見出し画像

なぜ私が予備校講師になったのか①

概要

1980年代~90年代にかけて予備校講師は憧れの職業だった。2020年現在、予備校業界は斜陽と言われている。そんな中、大学受験英語を教え始めて10年経つ日永田(ひえいだ)が、なぜこの業界に足を踏み入れたのか。10年という節目を迎えて、これまでの人生を振り返るとともに、次の世代を担う若手講師の参考になるような内容を提供したいと思う。

エピソード (1) 大学生時代

初めて集団授業を担当したのは、大学3年生のときである。神奈川県に展開する「青い」看板が目印の塾であった。難関高校を目指す中学2年生のクラスで、最初の授業は「接続詞」だった記憶がある。

当時の私は、英検1級とTOEIC970点を保持しており、純粋な英語の知識に関しては、高校受験の塾で私に比肩する講師はほぼいなかっただろう。だが、どれほど知識があろうと、文法を体系的に教えるという経験を積んでいない駆け出しの大学生が、はじめからまともに教えることなどできるはずがない。振り返ってみれば、恐ろしく適当なことを教えていものだ。当時の生徒に申し訳ない思う。それでも、若さと情熱でなんとか授業を成立させることができたのだった。

大学4年生になり、難関高校受験部門で、受験学年を担当するようになった。相変わらずでたらめなことを教えていたような気もするが、生徒たちは必至にくらいついてきてくれた。そんなある日、K先生が私にこのようなことを言った。

「ひえーだ君。講師向いてると思うよ」

この、何気ない一言が、今後のキャリアを決めてしまうとは、当時の私は予想することもできなかっただろう。だが、都合の良いことを信じる傾向のある私は、「あ、センスあるんだな」と思い始めるようになった。実際、ある程度のセンスはあったのだろう。しかし、センスだけで生き残ることができるわけではない、ということをのちに痛感することになるのだ。。。

話を戻そう。大学4年生といえば、就活だ。だが、講師としてセンスがあると思い込んでいた私は、英語講師として働き続けることを検討していた。ただ、自分の英語力を活かすには、高校受験ではなく、大学受験に踏み込む必要があると感じていた。そこで、大学受験部門のある塾に、正社員として就職することを決意したのである。

ところが、新卒の正社員で、かつ大学受験を教えることができる塾は、極めて限られていた。実際、最も現実的な選択肢は、当時バイトしていた「青い看板」が目印の塾だったのだ。結局、そこの採用試験を受けることになった。

今でも覚えているのは筆記試験である。専門科目1科目だが、高校入試レベルだったのだ。さすがに高校入試レベルで満点を取ることができないわけもなく、「満点取れていなかったら、落としてください」という生意気な啖呵を切った。もちろんその後、恙なく内定をもらうことができた。

もののついでに生意気エピソードをもう1つだけあげておこう。件の塾では、合宿研修というものがある。内定者(100人以上いる)が、5~6人で1つのグループを作り、グループ間での模擬授業コンテストを行うという内容だ。グループの代表1人が、残りのメンバーを生徒に見立て、全内定者と研修官の前で模擬授業合戦を行うという企画である。ここで、不遜なる日永田青年はこう考えた。

「俺が授業すると、優勝が決まってしまうので、ほかの人にやってもらおう」

あえて、模擬授業担当ではなく、生徒側に回ることにしたのだ。結局、優勝することはできなかったが、本当の生意気エピソードはこれではない。

全てのグループが模擬授業を終えたあと、研修官の一人が壇上にあがった。そして、全員に向かって、喝を入れたのだ。この研修の真の目的は、授業準備に対する認識の甘さを、新卒内定者に叩き込むことにあったのだ。静まり返る会場。重々しい空気。そして、研修官はこのように言った。

「私よりも授業が上手にできると思う人は、手をあげてください」

この雰囲気の中で、手を挙げる勇気のある内定者などいるのだろうか。そう、一人だけいたのだ。私だ。不遜なる日永田青年は、同期どころか、研修官よりも授業が上手いと本気で思っていたのだ。たった一人だけ、空気を読むことなく、手をあげた。だが、さすがに研修官も手をあげる人がいるとは思わなかったのだろう。その場では、華麗にスルーされた。だが、その後、その研修官に私に、「手を挙げたところ、見てたよ」と声をかけてくれた。

実に生意気な内定者だった。しかし、その驕りは、正社員1年目にして、打ち砕かれることになるのだ。


エピソード (2) 青の正社員時代 に続く。












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?