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自分史(外山晋吾)

こんにちは!
エグゼクティブコーチと、地方創生ファンドのCOOの外山晋吾です。

半世紀の自分史を作るために人生を振り返ってみました。


実は、僕は長い間過去を振り返ることを避けてきました。

それは、プロの経営者はいつも未来思考でポジティブでないといけない、と思っていたから。 

しかし、コーチングや認知科学に出会い、自分を知ろうとしないというのは、単にマインドの柔軟さがないだけ、と解り、振り返る自分を許可しました。

今回3.7万字で自分の人生をふりかえってみると、忘れていた記憶とともに、人生を通底してやっている自分のパターンや、自分の囚われや拗らせがあるなと気づきました。

 よく出てくるパターンを表すワードは、
・未来思考
・ゴールとマイルストーンはいつも決める
・まずやり切る

・変革が好き

など

自分の囚われや拗らせは、
・達成しないと意味がない
・人との比較や人からどう見られるかが第一優先
・目立てると調子に乗り失敗する
・飽きやすく隣の芝生が青く見える 
など

成果を出してなんぼ、と思っている人には、少なからずある共通点かも知れませんが、僕は自分を知ることで、心が随分しなやかになれました

もし、読んでくださっている方が、こういうことはだれもあるんだな、と、心理的な柔軟性を持ってくれればうれしいです。
 

幼少年期(中学まで)

制服の警察官の家で生まれた次男坊

兵庫県姫路市に、鹿児島から出てきた両親のもとに、男2人兄弟の次男坊で生まれた。

こんな感じ

住んでいたのは団地。小学校まで片道4キロを歩いていた田舎。近所に同年代の子供はたくさんいて、かくれんぼ、かけっこ、野球など、いろんな遊びをやっていた。

制服を着た警察官の父親は、公務員らしく、毎日予定された時間に仕事から帰る。とても真面目な性格の父は、帰ると食事→ビール→昼寝→碁会所(囲碁が唯一の趣味)といつも同じルーチンのスケジュール。深夜勤務後の父が昼寝しているときに、家で大声を出してしまったときは、怒られていた。お盆や正月、祭りのイベントの時は、見回りの仕事があったようで、参加できたことがない。

薩摩人らしく専業主婦の母親は、少し神経質で保守的。家族を第一優先にしている古き良き母モデルそのもので、たとえ風邪で体調を崩しても、朝早く起きて朝食を作り、夜は必ず決まった時間に夕食を作っていた。

 

家がお金がなかったからか、お金への執着は人より強いかも

親は、子供の教育費と貯金と、田舎の親せきへの送金で、質素な生活を送っていた。

おもちゃを買ってもらえず、おもちゃを持っている近所の友達の家を訪ね、一緒に遊ばせてもらっていた。服、本、おもちゃは3つ学年上の兄のお下がり。だからって文句を言ったことはないと思う。

毎夜、母親が細かい家計簿を見てため息をついていたこととか、母親が、単位あたり1円にもならない単純な内職を家で毎日何時間もしていたのを覚えている。

お菓子もいつも兄とシェア。ポテトチップスなどの好きなお菓子を半分こしなければならなかったが、先に食べたら止められず、多く食べてしまって、よく兄に怒られて泣かされたっけ。

自分は、お金に関しては、とても家族に気を使っていたと思う。朝食に、ごはんとみそ汁以外のおかずが卵焼きや目玉焼きか、子持ちシシャモだけというのが多かったが、子供や父親分を優先し、母親が食べていなかった。そのことを知っていたので、時々おかずに手をつけずに、「僕お腹一杯だから食べなよ」と嘘をついていたことは覚えている。

病気がちで、親からの縛りも多かった

体が弱く、定期的に病院通いしていた。喘息をはじめ、目耳鼻はフルセットアレルギーがあり、小学校5年までは、プールも入れなかったし(だから今も水泳は苦手)、親と一緒にお風呂に入っていた。

母親は時間にうるさかった。夕方5時半になると、皆とまだ遊んでいるのに、「帰ってきなさい!」と僕だけ先に家に帰らされた。みんなと遊んで楽しいのに、先に抜けることが嫌だったことを覚えている。

ここで気づいた遊びから先に抜けたあと、他のメンバーが、先に抜けて人が少なくなったので迷惑、とか、なにか僕の悪口を言っていないか気になっていた。僕は、人からどう見えているか、とても気になる性格だったが、この体験もその承認欲求につながっていたんだ。

落ち着きがない、でも没頭したらずっとやっている、両極端

思いついて何か始めたら、ずっと没頭してた。小さかった時から、好きなテレビ番組がある日は、必ず時間前に欠かさずテレビの前に座り、見ていたらしい。兄からもらった段ボール一杯のキン肉マンやウルトラマン消しゴムで一人自作決闘遊びとか、何回も好きな絵本を見るとかも、何時間も飽きずにやっていたと思う。カマキリとかトンボとか虫の採集も、めちゃくちゃ好きで、朝から毎日捕まえに行っていた。

怪獣やウルトラマン消しゴム合わせて、段ボール一杯持っていました

幼稚園(片道4キロ)のとき、一人で勝手に下校したことがあるらしい。途中、さすがに心配した見知らぬおばさんに声をかけられ、助けてもらい、家にたどり着いたそう。始めたらやり切るは苦にならなかったみたい。

ギャロップ社が提供しているストレングスファインダーという強みスキル分析ツールがあるが、34の資質の中、僕は1番に「達成欲」が出てくる。確かに、幼少期から達成のこだわりはある。達成まで没頭しているが、飽きたら急に違うことやっているのは今も通底しているかも

近くの散髪屋の、古くなって廃品回収に捨てるジャンプやマガジンを、毎月もらって読んでた。キン肉マン、北斗の拳とかの、ヒーローものが大好きで、自分が主人公になった世界を妄想していた。妄想したら止まらない、人の話を遮り、興味あることを話していたかもしれない。

小学校の通知簿には、全部の受け持ってくれた担任の先生たちに、「落ち着きがない」と判を押したようにコメントされていたのを思い出す

没頭して、飽きたらいきなり落ち着きがなくなる、そんな両極端さだった。

 
兄からのいじめで拗らせる

幼少期から長い間、人と違うことをして、目立つことや馬鹿にされることを結構恐れていた。手をあげて発言するとか、何をしたいと言われても自分のしたいことを言えず、また一番になることも失敗することも強く避けていた。周りと同じでいることが安全だと思っていたのだろう。

人から何と思われるか、おびえていました

忙しい両親は兄に僕と遊ぶよう任せていたはず。アルバムの写真にも小さい時は二人で遊んでいる写真が多い。たくさん遊んでもらい、遊びに行くとき後ろをついていったと思う。しかし、兄が小学校高学年になったころから、一緒に遊んだりした記憶が全くない。おそらく、兄は自分の友達ができて、僕と遊ぶのが面倒になったのかもしれません。兄になんらか理由をつけてよく泣かされていた。
それが嫌だったので、泣かされないよう、馬鹿にされないよう、人の目を気にしなくて良い、立ち位置が心地よかったのかもしれない。 

兄との比較や成長の遅さで、自信なく過ごした中学生活

3月生まれで背が低かった。背が高くなりたいがためにバスケ部に入った。天敵の兄がサッカー部(同じ中学校、入れ替わりで卒業)だったので、サッカー部は最初から除外。

後で知ったんだが、背が高い人がバスケをやっているだけで、特にバスケが背を伸ばしてくれるというわけではないらしい。でも、それを真に受けていた。

声変わりもクラスで一番遅く、キンキン声だったので、クラスの音楽祭の歌の出し物で、僕ともう一人の男子だけがソプラノ(他の男子はテノールとバス)だった。とても恥ずかしくていやだったのを覚えている。その歌を歌っているときの写真は捨てたと思う。

兄は、ルックスもよく、運動もでき、目立っていたよう。兄は外面が良く、先生からも人気があり、よく「お兄ちゃんは・・・なのに、晋吾くんは・・」と比較されていた
バレンタインの日に、3年生の女の先輩から、呼び出されて、「お兄ちゃんに渡して」とチョコを握らさられたことある。兄の得意そうな顔が想像できて嫌だったけど、断れなかった。自分がチョコをもらったことがなかったこともあり、とても傷ついたなぁ。

クラスでも、一番目立つグループには入れず、二番目グループで遊んでいた。目立つクラスメートの輪に入ることに憧れ、いつもいる友達とは本当に深く仲良くなろうとできず、本当の親友というものをつくれなかった

未来志向が発動。明るい未来のため頑張る

中学3年生。勉強意欲が突然出てきて主体的に勉強を始めた。突然入ったスイッチ。どんなきっかけでそのスイッチがはいったか、今も思い出せない。しかし、知り合いが少ない偏差値の高い高校で、楽しい学生生活に変えたいと思った。

思い立ったら努力ができる達成欲型だからか、校内順位は尻上がりに上昇でき、ピークで受験を迎え、兵庫県トップの公立高校に合格。担任の先生からも「努力の男」といわれた。高校生活を考えると、つらいと思ったことはなかった。塾も行っていなかったが、どれくらい勉強やったら志望校に通るかが、アドバイスを誰からももらわずとも、なぜか分かっていて、その通りに成績がぐんぐん上げていけるのがうれしかったし、自分への自信につながった。

高校・大学時代:

高校生デビューで羽化!?

