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山縣良和・ここのがっこう論①|松葉舎の講義録|2024年3月26日

2024年3月26日、富士山麓に広がる機織り町・富士吉田にて、作家の川尻優さんと共に「生きること、機を織ること、言葉を紡ぐこと」というタイトルにて、ファッション私塾「ここのがっこう」の創作と、松葉舎の学問とについてお話ししてきました。こちらはその講演録となります。

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この度はお招きいただきましてありがとうございます。松葉舎主宰の江本伸悟と申します。また、デザイナー・山縣良和が運営するファッション私塾「ここのがっこう」にも講師として関わっておりまして、この4月で「ここのがっこう」講師歴も早10年目に差し掛かろうとしております。

新型コロナウイルスの流行を機に、「ここのがっこう」では生徒の修了展を富士吉田で開催しはじめましたが、ありがたいことに町のみなさまにもご興味をもっていただきまして、今日は「ここのがっこう」をもっと深く知るための講義をということでこちらにお呼びいただきました。

また、「ここのがっこう」では学者であるぼくが講師を務めていたり、創作に際して学問的な思考にも重きをおいています。ぼくの主宰する私塾・松葉舎にも「ここのがっこう」の生徒が通っていたり、逆に松葉舎の塾生が「ここのがっこう」を見学したり、ときには「ここのがっこう」でレクチャーをしたりと、ファッションと学問の垣根を越えてお互いの創作と学問を混じりあわせています。

そのことを踏まえ、今日は「ここのがっこう」での創作に加え、松葉舎での学問をも同時に追体験できるような講義をお願いしますとご要望をいただきました。松葉舎も「ここのがっこう」も少人数での双方向性の対話を基盤とした授業形式ですので、今回のような多人数向けの講演でその追体験をしていただくのは非常にチャレンジングな課題となるのですが、なんとか頑張ってみたいと思います(笑)

いろいろと方策を考えたのですが、今日の講演ではみなさまに合計4回ほど質問を投げかけたいと思っています。最後の質疑応答のさいに、みなさまのお答えを伺いたいと思います。こちらからの質疑にみなさまから応答していただくという、普通とはあべこべの関係の質疑応答が最後に待ち構えていますので、ご用心ください笑

早速第1回目の質問として、「織りとは何か?」ということを、まず考えていただきたいと思います。機織りの町なのでそうしたのですが、「織り」よりも切実な関心の対象があれば、それに置きかえて「〇〇とは何か?」と問うていただいて構いません。すぐに答えがでなくとも構いませんので、その問いを心に携えて、本日の講義に耳を傾けていただければと思います。

それでは、「ここのがっこう」をより深く知るための講義を始めたいと思います。

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このたびの会の主催者である五十嵐さんからは、より具体的に
①「ここのがっこう」の作品をどのように鑑賞すればいいのか?
②「ここのがっこう」の生徒や作品は何故世界で評価されているのか?
③「ここのがっこう」の生徒は何を考えながら制作に取り組んでいるのか?
④「ここのがっこう」では何を学んでいるのか?
という質問を頂いています。

「ここのがっこうの作品をどのように鑑賞すればいいのか?」という質問の裏には、率直にいって「ここのがっこうの作品はよく分からない」という気持ちが隠れているのだと思います。何かただならぬ雰囲気を感じはするものの、作品は完成途上に見えるし、着用も難しそうだし、あらあらしく、おどろおどろしい作風のものも多い。一体どのような意味が、価値が、そこに隠れているのだろうと。

その気持ちはぼくもよく分かります笑 ファッションの素人として「ここのがっこう」講師に着任して以来、ぼくもそのような「分からなさ」を抱えながら生徒の作品に対峙し続けてきました。

一方で「ここのがっこう」の作品は毎年のように、例えば若手デザイナーの登竜門となっている世界的なコンテスト International Talent Support(ITS)にノミネートされ、賞を獲得し、また、例えば東京コレクションのようにきらびやかな舞台でショーを開催するデザイナーも続々と輩出しています。

このギャップから、そこには自分が所持しているものさしでは測れないような尺度、価値が存在しているのではないかという期待が芽生えますね。自分はなぜ「ここのがっこうの作品が分からない」のかが分からない、それを知りたいと。

そこで今日は「ここのがっこうの作品はなぜ分かりにくいのか」を考えるために、まずは逆に「分かりやすい服」について考えてみたいと思います。

例えばアパレルショップには、「ここのがっこう」に比べれば「分かりやすい服」もたくさん置かれてあります。その「分かりやすさ」を因数分解してみると、まずそこにおいてあるものは、かわいかったり、かっこよかったり、おしゃれだったり、強そうだったり、何かしらの意味で「快い」ものが多い。また気になったものがあれば試しにそれを「着られる」。そして気に入ったものがあれば実際にそれを「買える」。ということは、それは商品として既に「完成している」。こうしたことの全体が、そこにある服の「分かりやすさ」を構成しているのではないかと思います。

