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自分のHave to欲求の根源を年少期に掘り当てた小さな話


こんにちは。
エグゼクティブコーチの外山晋吾です。

つい最近まで6か月のコーチングスクール期間を過ごしましたが、自分自身がマインドの使い方の効用を刻み込み、成長していくため、さらにその体験を未来のクライアントに共有するべく、自己適用を行ってきました。

僕は目標を定めると努力をすることはそれほど苦に感じないほうで、また一定の成果を出してきたので、コーチング理論の自己適用もすぐにできると思っていました(それが驕りでした)。

しかし、結果は、1歩進んだと思えば、また逆戻りさせられ、のたうち回った6か月でした。まずWant toが見つからず、またゴールを考えようとしても、今日からできそうな現状の内側のものばかりしか設定できませんでした。
今日はその原因になった自分で自分にかけてきた呪いと、またそのHave to欲求の原体験は何だったかをここに記しそうと思います。

この掘り下げにより、自分の心のしなやかさが上がり、Want toやゴールに対する解像度が大きく変わりました


1:本気の内省を避けていた

認知科学では、心には“意識”と“無意識”の2つのシステムがあり、表層に現れる意識部分は海面に現れた氷山の突起のように小さく、無意識部分こそが人の行動や認知の大部分を司ると考えられています。
別のメタファーでいうと、象の上に乗った蟻。象が無意識、蟻が意識です。

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僕は、学生のころ、もともと内省をよくする人間でした。しかし、社会人になってから、できるだけポジティブに生きることにこだわってきました。成功する人間はポジティブに物事を捉えるべき、というこだわりがあったからです。そこから自分がネガティブになるような、自信がなくなるような内省を避けてきました。

内省思考の人間が、内省を避けるというのはそもそも不自然です。また、内省を本気でしない限り、無意識に動かされている思考の内部まで、アクセスすることはできません。

3か月目くらいに、内省を許可したことによって、自分自身の未来世界の可能性の源と言っていいWant toや能力の輪の探索が、初めて可能になりました。

2.信念が、逆に自分を縛りつけていると気づいた

僕は、学生のころ社会人に早くなりたいと思っていました。大学生のときは学生生活を楽しむよりも、早くお金を稼ぎたい、成長して一人前の大人になりたいと。周りの友達からは、晋吾はストイックだなぁ、といつも言われていました。
その流れからか、「頼れて、話しやすく、いつも充実していて、周りを成長させるプロフェッショナル」、これが僕の思い描くロールモデルで、数十年の社会人人生で大事にしていた信念でした。
しかし、これらをこだわっているからこそ、逆に自分を縛り付けていることに気づきました。

・いつも頼れたいから、失敗したくない。
・話しやすくふるまい、気難しく話しにくいと思われたくない
・輝きを失うのが怖い
・周りを成長させられないのは上司として価値がない

全て相手からの承認を求める欲求であり、Have to欲求でした。

コーチングスクール入る前は、「メンバーの成功こそが自分のWant toです。」と言っていました。聞こえはいいですが、これはHave toから発生した偽りのWant toです。
自分では気づかず、無意識的に自分を縛ってしまう厄介物で、まさに自分で作った“呪い”と言えます。もちろん、そんな欲求から設定したゴールでは、自分が楽しくてしょうがないという幸せな時間は過ごせず、使命感や責任感で仕事をこなし、エフィカシーをあげることはできませんでした。

3.承認欲求の元となった原体験

これらの承認欲求がどこから来たのか、内省を続ける中で、コーチングスクールの最終月6か月目に、ふっと頭に浮かびました。僕は毎朝ランニングをするのですが、そのラン中に急に天から降りてきた感覚でした。

3学年上の兄との関係の拗らせが原因でした。

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少し長くなります。

僕は3月後半の早生まれで、背が小さく背丈順の列では前から並んでいつも4番目以内で、筋肉のつかないガリガリ色白で、声変わり期がクラスで一番遅い、声の甲高い少年。しかし、努力できる性格があったのか、運動や勉強は中の上でいました。ただ、常に軽い劣等感を覚えていたような気がします。