入った高校では、同じ中学出身は10名ほど。今までのモブキャラの自分から脱却するため、目立つチャンスを入学時から狙っていた。いわゆる高校生デビュー戦略

クラスで一番目立つグループに仲間入り。クラス内で、面白いと言ってくれたり、人から誘われることも多くなった。なにより、人が自分の話を聞いてくれる、そんな自分を誇らしく思った。(なんて、情けない、小さな喜び。(笑))

一方、1軍グループにとどまり続けるため、仲間に合わすことを最優先して、行動や判断をしていたと思う常に考えていたのは、自分はどうしたいか、というより、どうやったら周りが喜んでくれるか、面白いと思ってくれるか。

勉強をしない方がかっこいい、先生の言うことを聞かない方が不良っぽいと思い、適当に授業も受けているときは、後ろの席の友達と雑談していた。ただし、根が真面目なのか、テスト前の1週間は詰め込みで勉強し、なんとか学年の真ん中の順位にとどまっていた。

思春期。調子こいて謹慎。

2年生の全校球技大会、途中バレー部キャプテンのいる3年生チームも破り、決勝戦。クラス中の女子の声援を受けてとても嬉しかった。敗退したが、とてもエキサイトできた。

その夕方、打ち上げで、クラス男女20人くらいでカラオケとパブに。高揚した気持ちで騒ぎ、お酒も飲んで気持ちが大きくなっていた。解散前に生活指導のハゲ先生に見つかり、飲酒の注意を受ける。

やめときゃいいのに、女子の前で格好つけようとした僕。その先生に食ってかかる。飲酒が原因で、3日間の謹慎処分に。クラスの多くが空席になり、物珍しがって他学年も見に来たらしい。

調子乗ると、周りに格好つけようとして、幼稚にやらかしてしまうのは、昔から変わらないらしい。格好良く見せたかったのもあるが、このころから少しづつ自分の本性が出せてきた。

女の子にもてたい。でも自分勝手じゃモテないよ

自分に自信がついてきて、女の子にモテたい!を軸に行動してたのを思い出す。

高1、可愛いと人気だったTさんと、同じクラスになる。綺麗な顔立ちで、自分の意見を持っている人。最初は好きではなかったが、モテてるという噂に感化されて、好意を持った。特に何も発展しなかったが、意識して毎日を過ごしていた。

実は、Tさんともっと話したく姑息なこともしたこともあった。ワンチャンあるかな、と、席替えの恣意的に操作して、席を隣にしたこともある(チャンス活かせずでしたが)。クラスのイベントの仕切りもよく買って出てた。目立てるのも嬉しかったんだ。

修学旅行、旅行2日目の夜に、クラス対抗の出し物(寸劇等)をしたのだが、だれもしたがらず、立候補してその幹事をした。でも、僕には笑いや脚本のセンスはなく、滑り散らした。誰もやりたがらない幹事をやらねば、というのも理由だが、好きな子(別のTさん)に良いところを見せたかったのという下心でやった、と思う。

熱意が実り、その子が初めての彼女になった。でも数ヶ月付き合っただけ。忘れもしないクリスマスの日、川べりのマクドナルドで食事の後、外のベンチに座って肩を抱いた時に、怖がられて帰ると言われた。挽回&カッコつけるため家まで送って行こうと後をつけたところ、さらにめちゃくちゃ怖がられて、そのまま別れ話となった、苦い思い出。 

その後も、よくありがちケースだが、お互いで恋愛相談する仲だった他のバスケ部の子と、情がうつり付き合うことになった。会いたくて、夜に自分の家の窓から抜けて、1時間かけてしょっちゅう自転車で彼女の家に会いに行っていた。この時も、優しい彼女に、わがまま言いすぎて数ヶ月で別れた。

これ以上のケースは書かないが、大学以降も社会人の時も、結婚するまで、似たような自分勝手な行動をその時の彼女たちにやっていた。二股はしていないが、付き合っては別れて、をグルグルやっていた。

自らいつも壊してしまう恋愛関係。なんか拗れてた。

今振り返ると、もてたかったけど、もてなかったのは当たり前。「自分が自分が!」としか考えていない。かっこよく見せることがモテることと思っていた。相手を思いやることがもてる秘訣やで、と、タイムマシンがあったらこのころの外山晋吾に教えてあげたい。
 

また未来志向が発動した。大学受験にのめりこむ。

高2の夏休み前の部活練習中。不注意で足を捻って骨折。しばらく松葉杖生活に。一番楽しいはずの高2の夏休みは家で過ごすことになり棒に振る。

僕は、一時は深く後悔するが、しょうがないかと、気持ちを切り替えられると、いつもそこからの行動は早い。部活を辞めて、1年間勉強を必死にやろう、そして大学に入学し、大学生活を楽しもう。振り返ると、そんな未来の目標に至れたので、骨折してよかったのかもしれない。

勉強にまた目覚めた。

大学は、一人暮らしを目指す。親からの細かい干渉が無い生活は、最高だと思えた。楽しい大学生活が頭に浮かんで離れない。
金銭的に予備校や塾をお願いするのは忍びなかったし、どんな参考書を買えば良いのか分からなかったので、自ら考えて思いついたのは、手元の学校の教科書をひたすら勉強する戦略。教科書を3回転して類似問題ができれば良い点数取れるだろうと思い込んでやっていた。

天王山の夏休みは、なんとも僕らしい、自分だけで考えたのは、勉強量とバランス得点と集中力で押し切る戦略

毎日学校に8時に来て夕方までぶっ通しで勉強。科目ごとに勉強時間を色分けグラフで記録し、満遍なく全ての教科をやる計画を立てた。注意散漫な状態での勉強時間はカウントしない。夏休みの日数41日のうち40日(真ん中の日の1日だけ休みとした)、10分単位で正確に勉強時間を記録し、400時間(40日×10時間)をやり切った

教室はエアコンもなく暑かったし、他の友達は学校来ても遊んでいたり、話しかけられたりしたが、無視をしてずっと勉強していた。

成績がグングン伸びた。うちの学校は1学年550人いて、東大京大が現役で年間5-6名合格していた。

1学期は学年真ん中あたりだった成績が、願書を出す頃には5位になり、その東大京大を狙える位置まで来た。成績は最終3位まで伸び、ピークを維持して受験を迎えて合格した。

道は自分で決めるだろ。知らんけど。

当時の担任からは、いける成績だから東大に行けと、偏差値だけから考えた志望校プッシュがあった。理由を聞くと、「自分も目指したこともあったけど、行けなかったからお前にはいってほしい」と言われた、まさに自己投影なセリフを聞いて、気分が悪かったのを覚えている。両親は進路はよくわからないとのことで子供の決断任せ。

当時あった赤本(学校紹介&過去問)を読んで、京大は、途中の転部が比較的簡単な自由な校風だとわかった。僕は将来の選択肢をたくさん持つことを目指し、京大を選択。

受験前に、何がなんでも臨場感を高めたくなり、日帰りで大学に下見に行ったことを覚えている。ふらりと立ち寄ると、チェック無しに自由に正門から入れた。いろんな学部の校舎を見て歩いた。より臨場感を高めたいと、どきどきしたが、意を決して、構内を普通に歩いている京大生の2組に、突然インタビューした。

すんなり下見で入れました。


「どんな学校ですか?入って良かったですか?」 の質問に、2組とも「入って良かった、校風はめっちゃ自由」、と答えてくれて、入学動機が爆上がりしたのを覚えている。当時から、なにか未来の目標定めたらフォーカスして突き進んでいた。

京大に入ったくせに、染まりたくない天邪鬼

大学生の時は、周りの環境の人と違うかどうかが、行動の判断基準になっていたと思う。

サークルは、はじめにインカレテニスサークルに入ったが、新入部員の大半が女子という、”ザ・テニスサークル”に嫌気が差し、1週間でやめた。
冬に、旅行企画をするインカレスキーサークルに入った。いろんな女子大にパンフを撒き、スキー客を募って、バスを貸し切り、長野北志賀高原の提携スキー場に連れて行く。昼はお客のインストラクターをし、夜はパーティを盛り上げる。これは、ツアーの雰囲気がそれ時々で違っていたので楽しかった。今もスキーは趣味で毎年行っている。

バイトは、家庭教師や塾教師などをあえてしなかった。
最初は京都先斗町のパブのホールスタッフに、その後名古屋で解体作業の土方をやったり、一番長かったのは、京都北部のガソリンスタンドで週半分朝から晩まで合計2年間、1日12時間のシフトで働いていた。冬の寒さや夏の暑いさなかで、大声出して肉体労働すると、社会人なってもこの苦労を超えるしんどさは感じないだろう、と。親友からは、「晋吾はストイックやなぁ」といつも言われていた。
今考えると訳の分からない理屈でバイトを選んでいた。

大学2年生の夏休みは、高校の時の親友と、テントと寝袋をバイクに積んで、北海道から鹿児島まで日本縦断。しかも、ホテルや高速道路を使わないという自分たちの縛りでの旅。様々な街や景色が見れて楽しかったが、僕はどちらかというと最北端の宗谷岬から最南端の大隅半島まで走破したという事実。両方の岬で、やったぜこんちくしょう、と海に叫んだのを覚えている。

途中の行き先は、予定を立てるのが面倒だったので、友達の決めたプランに全部乗っかっていた。

 そんな中、
・北海道のだだっ広いサロベツ原野
・青森の十和田湖奥で見た満点の星空
・秋田の目の前一杯に黄金色の水田に落ちる夕日
など、見たことのない大自然の風景をよく覚えている。