ところがファッションの世界の奥深さは、必ずしも「分かりやすい」ものだけが評価されるわけではない、という点にあるように思います。むしろ「分かりにくい」からこそ心が惹かれる、どうにも気に掛かってしまう、謎が謎をよんで格好良いという逆転現象が、ファッションの世界にはしばしば生じている。

実際、山縣も高校時代には「裏原宿系」のファッションの良さがまったく「分からなかった」といいます。だけど、だからこそ、それを理解したいとありとあらゆるファッション雑誌を読みあさるようになり、そうして一層深くファッションの世界に引き込まれていった。

もやに包まれたような見えにくさ、分かりにくさの中にこそファッションの魔法が隠れている。それは、ファッションが人の体に布を当てて、そこに秘密を作りだす営みだという点にも関わっているのかもしれません。大胆にいえば、ファッションとは「分かりにくさ」を身にまとう営みでもある。

けれどぼく自身は、「ここのがっこうの作品の分かりにくさ」は、そのような「敢えての分かりにくさ」とはすこし毛色が異なっているように思っています。むしろ生徒たちは、自分たちの表現を誰かに理解してもらいたいと切に願っている。にも関わらず、その願いは容易には届かない。「分かってもらえない」。そこには「ここのがっこう」の実験精神と、人間の心の矛盾すらも包みこむようなファッション表現の柔らかさとが関わっています(※後者については今回の講演では話しきれませんでした)。

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すこしずつ解きほぐしていきましょう。

ここでいう実験精神とは、未知へと向けて何事かを成す精神、自分が試みることの結果が自分にも分かりかねる中で、だからこそ自らの行為を通じてそれを生みだそうとする精神のことです。

実際、「ここのがっこう」におけるもの作りのファーストステップは、自分がこれから作ろうとするものを一旦「分からなくなる」地点から踏み出されます。

例えば「ここのがっこう」の体験講習会では、しばしば聴衆に向かって「スカートとは何か?」という問いが投げかけられます。それに対して、例えば「上下に一つずつ穴のあいた筒状の衣類」と返答があったとします。すると山縣は、その条件を満たしていれば本当に何でもスカートなのかと、再考を促します。

例えばそのスカートを穿(は)く位置はどうか。腰から穿けばたしかにスカートだが、上端をだんだんと上昇させて、腹から穿いても、胸から穿いてもまだスカートだろうか? さらに上げて肩から穿いてしまえば、これは流石にスカートではなくなるのではないか? それはマントではないか? あるいは長さはどうか。スカートにはスケバンの穿くように長いものもあれば、ミニスカのように短いものもあるが、丈をどんどんと縮めていって、ついには紐一本分の幅になってしまったとしたらどうか? それはスカートというより、もはや紐衣ではないか?

こうした押し問答が続けられる中で、聴衆はスカートとは何なのかがだんだんと分からなくなっていきます。そうして、スカートというものに対して抱いていた所与のイメージ、固定観念、「分かる」が崩壊したその地点から、あらためて聴衆は、「ここのがっこう」の生徒は、自分にとってのスカートを自分の手で掴みなおしていく。

当然、そこに表れるスカート像は人によってさまざまです。あるデザイナーにとってのスカートは、それを見る人からすればスカートではないかもしれない。これまで世界を整然とカテゴライズしてきた自分の言葉が揺さぶられる。自分のボキャブラリーには収まりきらない異形をつきつけられる。そうした経験は、必ずしも「快い」ものではありません。眼前にあるそれを自分の手持ちのボキャブラリーで名指せない不気味さは、人の心を宙づりにして不安に陥らせ。ときには身の毛のよだつような「不快」すら抱かせるかもしれない。

また、そのような既成の概念から飛びだしたスカートを作ろうとすれば、既存の手法やテクニックだけでは足りないかもしれない。そこで生徒は新たな技法の開発に取りかかるのですが、おのずと「ここのがっこう」は実験室のような様相を帯びてくる。実験室から生まれてくるものは、完成品としてのプロダクトというよりは、まだ見ぬ形をこの世界にあらわすためのプロトタイプです。

それは、プロダクトとしてみれば「未完成」かもしれないし、仮に完成していたとしても、あまりにアクが強すぎて「着られない」かもしれない。だけどぼくや山縣はそれを、そのデザイナーの未来のファッション——着れる服、分かりやすい服、売れる服を含めたあらゆる可能性——を生みだしうる母体ないし原型として大切にしています。

ぼくはよくそれを、お酒の原液とカクテルの関係に喩えて説明しています。

例えば蒸留を終えたばかりのウイスキーの原液をニューポットというのですが、これは風味も若く荒々しく、アルコール度数も65%から70%と高く、一般的には商品として世に出回ることはありません。これに加水してアルコール度数を40%程度に調整し、さらに樽の中に数年間寝かせて熟成させることではじめて私たちが日ごろ口にする琥珀色のウイスキーが得られるのですが、これをストレートで嗜む人はやはり好酒家に限られると思います。しかし、これを氷のきらめくグラスへと注ぎ込み、泡立つ炭酸水で割ってやれば、いまや老若男女に親しまれているハイボールへと様変わりする。好みに合わせてそれをコーラで割ってもいいし、レモンやライムを添えてもよい。