中学までは特に目立たず、いわゆる高校生デビューで、進学校に入ってから目立つキャラに変えました。そして、それ以前の記憶がほとんどないと思っていました。

嫌な記憶だから無意識がわざと蓋をしているのか、本当に忘れているのか。しかしコーチングの自己適用では、昔の記憶にアクセスする必要が生じました。

記憶の奥から出てきたのは、兄という存在。

僕の家族は、父と母が鹿児島の農家から兵庫県に2人で出てきて、父は警察官、母は子供を育てるために内職をしながら専業主婦。田舎の実家に仕送りすることと子供たちの教育費のため、倹約を重ねた暮らしをしていました。親からはいつも周りに迷惑をかけることをするな、と躾けられていたと覚えています。

忙しかったのか、親と遊んだ記憶がほとんどないので、おそらく親は兄に僕と遊ぶよう任せていたはずです。アルバムの写真にも小さい時は二人で遊んでいる写真が多くあります。たくさん遊んでもらい、遊びに連れていってもらったと思います。しかし、兄が小学校高学年になったころから、一緒に遊んだりした記憶が全くありません。おそらく、兄は自分の友達ができて、僕と遊ぶのが面倒になったのかもしれません。

次に思い起こしたのが、その時代から以降、兄と二人で家の中で話した記憶がほとんどないこと。実は、その後も拗らせたまま、約30年も口を直接聞かないくらいでした。今ではさすがに口をききますが、男兄弟という間柄を差し引いても最低限のレベルです。今でも、兄と話す時は、心の中に少し緊張を感じます。

もっと記憶を掘り起こすと、兄に、馬鹿にされて、小突かれたり蹴られたりした日々でした。
色々難癖をつけられて、よくいじめられて、助けてほしくて、住んでいた団地中に響くように泣きました。親は止めてくれたと記憶していますが、助けを求めてよく泣いていました。

兄は、勉強もスポーツもできて外見も良く、違う学年からもモテていた人気者で、3歳下の僕には、かなわない存在でした。

兄には、3人の子供(僕から見ると姪と甥)がいますが、長い間兄に連絡を取っていませんでしたから、ほとんど彼女らの成長を見ていない間に大人になっています。結婚されて子供も生まれ、僕も大叔父になりました。

なんで何十年も関係をこじらせていたのか今も分かりません。おそらく兄本人は、そこまで僕がそこまで拗らせていることは知らないし、気にしていないはず。

構ってほしかったんだろうな、いじめられたときは親に助けてほしかったんだろうな、兄に対して大きなコンプレックスを抱いていたんだろうな。

そこから周りの目を気にしたり、集団に入れないと拗ねる感情が現れたり。海外に出てから、異文化を知り、個性ある考え方に適応し、そのあたりは大分解消されましたが、今も心を騒がせることがあります。

今までの人生、とくに最近30年は、自分の成長、人の成長こそが、信念だと思っていたことが、実は、承認欲求に基づく自分の生存のための守りの行動だった、コンプレックスを打ち破りたいという反動だったのだろう。

ここまで気づくと、心が軽くなった気がする。

もちろん、兄に恨みを持つ気も毛頭ない。そんなことしても逆に自分のHave toを増大させるだけ。そもそも、時間も何十年も経っており、全然非難する気もありません(笑)。
ブログを書いたのは、その根源のエピソードから拗らせが始まり、自分に拘りやマインドの癖が生じたとメタ認知するのが大切だと思ったから。昔のそんな小さなことは、どうでもいいや、と笑ってしまえばよい。一つ抽象度を上げて見ると、むしろ、そのコンプレックスを克服するために、努力し、スキルを身に着け、友人関係を築け、自信が持つことができたと心から思える。
まだ少し時間はかかるけど、”呪い”よ、バイバイ。

今からは、自分のWant toに率直に沿って生きて、自分や自分の周りや、さらに社会への恩返しをする、そんな自分の人生を、自分で操縦桿を持って生きていけると思う。

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未来は必ず整合する
これが、コーチングスクールコミュニティで学んだ最上の言葉の一つです。

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