者になるだろうな、と想像できる。果たして「勉強」が悪者に思われているのか、嫌われているのかは僕にはわからないが、少なくとも「窮屈な勉強」はあまり面白くはなさそうである。
 勉強は「自分のできないことをできるようにする」時間である。「合格する」ための道具ではなく、「自分を高めようとする時間」である。勉強は「それを積み重ねていくもの」である。「受験」に向けて、「突発的にそれに備えるもの」ではない。

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