一面、黄金色でした。2時間ほど座って見てた。

ハプニングも楽しんでいた。
北陸通過時に台風に会ったが、大きな雨と風の音の中、テントで寝た。朝起きたら、テント横に停めていたバイクが倒れていたが、逆側だったので怪我なくラッキーだった。
山口でも、走っているときに盛大にこけて、ブレーキレバーが折れた。立ち尽くしていたところ、偶然親切なバイク屋の人が止まってくれ、バイクを軽トラに載せて運んでくれる。店にある中古のブレーキレバーを削って無償でくれたので、そのまま旅を続けられた。

言うのが恥ずかしい自分勝手さが、旅の途中に出てきた時があった。
秋田では友達とはぐれた。当時は携帯電話もなかった昔なので、はぐれても連絡が取れない。唯一の方法で、お互いの実家に電話をして翌日に猪苗代湖で落ち合った。

後ろのシートが大きかった僕のバイクに積んでいたのはテント2つと寝袋1つ。友達は寝袋とフロアマット2つ。友達は野宿なのにテントがないのをわかっていたのに、自分はテントがあるから中で寝れるから良いか、とそれほど焦らずに確実な翌日集合にする。

心の中では、それまでの数週間誰かとずっと一緒でいたので、一人の時間を極端に欲しかったのか、そのようなとても自分勝手な判断をした。友達は、雨には降られていないが、虫のいる中で一夜をすごしたと聞いた。

人生が幸せかどうかは、選択肢をどれだけ持つか、だ。

大学は薬学部で入学したが、大学2年生の時、経済学部に転部。大学に残るか、製薬会社か、など、薬学部は少ない選択肢しかなく、卒業後の業界やキャリアの選択肢を増やそうと文系に移った。

あの頃、とにかく社会人に早くなりたかった。30年前は、学生起業も多くなかったので起業家という選択肢は、自分には全く解像度がなかった。だから会社経営者に憧れていた。その理由は、漠然としたものだが公務員の親父との正反対の仕事につきたいと思ったから。
 

またまた未来志向。就活をせずに、公認会計士を目指す。

就活をするかどうか考えていたとき、銀行のOB訪問に誘われた。先輩の「会えば入社確実」という言葉を聞いたとき、自分の一生が成り行きで簡単に決まってしまうことが、とてつもなく大きな違和感を感じる。
京大卒で就職すれば、おそらく大手安定企業に内定はとれるだろう。僕の周りはほとんどがそういう未来を選択していたが、いい意味で周りの状況に流されず、未来を考えていたのかもしれない。

そんな折、会社経営者を相手の仕事、と打ち出した、公認会計士資格試験のパンフレットが目に入る。これだ!と思い、その決断になぜか全く疑いなく、就職活動をすることはせず、貯めたバイト代で公認会計士試験を目指した。

勉強期間は1年と決めて集中してやった。やるからには、言い訳は自分に言わせない。

試験受講生の中には、ダラダラやったり、愚痴を言って勉強に身の入っていない人もいたが、そういう人との会話はできるだけ避け、朝から晩まで教室に篭って勉強した。最終的に全国模試で50番以内まで成績が上がり合格。おまけに、原価計算の成績は、全国模試4位となり、その会計学校の講師に誘われ1年間、講師業をやった。 

会計士時代、さらに海外へ(20代)

自分のことしか興味ない自己チュウ

監査法人トーマツ大阪事務所に入社のエピソード。ここでも無意識に自己中を発動させていました。

入社後しばらくたってから、今まで一緒に仕事をしたことがない先輩と飲む機会があった。
初めまして、のようなことを言ったら、「外山君、僕が一次面接したんだよ」と微笑みながら言われました。「なんで覚えているんですか?」と考えなく聞いたら、「集団面接で、自分が回答したら、他の人の回答の時は、人の話を聞かずに、ずっと外を眺めていたからよく覚えているよ。それがとてもトーマツらしいから通したんだ」と。僕はとても横柄な面接態度だった(らしい)。
最終面接でも大失態。監査法人のシニアパートナー(取締役)との方との個別面接だったが、地下鉄の駅から道に迷い20分遅刻。その上、夏の暑さの中、あわてて走ったので汗が吹き出て、テーブルに水たまりができるほど滴り落ちながら面接を受けていました。
遅刻で焦っていたし、これはもう落ちるなと思って、やけくそ気分でタガが外れて、質問に、言いたいことを包み隠さず答えて帰った。多分とても横柄な態度だったと思う。
結果は、なんと合格。
そんな経緯で、合格を出してくれたトーマツに感謝して入社を決める。

監査の仕事は、数字が正しいか決められたプロセスでやっているかチェックが主眼である。すぐにつまらないと感じた。 しかし、様々な業界の会社やそのオペレーションを知れることは好きだった。どうやって商品や原料を仕入れるか、製造効率をどう上げるか、支店をどう管理するか、リスク管理をどうするか、などをオペレーション事例をたくさん学べた。

数字の仕事はしたが、数字は好きではない。実は。

会計士登録に必要な、3年の実務経験と3次試験をパスするまでは働いた。でも、合格したあと、すぐやめて転職を決断。
また、一般の会計士の人と異なるキャリアパスを描きたいと、考える。
会計士の監査法人退所後のキャリアは、事業会社の経理部に転職したり、個人事務所開業することが多いが、違うほうが個性あって格好いいと思われるはず、という気持ちもあった。

当時、ニュースで脚光を浴びていたのは、楽天の三木谷さんや、サントリーの新浪さんなどの、アメリカの大学でMBAを卒業したキラキラなプロ経営者のキャリア。加えて、まだ当時は残っていたアメリカンドリームの幻想で、俺もなにかゴールドラッシュのような奇跡の機会をつかんで、人生さらに変えれるかもしれないという単純な妄想で、アメリカで働くことを選ぶ。

ちなみにMBAを取ることは選ばなかった。英語さえできれば就職できるだろうと、“謎の”自信があった。今考えれば、勝手な妄想だったかもしれないが、そのまま決断する。

坂本龍馬に憧れたロマンティスト(謎)

少し話はそれるが、日本を離れる準備期間に、司馬遼太郎氏の「龍馬が行く」が好きだった僕は、絶対行きたい場所があった。それは高知の桂浜。

桂浜には、有志が寄付で建てた坂本龍馬銅像があり、その像の隣で、龍馬と一緒にアメリカにつながる太平洋に上がる朝日を見れば、アメリカ就職が叶うと験を担いだ。

また、龍馬を好きだった理由は、龍馬がゆく、のあとがきに書かれている、司馬遼太郎氏のこの本を書いた理由にある。
幕末当時、殺し合いをするほど憎んでいた薩摩藩と長州藩。仇敵が討幕協力をするというアクロバットな交渉が急転直下同盟が成ったのは、決裂する直前に、龍馬が西郷隆盛に放った、「長州が可哀想でないか!」という一言だったというくだり。
龍馬の人の優しさが、それが両藩の心を動かし、同盟につながり、明治維新を起こし、日本を列強から救った、と司馬遼太郎氏はつづっていた。

当時、僕は、親に対しても、友達に対しても、恋人に対しても、“自分が、自分が”という態度で接していた。龍馬にあこがれた大きな理由は、僕は優しさを持っていないというコンプレックスと、自己チュウな生き方を指摘される恐れだったと、今なら思う

未来を切り開く道筋は、自分のプランが一番正しい

自分のプランが、だれよりもどこの情報よりも、正しいと本当に信じていた。(今思えば、傲慢かつ非効率) 

インターネットはまだ黎明期のステージ。ノートパソコンを買って、留学する都市、学校入学、ホームステイ手続、ビザ手続きなど全部自分で、調べて手配した。その頃は日本語まとめサイトはなく、英語のサイトを一つ一つ調べていった。

どうせならアメリカで就職目指すなら、留学はアメリア以外の国に行こうと、物価の安さもあり、留学先はカナダに、その中でもバンクーバーが心に留まった。

最初は試しで2ヶ月と決めて渡加。まず日本を飛び出せることを最優先にする。学校やホームステイ先だけを決め、どのようにすれば就職できるかの道筋の感覚値をつけるために行く。というくらいのざっくりした計画を立てる。

カナダ留学生活の最初、愕然としたのは、日本人の多さ。英語学校なのに、日本人スタッフの行うオリエンテーションは日本語。新入生徒は日本人が半分以上を占めた。

英語を学びにきたのに、この環境で本当に語学習得できるのか。日本人コミュニティに取り込まれた2ヶ月後を想像するとゾッとして、意固地に日本人のクラスメートの飲み会や日帰り旅行の誘いを断り続けた

語学テストを受け、クラスは下級の上(9ランクで下から数えて3個目)になった。幸い、自分のクラスの日本人密度は少なかった。他に韓国や台湾などからのアジア人、少数でメキシコやエクアドルなどの南ア人がいたので、その人たちと積極的につるんでいた

無職でいられる時間は経済的理由から1年。お金が尽きるまでにアメリカで就職できるようにするためには、何はともあれ、英語を身につけなければならない。

ここで一つ決断をした。カナダにいる間、「日本語を、“聞かない”、“話さない”、“読まない”、“書かない”という、日本語からの完全デトックス。日本人が話しかけても英語で返すという徹底ぶり。めちゃくちゃ嫌な奴だっただろうが、日本人でも英語で話したいという人しか話さなかった。

2ヶ月経過し、この学校とホームステイ先を継続すれば、可能性あると感じ帰国。すぐに戻るべく、学生ビザの取得をした。同じホームステイ先に直接交渉して学校を通さずにステイさせてもらうようにした。学校には午前クラスのみで6ヶ月の授業料を支払う。