「ここのがっこう」では、いきなり万人に好まれるハイボールを目指すのではなく、まずはウイスキーの原酒にあたるものを生みだすように心がけています。自分の手元にある材料を発酵させ、蒸留を繰り返すことでその純度を極めていく。それはそのままでは誰にも飲まれない、着られないかもしれないが、十人十色のカクテルがそこから生まれでるお酒造り、服作りのベースとなりうるものだと、ぼくらは信じています。

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今まで話してきたことを別の角度からいいかえるならば、例えばスカートならスカートをデザインするとき、「ここのがっこう」ではその意匠だけをデザインするのではなく、スカートという概念、そのコンセプトにまで遡ってそれをデザインしているのだといってよいかと思います。

今までは分かりやすい例として「スカートとは何か」を考えてきたのですが、そのようにコンセプトそのものを問いただしていく思考のスタイルをファッション自体に差しむければ、そこから「ファッションとは何か」「人はなぜ装うのか」といった問いが生まれます。

5th collection - Fashion show of the gods

そのような観点からみると、山縣良和のブランド、writtenafterwards の2010年前後のショーや展示に神話モチーフが頻出していることの意味もよく分かります(「神々のファッションショー」(2009)、「七服神」(2012))。神話とは、この世界の成り立ちを物語ることでそれを理解しようと努める思考の形式であり、当時の山縣は、その神話的な思考形式を借りてファッションの起源を問いなおそうとしていました。そうして「ファッションとは何か」という問いに自分なりの答えを出そうとしていたのです。

7th collection - The seven gods

あるいは更に遡ると、山縣がロンドン芸術大学セントラルセントマーチンズ校の卒業制作として敢行した「裸のファッションショー」(2005)にも、ファッションの起源を問う思考を垣間見ることができます。

裸のファッションショー

これはハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『裸の王様』の平行世界において行われたショーでした。オリジナルの『裸の王様』では、ペテン師にだまされた王様が公衆の面前に裸で立って、赤っ恥をかくことになります。しかし山縣の描く平行世界では、なぜか王様の裸が「イケてるね」と評判になり、裸の装いが流行をはじめ、毎年のように「裸のファッションショー」が開かれるようになります。山縣は「裸の着ぐるみ」を制作することで、童話の世界の「裸のファッションショー」を現実世界へと引っぱりだしました。

ファッションにとって必要不可欠と思われる衣服、それすらが脱ぎ捨てられた後に生じる流行現象——裸のファッションショー。ファッションの起源を問わずにはいられない山縣は、デザイナーとしての自らキャリアをスタートするにあたって、ファッションの「0」ポイント、衣類なきファッション、丸裸のファッションへと立ち戻らなければなりませんでした。そんな山縣の丸裸の純心に、セントマーチンズも彼を首席で卒業させることで応えました。

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とはいえ、審議の場はとうぜん賛否両論に分かれ、「これは本当にファッションなのか?」と批判も浴びたといいます。けれども、そうした批判を浴びながらも、自分の紡いだ言葉と編みだした形を通じて、スカート、服、流行、ファッションという言葉を再定義していく。そのスカートを目にする以前以後では、スカートという言葉の意味自体が様変わりしてしまう。そんなスカートを、服を、「ここのがっこう」ではデザインしようとしています。

そして、そのことが——ぼく自身はファッション業界の門外漢なので確かなことはいえないのですが——「ここのがっこう」が世界から評価されている理由の一つなのかもしれません。

既存のファッションの枠組みの中になにか新しい一点を付け足すのではない。これまでのファッションのボキャブラリーでは解釈のできない異物、だけどそれを無視はできないアノマリーを生みだすことによって、ファッションの枠組みをゆさぶり、その地平を押し広げていく。それは境界線の向こうに生み落とされるものなので「分かりにくい」。しかし、だからこそ、それはファッションの最前線を行くものとして格好良くもある。

以上が、五十嵐さんから頂きました質問への差しあたりの返答となります。

「差しあたり」といっているのは、実はこれまで話してきた内容だけでは、まだほとんど「ここのがっこう」の神髄には触れられていないからです。今まで述べてきたコンセプトデザイン、コンセプトメイキングといったことは、例えば山縣の出身校であるセントマーチンズでも重視されており、「ここのがっこう」の前提ではあっても特徴であるとはいえない。

コンセプトデザインそのものではなく、それを実行していく作法にこそ「ここのがっこう」の独自性が見られるのですが、そこに踏み込む前に、ここで本日2回目の質問をみなさまに投げかけたいと思います。

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本日2回目の質問は「織りとは何か」です。

そう、はじめに投げかけたものと同じ質問となります。言葉としてはおなじ質問なのですが、ここまでの話を経て「織りとは何か」という響きを耳にすると、先ほどとは異なる思考が動き始めるかと思います。その違いを、どうかよく味わってみてください。言葉にならなくとも構いません。その場合はかたちなき思いを、かたちなきままに味わっていただければと思います。

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