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旧盆

 七月は旧盆で、実家がある浜松は旧暦でお盆を迎える。13日の父のインスタグラムに迎え火の様子が写っているのをみて、お盆だったと気がついた。東京にいるとすっかり忘れてしまう。お盆とは夏休みのことだとばかり思ってしまう。迎え火のヴィジュアルは独特で、一瞬に子供の頃の記憶が蘇る。キャンプファイヤーの炎よりはずっと小さいが、マッチが燃えてるよりはずっと炎らしさがある。花火よりも直接木を燃やす方が刺激的だ。

 東京の家の自分の部屋は倉庫と化していて、足の踏み場もない。年に数回、衣替えのタイミングで片付けをしようと思って色々引っ張り出すのだが、捨てるものはあまりなく、結局また元に戻してしまう。たまに着るシャツの長袖か半袖を入れ替えたりするくらいで、年中ジーパンTシャツの格好だから積み上げてある服が変わることはない。

 部屋の一番奥に祖父が使っていた自作の木の神棚を飾っている。祖父が亡くなった後、実家から持ってきたものだ。小さな本棚の上に飾っている。今はその横にキャビネサイズの祖父の写真を額に入れて飾ってある。サングラスをかけて中指を立てている写真。以前Tシャツの原稿としてプリントしたものだ。なんでこんな写真を遺影にして飾っているのか。当時は面白がって、これも洒落てるかなという気持ちで飾っていた。他の写真は写真集にもなっているし、あまり感傷的になりたくなかったというのもある。

 いつしかそんな写真でも見慣れてきて、元気がない時に喝を入れてもらうとか、ユーモアで楽天的に乗り切ろうという気持ちになったりとか、意外に効果的だったこともある。一時期写真そのものを片付けてしまったこともあったが、子供と一緒に見に行った「リメンバー・ミー」という、メキシコの死者の日が題材のディズニーのアニメ映画を見に行った時、死者の日に写真を飾られない先祖は死者の国での存在すら消えてしまうという話を知って、写真を戻すことにした。

 部屋を片付ける理由はその写真にコップ一杯の水を届けるためでもある。あっという間に本やらなんやらで埋まってしまってその神棚まで手が届かなくなるのだが、それまでの数日間、長く持って一、二週間は毎晩水を変えに行ったりする。家族が寝静まって静かになってから、そっと行ってコップに手を伸ばし、台所で水を入れ替えて持ってくるだけなのだが、なにか安心感があるものなのだ。

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写真家の若木信吾です。 写真に関するあれこれです。写真家たちのインタビューや、ちょっとした技術的なこと、僕の周辺で起こっていること、それら…

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