キラキラの留学生活。グローバルに対する自信が爆上げ

初めの1ヶ月で、クラスが中級に上がるが、正直前回の延長の感じだった。

そこに、大きく事態を変えてくれる出来事が。ホームステイ先に、ベルギー人のトムというホームステイメイトが来る。トムは、フランス語とオランダ語を話す。英語もとても流暢なレベル。人見知りで、役に立たなければならないというコンプレックス持つ僕は、最初トムと仲良くなるのを物おじしていた。しかし、トムは良い奴で、自分の参加するパーティやハイキングなどを誘ってくれた。トムのルームメイトとして、僕も欧州人(スイス、ドイツ、フランス、スペインなど)などの英語を話すコミュニティに入れていった。


左がトム(ホームステイメイト)

いろんな国の友達との英会話に夢中になる。そして、仲の良い友達にする挨拶キスやハグ。これがとても新鮮で、めちゃくちゃ嬉しかった
なにより、自分のことを話しても、意見を率直に言っても、行きたくなければ誘いを断っても、個人を尊重して仲が続く関係。これがとても気持ち良い関係だった。
金曜日には、連れ立ってサルサバーに行き、深夜まで踊り、日曜日にはスノーボード担いでバスに乗り、スノーボードを楽しむ。

このトムとは30年近く経った今でも、家族付き合いもあり親友だ。

友達が新しい友達を呼び、学校で1番有名で面白い日本人はShingo だと言われるようになり、学校に行くのがたまらなく楽しくなった。新しく入った生徒が、向こうから話しかけてくることも増える。
人生の中で1番キラキラ笑顔を発していたのは、間違いなく、この留学時代。遊んでばっかりだったから当然っちゃあ当然

MBAを介さずアメリカ就職。今思えばただのラッキー

学校は午前だけで、午後は時間があった。海外の監査実務を知ると面接で有利になるかも、と、古巣デロイトのバンクーバー拠点にいる日本人駐在員に、自分の海外就労したいという思いや、学生ビザで働けないのでボランティアで働かせてほしい旨の手紙を書いた

駐在パートナーの方は、なんと!ボランティアを受け入れてくれた。午後だけだが、顧客先での監査補助仕事。
昔日本でさんざんやっていたの監査の仕事をやっただけだが、顧客の経理スタッフと、英語を使って、話す、資料を依頼する、ドキュメントを書くなど、全ての仕事が新鮮だった。もし採用されれば、こんな感じになるんだという臨場感も上がる

当時は、採用募集が、まだほとんどインターネットで行われていなかった時代。また自分はMBAなどに通っていないので、キャンパスリクルーティングなどの応募へのアクセス手段がなかった。
そこで取ったのは、自分で思いついた超アナログ手法。アメリカの大都市にある監査法人のオフィスに、かたっぱしに、英文職務経歴書と働きたい旨のレターを直接送る。英文の職務経歴書、本屋で買ったノウハウ本をみて、時間かけて書いたなぁ。当時5大法人の複数都市の事務所に20通くらいを送ってみた。

留学終了まであと数ヶ月に迫って、本格的にアメリカの監査法人に応募を出す。読んでもらえるのか、さえも分からなかったが、ロサンゼルスのデロイトから面接がしたいとのメールが来た。しかも航空券代も出してくれる。

初めてのロサンゼルス。前日に散歩がてらオフィス前のビルに行き、働けたときの臨場感を高める。とても綺麗なツインビル。

当日は、日系アメリカ人のパートナーが面接官。面接での、自己紹介や質問回答が、自分でもびっくりするくらいの最高の流ちょうな英語でペラペラで応えられる。面接官が、1年弱でそれほど英語うまくなるなんてどうやって勉強したのか?と驚いて聞いてきた。
結果は合格。自分のチャレンジが実ってうれしくてたまらなかったことを覚えている。


何度もぶつかって、アメリカにアジャスト

ロサンゼルス(LA)での仕事は、カルチャーや社内でのコミュニケーションで結構苦労したのを覚えている。

デロイトのLA事務所の日系サービスチームのスタッフの半分がMBAを出た日本人。残り半分は日系アメリカ人。
ほとんどのメンバーが日本語を話せるので、英語を使う時間が大きく減った。また、MBAを行っていなかった僕は、当然身に着けているはずの読み書きを鍛えていなかったので、ドキュメントを書くのをとても苦労した。
マネージャーからは、「この単語まちがえている、文法間違えている、文章の意味がわからない」など数多くのレビューノートを書かれた。そのノートの対応に時間が長くかかり、繁忙期などは夜中の2時3時まで働いていた。

今思えば、英語の読み書きができない僕が悪いのだが、「文章くらい上司が直せや」と当時は他責で思っていた。そんなマインドだから、英語の読み書きのスキルは上がらない。

ただ、ある日ふと、先輩から「日本で働く外国人が変な日本語書いていたら通用しないよね、Shingoもアメリカでは正確な英語で文書が書けないとプロ失格じゃないか」と言われて、頭をガーンと打たれた。そこで大反省し、そこからいろんな人の書き方を真似して仕事していった。英語がわからないというレビューは格段に減り、仕事が楽になった。もう少し早く気が付けばよかったが、やはり僕は体験しないと、腹落ちしないタイプ
 

アメリカの懐の深さに感動

LAの日系サービスチームが、想像より日本人社会で、カナダでの生活にかぶれていた僕は、人間関係にとても苦労する。正直浮いていたと思う。性格がひねくれている僕に扱いに困ったのか、中途採用にもかかわらず、アリゾナでの泊りがけの全国新卒研修にいくことを勧められる。面倒は感じたが、現状のもやもやから脱却したい僕は、5歳も年下の新卒年代との新卒研修に行くこととした。 

アリゾナの研修施設に数日いて、研修に参加している人は、

・良い大学を出た白人のエリート層がマジョリティ
・ディスカッションはみんなが意見をいうことにとても積極的
・正解や不正解という基準ではなく、まずは自分の意見を述べる

参加者が、自分が自分が、と、止まらず意見を出してくる中、僕はディスカッションに何の貢献もできず、ただただ愛想笑いを浮かべ、研修が終わる数日が過ぎるのを待った。

日本では正解不正解が重視されるので、正解が分かって初めて発言する、アメリカ人は60点でもまずはアウトプットする。そしてそれをみんなでいろんな意見を出し合って磨いていく。正解は複数ある前提。もし正解がわかる100点になるまで思考し発言を控えていたら、その議論は終わってしまい、周りから見ると0点と同じ。それを思い知らされる時間だった。

それでも発言できず、最後の日の午後まで愛想笑いを浮かべているだけだったが、教官がさすがにこのままではいけないと思ったのか、監査知識のクイズ回答のときに、僕を名指しした。心の準備がなく前にでて話さなければならなかった。皆の視線が痛い。頭もパニクり、舌が回らずしどろもどろになり、さらにそれに自分で気づき、汗がブワっと出てくる。

終わったあと、「やってしまった。。」と委縮しまくっていたら、驚いたことに皆からホール中の拍手とともに「よく頑張った」という声をもらった。皆は、僕が何を言ったか絶対わからなかっただろうが、挑戦したという姿勢に拍手をくれた。正解ではなく挑戦の姿勢への賛美。僕はアメリカをこの瞬間好きになった。

アメリカは挑戦を素直にたたえる懐の深さがある

研修最後の晩餐パーティ、LAの同期だけでなく、またクラスにいたボストンやシカゴや他の白人同僚とも仲良くなり、メールアドレスを交換した。

皆の前に出してくれた機会をくれた教官に感謝を述べると、「Shingo、君は日本ですでに監査をしていたと知っていた。だから挑戦してもらったんだ」と返された。教官は僕を心配して名指しをしてくれた、と知った。

その後、前向きにコミットして仕事ができたと思う。

しかし、アメリカのプロフェッショナルの世界は厳しい。2000年にITバブルがはじけて不況が来た。ぼくがアメリカに来て2年目、プライベートでゴルフもよく行くほど仲の良かった同期がリストラにあった。

アメリカのリストラの場面はドラマにあるようにドラマチックだ。人事部から電話のボイスメールに録音があり、人事部に来るようにとメッセージ。赴くと、2週間分の給料の小切手を渡され、カギを奪われ、すぐに私物をもって帰って、明日から来なくてよい、というもの。同期のうち4分の1が、1年で自主退職やリストラなどで減っていった。

3年で半分がいなくなる競争の超激しいプロフェッショナルファーム。マネージャーやパートナーになるにはハードワークが必要。その時までは日本人は働き者(24時間戦えますか!)で、アメリカ人は怠け者だと思っていたが、アメリカのホワイトカラーは日本人の何倍も働いており、ゆとりをもって仕事しているように先入観をもっていたのはブルーカラーや非管理者層の姿だったことに気づく。 

米国公認会計士の試験も合格し、マネージャー昇格を期待されるくらいまでにはなった。ただ、アメリカで働いても、会計士の仕事は面白くないと感じていた。本気でビジネスサイドに移ろうと、転職して日本に戻ることを決意。当時はアメリカはいつでも戻れるだろうと軽く考えた。

 

社長の右腕@日本(30代前半)

偶然舞い込んできた日本での転職話

そんな折、地域家電量販店の2つ(広島のデオデオ、名古屋のエイデン)が持ち株会社作って企業結合する際に、その持ち株会社の経理部長を探していると、後輩から偶然に話を聞く。

家電量販事業はやったことが無かったので、よくわからなかったが、持ち株会社制度を使う企業結合は、1年前に日本で解禁したばかり。まだUFJやみずほ銀行などの大企業が利用したばかりの創世記で、権力闘争やシステム障害なども勃発し、様々な問題が表に出ていた。

事業会社に入ることは初めてだが、難題に挑戦できることや、また地方の小売店がまだ社会で成功していない挑戦をするという文脈にとても興奮したのを覚えている。広島まで飛び、久保社長と面接をし、1時間じっくり話す。終わってすぐに内定をいただき、日本に帰る決断をする。なぜか悩みは全くなかった。

事業会社の上に新設された持株会社のエディオンは、取締役もメンバーも、各事業会社から同数アサインしている典型的なたすき掛け組織。さらに、母体会社が弱体化するリスクもさけ、主戦力ではない人が送られていたよう。おそらくいままでの交渉で、なかなか事業統合が遅々としてすすまないことからの義務的な派遣であり、また持ち株会社機能はあくまでミニマム規模に抑え、事業会社は今まで通り力を維持することを考えていたためでもあったと思われる。

そんな中、外向きIRで前向きな中期計画に惹かれて入った僕ともうひとりのIT部長。上場は果たすなどミニマムな組織実装はしたものの、仕入統合や財務統合、情報システム統合は遅々として進まず。毎週の統合会議や分科会も総論賛成、各論反対の綱引き。まったくなにも進まない時期が1年過ぎた。遅々として進まないことに不満を僕は吐いていたと思う。

社員のために変革の旗振り役をやれ

経営改革の難しさ、トップが決めたといっても下がアクションを起こさない現実、腹落ちなしでは覚悟が決まらないというビジネスの洗礼をうけ、現実のビジネスというものをここで思い知る。また、創業者からの腹心と2代目創業者の微妙な信頼関係のズレも感じ、2代目オーナーが経営することの難しさも知れた。

最終的に、しびれを切らした両トップが、本社を東京から名古屋に移す、事業会社出身の取締役は事業会社に戻す。そして、久保社長の下、僕が事業統合を行う旗頭として経営企画部長となった。

その時に東京で付き合って同棲をしていた現在の妻と、結婚を決め、名古屋に引っ越すこととなった。妻は芯が通っており、自分の意見を変えることが少ない人、また干渉もあまりしない人。そんな性格の人のほうが、キャリアや居住国をも移り気な僕の性格に合っていると感じた。 

「ブルドーザー」といわれた時代

足の引っ張り合いで進まなかった事業統合。組織が変わらなければ同じことになる。本社を名古屋に移すときを新たなDay1として100日で変革を仕留めることが肝と決める。

まずやったのが、両事業会社に存在した店舗営業組織以外の部門を、おのおの2つあるものを一つにする仕事。新しい組織図と人事異動は、社長から任せるといってもらえた。統合すべき部門は10個以上あった。

僕がやらなければいけない部門統合。
僕と同じく部門長といっても、自分の一回り以上の年上で、実際やったことは、二人のうち一人を選ぶ選別だった。
各々の部門長を、目の前に並べて、本社統合へのコミットを宣言してもらえるか試すとともに、統合後のそれぞれの組織運営体制についてのビジョンや想いを話してもらった。それをもとに部長を選ぶ。もう一人は副部長に降格ないし営業部門に異動させる。

面談終了後、組織図と人事異動案を、久保社長に上程する段に、ふと深く悩んだのを覚えている。組織統合は株主にとっても顧客にとっても大事なことはわかっている。だから進めている。しかし、自分は、ビジネスで人を幸せにするために日本に帰ってきたはずなのに、やっていることはリストラ。降格となる部門長もそのメンバーも多くの人を不幸せにする。その決断を本当に自分が主導してよいのか、怖いという不安。

社長にそれを正直に伝えた。
そのときの言葉を、今も経営の際の一つの軸にしている。

「外山、経営者の一番うれしい時をしっているか?社是の顧客第一主義も大事だが、業績があがり従業員に多くのボーナスを渡せた時の感謝と笑顔なんよ。きつい決断でも、より多くの従業員やその家族が幸せになるのであれば構わない。その視点で進めてくれているのであれば、外山を絶対的にサポートする」というコメント

経営の要諦と決断の重さを、教えてくれたエディオン久保社長

本当に心が震えた。そして、悩みや不安は解消された。実行を即決した。

その後、文句を言った人はいただろうが、社長と副社長がおそらく裏で対応してくれていたようで、一切僕の耳には届かなかった。

その後、仕入の統合、財務システムやリベートシステムの統合、販促統合や顧客カードの統合など、あらゆるものが急ピッチに進んだ。

やる仕事は積算されていた。メーカー弱体化によるリベート縮小の圧力や、ヤマダ、ケーズデンキ、コジマなどディスカウント型全国チェーンとの価格競争。また、エディオンも大型店を出して売上成長したいが、店舗の大半が老朽化した小型店だったので、スクラップアンドビルドによるテコ入れがj必要で、投資の過半額をとられていた。

自社大型化による売上成長に時間がかかるのであれば、そこでとったのは、他の地域量販店の雄とのM&A。関西ミドリ電化の株式交換形式による統合、北陸100満ボルトへの出資による子会社化、関東石丸電気への出資。M&Aのたびに、事業統合をけん引し、毎年売上を1,000億円以上の単位で積み上げていき、入社前2,000億円の売り上げが8,000億円の4倍になっていった。

 

エディオン時代

他の小規模なものを含めてM&Aをたくさん行った。M&AのAtoZ全部(スキーム検討、交渉、デューデリジェンス、価格算定、統合戦略策定、PMI)を、自分なりに考えて行い、実知見を得られたのはラッキーだった。

32歳で1部上場会社の最年少取締役(当時)にもなり、買収&事業統合推進、新規事業などもけん引していた。当時ついたあだ名はブルドーザー。反対するものは個別に面談をし、説得を重ね、時にプレッシャーをかけて説得を行った。

息切れ、悩み、そして離脱

僕の管轄する経営企画本部の下に、情報システム部やカード推進部や、関東事業部などさらに追加で部門も移ってきて、最大300名以上をマネジメントする部門となった。社長から頼まれ、知り合いの会計士(5名)を入れて、権限移譲をしていった。

その頃の僕は、会社変革を進められるよう、自己の利益ではなく、できるだけ利他の姿勢を貫くことで、周りの賛同を得ようとした。ただ、今思うと、そうなければ改革は進められない、皆は僕を信頼してくれていない、と、勝手に思っていたから。業務がどんどん楽しいものではなくなっていった。

部門のマネージャーや、リファーラル採用した会計士たちが育っていったのを見て、一度、経営企画から外れたく、関東事業部の仕事に専任するため、東京にうつることを要望した。

その時はとても苦い結果となった。何十年と営業し、顧客との関係を築いていったシェアの高い地元とはちがう勝手知らぬ関東エリア。今までの西日本での成功体験をもとに考えた、関東商圏拡大はただの机上の出店戦略。知名度のないエリアでの看板替えによるリニューアル出店、ビジョンが共有されていない寄せ集め部隊による組織組成などで、投資をバンバン進める決断をした。己のことを過信し、あまり考えずに実行に移した戦略がことごとく裏目に出た。

そして、どんどん息苦しくなり辞めることを決め、退職通知を久保社長に相談なしにいきなり手渡した。海外にもう一度戻りたいから、という、一応尤もらしい理由をつけての退職依頼。
社長は「わかった。一度修行に出すと思う気持ちで受け取る。また一緒に働けたら良いな」との言葉をいただいた。それでもその時は心が響くことなく、生返事したのは、やはり心が疲弊していたからかもしれない
 

リクルートの海外ポジションが舞い込む。

転職活動を始めたのは、2008年6月のエディオン株主総会で株主に最後の一礼した後から。株主総会が終わるまでは取締役の職務を全うするため、次の転職先を探すなど不義理はできないと思っていたからだ。

なぜか、有名どころの人材会社には登録せずに、ネットで調べたブティックの人材紹介会社数社に登録をした。そのうち1社が、リクルートエグゼクティブエージェントの元社長が個人でやっている人材紹介会社。リクルートが当時進めていたアメリカ企業のM&A後のCFOポジションを紹介された。一次面接がリクルートの専務取締役。実はリクルートをあまり知らなかったが、当時読んだホットペッパービジネスを書いた本をよんで、とても面白かったので、ホットペッパーの話をしたことを覚えている。

そのまま合格し、リクルートへの10月1日就職が決まった。アメリカに戻れる。エディオンの社長や皆に会っても、胸を張って転職してよかったと言える。とても順風満帆だった。
入社前の1か月に、今しかできないことと思い、妻とヨーロッパ5か国旅行のバス旅行に行った。

中央ヨーロッパ。自分がとても若い(笑)

 

グローバル時代(30代後半~40代)

 

リーマンショックの波で、アメリカではなく、なぜか東京でコピー取り。

リクルートへの転職は2008年。アメリカに戻れる、と前途洋々だった。しかし、リーマンショックが、僕の計画を狂わせる。

内定をもらったのが9月初旬、10月1日に入社。リーマンショックが起きたのは9月15日。一気にすべての市場が冷え込み、ニュースで段ボールを持ってリストラされる映像が世の中に流れる。

間隙を縫って滑り込みで入社できたのは良いが、僕が派遣されるはずだったアメリカのプロジェクトは、完全にストップとなり、計画が突然なくなった。

当時のリクルートは、顧客からの採用キャンセルが相次いだ新卒採用事業や、不動産会社顧客の不良債権化が突然顕在化した住宅広告事業を中心にとてつもなく大きな影響をうけていた。イチ中途入社社員に配慮する余裕もないことは理解せざるを得なかった。。。

新しく入った僕に与える仕事はない。小さな新規事業プロジェクトのサポートや、既存の海外関連会社とのコミュニケーションハブなどの仕事をもらい手伝う日々。こまごましたリサーチ業務やコピー業務も積極的にしたっけ。
ただ、このまま腐っていても、辞めたエディオンの久保社長や皆に合わす顔がないので、1年間はどんなことが起きても耐え忍んで働こうと努力した。浮かべていた愛想笑いは、半年近く経つと、実際強張っていたと思う。周りに受け入れられない悶々と過ごす日々。周りも扱いに困っているのも感じた。

しかし、捨てる神があれば拾う神あり。これは本当に起きる。

当時、特務プロジェクトとして、ホールディング会社主導で中国本土でやっていた海外事業3つ(人材紹介、結婚ゼクシィ、グルメホットペッパー)が苦戦しており、3つをそれぞれ関連する各国内事業カンパニーに移す動きがでてきた。
そんな中、人材紹介事業は、リクルートエージェントに移り、当時の社長(前Jリーグチェアマン。僕の現職ONGAESHI Holdingsのボス)となった村井満さんに僕は拾われた。

この時も、人に恵まれた幸運が後押しした。
村井さんは、リクルートエージェントの社長としており、当時アスリートのセカンドキャリアをサポートするためにJリーグの特任理事をやっており、理事会に出ていた。偶然にも、Jリーグクラブのサンフレッチェ広島の社長でもあった、エディオンの久保社長とよく隣同士で話す仲だったらしい。
久保社長に、村井さんが僕のことを話したら、久保社長は「外山は、真面目で頑張る奴なので、面倒見てやってください。」と言ってくれたらしい。

エピソードを聞いたのは何年か後。久保社長の懐の深さを知るとともに、コミットして仕事をしてきたのは良かったと思い、神様に感謝をした。

世界は本当に狭い。そして、機会は、自分の能力や実績だけでなく、人の縁で授かるものであることを、この時に心に刻む。

次の仕事はアメリカではなく、想像していなかったアジア!

リクルートもまだ積極投資フェーズまでには戻っておらず、拾われた先のアジア人材紹介事業も、すぐに海外に行くということにはならなかった。
与えられた仕事は、リクルートエージェントが前年に買収した、東京のバイリンガルのエグゼクティブ人材のヘッドハンティング会社での経営サポート。当時、共同創業者のイギリス人サイモン、アメリカ人ジェイソンが、会社売却後の次のステージに行くため、外部から採用したアメリカ人のジョン新社長に引きつぐタイミング。社長交代をスムーズに行うよう伴走するというミッション。
また、当時30名程度の従業員数だったが、スケール化への布石で、個人主義の海千山千のヘッドハンターを、個人主義体制からチーム体制に変えていくミッション。変革は無事に潜り抜け、皆の頑張りとリクルートエージェントのバックアップもあり、今ではこの子会社は年商10倍以上の規模になっている。

その外資のような子会社の四半期のキックオフ会でやった自己紹介は、恥ずかしい失敗だった。今では笑えるエピソードだが。
とにかくうまい英語にしなきゃと、日本の履歴書の経歴(大学から今までの役職の歴史を話す)を、20分かけて読み上げるような内容。話し始めて3分で、どんどん皆が興味を失っていった。あくびをし始めるのがわかる。焦ったが、どうしようもなく、汗だくで最後まで自分の経歴を話し続けたのを覚えている。めちゃくちゃ滑った。

それから、皆のやっている仕事を理解しようとし、関係づくりを真摯にやり、クリスマスイベントや業績達成報奨旅行では自ら楽しく時間を過ごすことを愚直にやった。その結果、有難いことだが、メンバーに受け入れられ、少しずつ頼られる存在になれていった。
また、香港では、自ら日本人候補者のグローバル斡旋もやれたのも、この時の事業の理解が基礎になっている。

クリスマスパーティ、コスプレテーマはDream jobs。キャプテンアメリカが僕。


事業拡大を本格的に始めることとなった。自前成長と買収のハイブリッド戦略で事業成長を進めた。リクルートは小さな事業はやる価値はないという企業。白羽の矢に立ったのが、香港を本社に、中国大都市、東南アジア各国にまたがるアジア全域の拠点ネットワークがあるBole Associates。その創業者のルイーザと交渉を進める。ルイーザは若いころにアメリカに単身渡りハーバード大学に行った後、外資系のトップヘッドハンティング会社でパートナーとして鳴らし、起業した女傑。まさに自他ともに認めるクイーンだった。

買収契約をサインする前に、我々がルイーザに求められたのは、Boleの経営幹部50名超を集め、プレゼンをし、皆の納得を得ること。突然日本企業に買収されると知った経営幹部が凝視するヒリヒリした現場を、村井さんと、我々のビジネスパートナーとなってくれた(前出の)サイモン、ジェイソン、ジョンなどの総力戦で、未来を語り、シナジーの可能性を説明した。
上海のホテルのバンケットルーム。僕は、皆のプレゼン資料をまとめ、あとは出たとこ勝負と会議の行方を見守る。自分は表に立たず見守る立場だったので、緊張せずにいたが、皆はとても緊張しているのが分かった。

リクルートの説明をする村井さん。手を椅子に置いている中央の女性がルイーザ

その後も拡大は続けた。空白地帯だったインドへの進出。インドでも自前出店と現地事業の買収を行う。ここでも、買収した会社の創業者スレッシュとの直接交渉や、デューデリチームのまとめを行った。
どんどん地域が広がっていき、新たなチームが出来上がるのにワクワクしていた。

サイモンと出張の時に足を延ばして行ったタージマハル


これらの買収により、日本から、中国、東南アジア、インドに、10か国29都市に展開する、マルチリンガルのエグゼクティブサーチ会社と、日本語候補者のあっせんをするジャパンデスク事業をもつ、アジア斡旋事業が成った。 

アジア各国の幹部が、一斉に東京に集合


買収後の経営は、ミーティングとパーティのあわせ技

買収後は、毎週のようにどこかのオフィスを個別訪問をし、拠点長からマーケット状況を聞き、夜はメンバー全員と懇親会を開いて、話をしたりゲームをしたりした。

PMI(Post Merger Integration)は、いかにフラットで信頼できる関係を構築できるか、その一点を重視して進めた。

 まだBoleとの初期の頃の、PMIミーティング後のエピソードを覚えている

ミーティングでは、今後の方針を決めるたくさんのアジェンダを組んで資料をきれいに用意して臨んだ日本チーム。しかし、Queenルイーザは、思い付きでアイデアをどんどん投げ込み、もともとの想定アジェンダを無視し、また数値の裏付けもなく、しゃべり散らかして一日のミーティングが終わる。

そんな一見空振りで終わったミーティングの後、ホテルに戻るタクシーの中で、日本チームは「いい加減にしてほしい」と激怒。しかし、僕はすぐさま「なんでも言える関係づくりが大事。結論やアクションの生み出さない会議はストレスだが、本音を言わせるがまず第一歩。それは譲らない」と返答した。
前職のエディオンの統合初期では、各事業会社幹部が上っ面だけ賛同し、裏では全く動かなかったのを経験していたため、「本音を話す関係を築く」を、自分の信念をもって取り組んだ。
すると、日を追うごとに関係が近くなり、お互い直接相談するようにまで、ビジネスパートナーの関係が成っていった。

アジアは、僕の人生観をまた変えた。

香港の駐在期間は6年超。よく週末や長期休みを取って、奥さんと一緒に、東南アジアの各国を旅行した。奥さんがお気に入りのバリ島やタイのチェンマイに数回行ったし、ルイーザはプーケットに別荘を持っていて、そこに泊まらせてもらったりした。

チームとは、日本人に対してレスペクトの文化もあり、また現地を尊重してコミュニケーションする僕の姿勢を認めてくれたのか、距離がとても近い関係を築けた。

Boleの500名以上が集まったタイのコンファレンス。香港チームでパチリ。

このアジアで過ごした期間は、僕を大きく変えた。アメリカをグローバルそのものだと思っていたが、アメリカとアジアは全く違う。
国に勢いがあり、また、教養もあり英語も話せる若いメンバーが揃っていた。早い昇進やでかいことしてやろうという、新興国ならではの明るさと野心を持っていた。 

ローカルをさらに深く知りたい

アジアでも、毎週のように出張してメンバーと話した。事業は現場を知ってなんぼ、という発想だ。エディオン時代でも全国500店舗以上を回った。

バックパックもした。西安から、敦煌、ウルムチまで、列車で2000キロのシルクロードを辿る旅程。
その前に乗った、長距離出張のANAの飛行機の中、俳優の速水もこみち氏が、ANA企画で同じ行程を訪ねていく番組を見て、これだ!と思い、寝ずにメモをとってその都市をなぞるバックパック旅行をすることを決めた。

英語が通じない内地。ビギナーレベルの中国語と地球の歩き方を頼りに踏破した。奥さんには、「危険」と、行くことを告げたときに強く反対されたなぁ。
列車の車窓から見たゴビ砂漠の間を通っている大きな幹線道路。石油採掘施設。ウルムチの大きな街並み。中国は、上海や北京を除いて、まだ発展途上だとみられていた時期だが、とんでもなく進んでいると肌で感じた。

秦の始皇帝の墓とされる兵馬俑

インドも、ムンバイ、デリー、バンガロール、ハイデラバード、プネー、チェナイ、コルカッタ他、東西南北の都市を回る。メンバーやその家族の結婚式などに呼ばれると喜んで参加した。仲良くなった後のインド人の優しさや親密さは今も懐かしい。

チェンナイでのメンバーの娘の結婚式に招待される

民族や各都市の、個々の文化や歴史も知り、宗教観も肌で学べた。各国を”アジア”とひとくくりにしていた、自分の浅はかさも痛感した。


子供を授かる。神様ありがとう!

実は、40歳を超えても、僕は子供を欲しいと思っていなかったんです。
人になぜ子供を持たないのかと聞かれても、曖昧に濁していました。

家や子供を持つと責任が増え、人生に制限が生じてしまう、と思っていたから。僕は家族の関係は悪くなかったが、家族のために自分を犠牲にしていた両親を見て、自己投影で勝手に思っていたのかもしれない

家も賃貸しか借りず、土の庭付きの家も住んだこともない。なんか土着するような感覚のものを無意識に避けていた。「根無し草」という言葉がなぜか自分ではしっくり馴染んでいた。

反対に、僕の周りのアジア人は、基本とても家族を大事にする。「子供をもつことは幸せ」だと、疑いなく話す人が多い。会う度に「Shingoはいつに子供を持つつもりだ」というズバッと明るい突っ込みをもらう。何度もその明るい問いを浴びせられると、子供を持つことも悪くない、と改心してきた。

そこから妊活をし、息子を授かることができた。出産に立ち会い、子供が無事に生まれてきたときは、無条件に嬉しかった。
振り返ってみると、この時代は、仕事も余裕ができ、また精神的にも育てることにコミットできる環境にあった。この40代のタイミングだったことは、自分にとっても家族にとってもベストタイミングだったのかもしれない。
奥さんも、僕が子供を作りたくないんだ、と、2人の人生になると半ばあきらめていたと聞いた。それを不満に言うことなく、また急な方針変更をすぐに受け入れてくれた奥さんに感謝している。 

この写真、個人的にとても好き。息子(1歳)と手を握って外に出るところ。


アジアが好きすぎて日本にもどりたくない、Rを去る

リクルートで社長が交代となった。リクルートは社長が変わると同時にその役員陣も自主的に辞めて、若返りを行うという暗黙の了解がある。村井さんもアジア事業を他の役員に渡して去ってしまった。

ガバナンスやモニタリングを重視し、ローカル事業の自由度を失くさせる方向に方針が移っていた。僕は、現場の社員を守りたいがあまり、その後任の上司の方と衝突を繰り返す。最初の顔合わせで、「方針変えてもらったら困ります」と宣言したと思う。今振り返れば、当時の僕は、青臭く、たちが悪い。だれやねんと自分に突っ込みたくなる。

その後、僕の後任がおかれた。少し無念の気持ちもあったが、アジアに残りたいという気持ちが勝って、大好きなリクルートを去ることにした。

またも入社後の仕事がない。会社勤めはとても残酷

オートバックスのアジア事業のポジションのオファーを受けた。東京ではなく、シンガポールをベースとした勤務でよいので、アジアに住み続けることができる。また、海外事業トップの取締役から、既存店舗のてこ入れだけでなく新規事業をどんどん拡大してほしいと言われ、ミッションも面白そうだったので入社を決めた。

そして、香港からシンガポールに引っ越し、また新たな生活が始まると思った矢先、衝撃の事実が。
僕を採用した海外事業取締役から、入社日に伝えられたのは、彼が国内事業の専務に昇格し、海外事業のトップは他の取締役に変更、会社の方針は国内回帰に舵を切るとの内容。
入社日でいきなり仕事内容が全く変わった。

数個のマイナー投資実行や、新規事業フィジビリ、投資方針策定など、小さな実績は残したが、社内の地位も確立できず、1年半が過ぎた。
当時事務所に向かうのに、シンガポールの2階建てバスを載っていた。その2階席で、今日仕事は2時間分くらいしかない。なにやろうか、と考えて出勤することが多くなった。でも、石の上にも3年と自分を無理やり自分を奮い立たせようとした。

当時は40代半ば。「3年経つまで続けても、時間がもったいない」と思い、奥さんに転職したい旨を話す。奥さんは、常夏で、清潔で、公共機関も便利な、シンガポールが大好きだったのを知っていたので、少し勇気が要った。少し嫌がったが、僕が決めたのであれば、と認めてくれた。

”石の上にも3年”はただの言葉。
どうにもならない環境があると初めて知った。


望めば叶う。次のヨーロッパの舞台へ。

転職活動をスタート。
日本に帰る自分を想像できなかったのと、No.2ポジションが長かったことので、事業責任者への強い憧れがあった。だから、海外勤務の海外事業責任者ポジションに絞って転職先を探した。

偶然、日本の人材派遣会社で、前年にイギリス1社目買収、続けて2つ目の会社を買収を進めており、ローカルでマネジメントできる人材を探している機会をいただいた。

求人にあまり出てこないヨーロッパでのポジションにドキドキし、アジアでやっていたPMI経験も存分に活かせることから、これしかないと思った。思いついたら即行動したくなる。

そして、策略と策略を発動する。
ちょうど義理の母がシンガポールに遊びに来るタイミングだったので、奥さんと息子を任せ、僕はイギリスに飛んだ。
ロンドン、ニューキャッスル、マンチェスター、ウェールズのレクサムと、2週間イングランドをバックパックで回った。ロンドンに住む臨場感がどんどん上がっていった。イギリスでの未来の生活に心躍る。
毎日、街並み、スーパー、公園や観光場所を、SNSで奥さんに送る。情報共有といいながら、奥さんの説得を一生懸命やった。義理の母も「晋吾さん、ロンドン行くつもりだね。諦めたら?」と言っていたらしい(笑)

シンガポールは、綺麗で安全だが管理が厳しく、「明るい北朝鮮」と揶揄される。常夏で、日の出と日の入り時間は一年中同じ。季節感もないので、記憶も曖昧になりやすい。土地も小さく、バラエティがなく、もうすぐ飽きてしまいそうという危機感があったと思う。

片や、自然があり、歴史があり、スポーツがあり、四季があるロンドンがとても魅力的に感じた。

ストーンヘンジ。世界の7不思議のひとつ。大きい石ころ?


イギリス子会社3社に、単身乗り込む

日本本社は、今まで遠隔で月1回のモニタリングだけをしていた体制。そこに英国現地で初採用された僕。それはあたかも落下傘で一人飛び込んでいくよう。
本社社長の指示は、「残っている創業者を立てながら、数年後に第二世代に移管させてほしい」というのみで、具体的な働き方は一任された。僕は、そんなざっくりしたミッションの渡され方が自由度が高いので大好きで、とてもやる気がでた。すぐにスタンスと方向性を決め、本社との合意を取って始めた。

 僕の役割としては3つ、と定義して、現地チームの懐に入っていった。
・日本から来たアンバサダーとしてふるまい、ロイヤリティを高める
・モニタリングによる業績のタイムリーな共有
・新規事業やM&Aなどの拡大推進するドライバー

まず行ったのは、現地の会社の創業者と幹部との顔合わせでの信頼関係づくり。各々マネジャーの経歴や仕事ぶりを興味を持って聞き、貢献を認めている旨を伝える。ディナーやパブでの2次会も参加する。イギリス人は通常は礼儀正しく間接的な表現を使うことが多いが、酒がはいると陽気になり、胸襟を開いて話しだした。
ただ、白人のアルコール消費量は半端なく、ビール4~5リットルはざら。最初の顔合わせ時も、3次会に行くと、同僚にポーランド人がいて、ウォッカショットを並べて座っており、一気飲み強要で歓迎された。
アジアでの飲酒量と比べ物にならないので、ある程度飲んで、後は逃げることを覚える(笑)。 


24時間カヌーイベント。そのはずが、パブに立ち寄り途中とん挫。大飲み会へ(笑)


事業拡大、創業者のフレンドリーExitと100%子会社化へ

Gap Personnel (ウェールズ子会社)の、親会社Trust tech傘下入りを祝うサインと

ニューカッスルの子会社の創始者との関係作りはとても苦労した。

彼の風貌は、首の前襟から虎のタトゥーが見える身長2m超の長身。僕の入社前だが、本社からのモニタリングが自分がかわいがっていたNo.2の退職原因になったことに腹を立て、日本本社の経営陣に汚い言葉で怒鳴り散らしたこともあったらしい。細かいモニタリングされるのもとても嫌がっていた。
彼は、何度か僕も自分の味方に引き込もうと持ち掛けたが、僕はニュートラルの姿勢を変えない。そんな僕に対して、彼は堪忍袋の緒が切れて怒鳴り散らすことが何度もあった。イングランド北東部は自動車生産工場の撤退によりエリアの市場が冷え込み、バリューアップが困難と見込み、MBO (マネジメント・バイ・アウト)によりexitした。

子会社群の中で最大規模のウェールズ会社の創業者は、自分の事業の金銭価値向上にとても興味をもっていた、いわゆる投資家気質のアントレプレナー。子会社に会社を買収させることで売却価値を向上するよう、我々に大小何個もM&Aの案件を持ち込んできた。
これが遅々として進まなかった。日本の会社のクロスボーダーM&Aあるあるだが、買収された会社創業者から見ると、意思決定のスピードが遅く、自分で全て決めることができていたのに本社の合意が必要ということに、とてもストレスを感じていた。僕はコミュニケーションが解決すると信じ、理論的な観点で説明し、感情的にも寄り添うことで、都度解決してきたが、数か月経つと同じ不満が噴出する。何度も何度も、同じことを重ねて関係性を維持した。身をもって体験したのは、PMIには我慢も必要ということ。

その介もあって、イングランド東部の会社のM&Aが完了、ノリッジ本拠の3社目がジョインした。イギリスはCase Law(判例法)で少し複雑だったが、アジアでの経験をそのまま活かせて、デューデリ、価格交渉、契約レビュー、PMIの全てを担い、買収成立となった。
この買収を通して、イングランドとウェールズの全域に拠点ネットワークができ、売り上げも当時の為替レートで300億円、セクターでは売上5位の規模まで登れることができた。

各英国子会社創業者たち&グループ本社社長と、コンファレンス後のステーキ店で

子会社3社合わせた拠点数は30以上あったので、イギリスでも毎週どこかに出張していた。

自分のポリシーは、拠点を回って実際に見ること。すると、拠点のデータをが実感をもって感じられる。また、その拠点の置かれている市場や人数、拠点長の能力や影響度などがよく分かるので、施策を打つ時の判断がしやすいなど、現地を知るのはメリットだらけだった。
あと、旅の好きな僕にとっては、趣味と仕事が連動していた、と思う。
人から身体が大変じゃないかとよく聞かれていたが、大変と思ったことはほとんどなく、出張が楽しかったし、通常生活だった。

毎週、長距離電車で、現地のイギリス人でも馴染みがないような地方都市も含めて出張し泊った。電車から見る景色は、羊や馬の牧場で家畜が寝ていたり、春は全面黄色の菜の花畑があったり、また町の中に小さな修道院が見えたり、とても牧歌的で大好きだった。出張の合間に空いた時間は街を散歩したり、城壁の上をジョギングしたり、街のパブにふらりと入って、ビールを飲んだりした。

タキシードを着てホテルのバンケットをかりたクリスマスパーティや、イギリス最古の競馬場のVIPルームを貸し切ったパーティなど、イギリスならではのエンターテイメントも楽しんだ。

男性はタキシード、女性はドレスの、Black-tie Christmas party。こういうイベントがとても大事

時に一緒に踊り、最後はバーで飲んで、大きく酔っ払った。

クリスマスパーティで、気持ちよく飲んでいたら、気が付いたら部屋にタキシードを着たまま寝ていたことがあった。翌日、一緒に飲んでいたメンバーに聞くと、飲み比べで、僕は酔っぱらっていたらしく、テキーラを一つ飲んだ後、「まだ飲んでないよ」と言うと、また一つ飲んでいったらしい。面白かったので、それを5~6回繰り返したら、突然ふらふらと部屋に自分でもどったんだ、と笑っていた(奇跡の帰巣本能)。パーティ場面でのイギリス女子たちは怖い。 

縁で広がるスポーツとのかかわり

前出のリクルートで上司だった、当時Jリーグのチェアマンの村井さんから、Jリーグの放映権パートナーであるDAZNとのプロジェクトのサポートを頼まれて、副業の形でJリーグの特任理事に。ここでスポーツとの縁も始まる。 

Jリーグ年鑑の理事紹介 ©Jリーグライブラリー2018

イギリスにいた当時は、ブレグジットの紆余曲折を目の前で目撃し、ヨーロッパの歴史の複雑さを知った。国民の政治への関心の高さ、民主主義の民度の高さを肌で感じた。12月1日に、ブレグジット党という急進派が開いた祝賀イベントに参加して、祝賀のカウントダウンをしたのを思い出す。

ヨーロッパの、美しい中世からの街並み、文化や宗教の多様性、国民性の違いなど、様々な刺激や学びが日常に転がっていた。

そしてコロナ。厳しいロックダウンが仕事を一気に変える

そんな中、全世界にコロナ禍に巻き込まれる。イギリスでは、感染者と入院数が爆発的に増え(死者17万人)、厳しいロックダウン体制に入らざるを得なかった。現地事業は強制的にフルリモート体制に移行、ロックダウンにより売上が激減した。スーパーと薬局への買い物以外は外出禁止。講演や外での運動も同じ屋根の下に住む家族としか許されない。

少し不謹慎ではあるが、コロナだから、家族にとっていいこともあった。ロックダウン期間は、学校も閉鎖していた。息子の運動がてら、昼は公園に行って、ラジコンやボール遊び、自転車など、数時間毎日遊ぶ。
当時息子は5歳でかわいい盛り。また親が必要な時期で、本当に多くの遊びの時間を持てたのは幸運だったと思える。

売上300億円の最終損益責任者の念願叶ったのに、もやもや状態に。

英国事業のすべての子会社で100%化が成った。ローカルキーマンに日々のオペレーションや人事は任せるも、グループ全体の戦略策定、経営変革、戦略的意思決定(M&Aなど)、中期計画、重要会議体設計などは、僕がExecutive Chairmanとして、最終損益責任ともに担っていた。

今までも買収した約20の企業のPMIを経験をもとに、僕の成功スタイルは定まっていた。一番大事なのは買収会社の人材のリテンションで買収した会社の人材が流出し空箱にならないようにすること、そしてグループ戦略との一貫性と現地企業としての独自性の絶妙なバランスを持たせて運営することに、大きな自信を持っている。

共通するやり方はこんな感じ。
・会社の、変えるものと残すものを、3か月以内に明確に示す
・ローカルメンバーが不安をもつ最初の3か月は、細心の注意を払って、信頼関係構築をし、パニック退職を防ぐ
・ローカル組織での「自己決定感」を尊重し、気づきを与えるマネジメントをすること。現状維持が過度に働いた場面では、毅然と改革をドライブする

この時も、キーマンはほとんど残ってくれ、事業成績も山あり谷ありながらも、緩やかな成長基調。また、コロナ後、ロックダウンの反動で英国事業はV字回復する。

しかし、同じ場所で3年経って、事業が回っていくのが実現すると、それは嬉しい反面、自分のモチベーションは低下したのを感じた。それをごまかすように、メンバーのため、顧客のため、家族のイギリスでの生活のため、という目的命題を持ち出して何とかモチベーションを維持しようとするが、やはり自分の気持ちは、もやもやしつづけていた。


コーチングとの出会い

自分のやりたいこと(Want to)が聞かれても出てこない

一方、海外生活が好きで、僕は日本に帰るとは考えていない。その一つの選択肢としてイギリス永住も真剣に考えていたため、その線でイギリス事業をどのようにマネジメントすればよいか、を考えていた。

その時、目についた本が、「1兆ドルのコーチ」。
アップルのスティーブ・ジョブスやグーグルの幹部など、GAFAMに代表される名だたる会社の経営者(1兆ドルはコーチを受けていた会社の時価総額の合計)のコーチであった人、ビル・キャンベルの物語。
コーチングは、言語や文化問わず使えるマネジメント手法ではないか。自分のマネジメント力のレベルをあげるためにコーチングを学びたいと思った。

そんなタイミングで見た、スクールでコーチングの勉強をしているらしく、そのコーチングセッションのモニターを募集していた知り合いのFacebook投稿。イギリス永住を目指すも、内心これでいいのか、もやもやしていた自分に、「人生のゴールを設定します」という言葉が目に留まり、すぐにメッセージをする。

60分のモニターセッションは、自分自身を失望する結果で終わる。

セッション中、彼に問われ続けたのは、「外山さんの、心からやりたい Want to はなんですか?」という問い。

僕の返答は、
・現地のメンバーの幸せのため
・会社に成果を出しグループ業績に貢献する

ただ、これは、認知科学の観点からは、他人の求めることを当ててやるというのが軸の、いわゆる承認欲求ばかり。問われ続けたが、Want toが出ることはなく時間終了。

セッションで満足した結果が出なかったこと、また、自信を持って言えるゴールがなかったことが悔しく、天邪鬼の僕はさらにコーチングに興味を持ち、自分がコーチングスクール入学を決める。

コーチングの語源の”Coach”。目的地に運ぶもの。

 

スクール期間は必死のぱっち。やり切ることだけ決めていた。

日本でもコロナ制限が残っており、スクールはすべてがオンライン開催。おかげでイギリスにいながら全てライブ受講が叶ったが、時差がある中、時間のやりくりは大変。
最初の2回は朝4時からスタート。休憩を挟み各8時間の長丁場。 ただ、講義の間全く眠くならない。マインドはどう言う癖があるのか、なぜ決断が難しいか、なぜ人は現状の状態にとどまろうとするのか、など、脳の機能からマインドを理解できるのが新鮮だった。 

講義のアーカイブ動画も、人の3倍努力の証で、3周回みた。宿題や振り返りも必ず期限内にやった。6か月のスクール期間でのモニターセッション課題は、最低8セッションが義務付けられていたが、50人とやろうと心に決める(結局46人と少し届かずだったが。) これらの「やり切る」は、全て僕の過去からの成功体験からくる勝ち筋戦略だった。 

スクール期間中、自信家な僕は、すぐに成果が出るだろうと侮っていた。しかし、いろんなゴールを設定してどんどん挑戦していく同期たち。また、挑戦しようとすると、サークルじゃない、認知エラーだとぶった切られる別の同期たち。80名の同期が紆余曲折な躍動をしている中で、僕はなかなかゴール設定も人生通底してやりたいこと=Want toも、長い間特定できず、悶々とする毎日。 

自分の止められない好奇心=Want to を見つけたバルカン半島旅行

ふと思い立ったのは、コロナで止めていたバックパック旅行。せっかくなら旅程も奇抜さを狙う。
なかなか日本から行く機会のない、バルカン半島の小国3つ、モンテネグロ、アルバニア、北マケドニアを周遊することにした。

奥さんに伝えたところ、予想通り大反対。
なぜなら、まだその頃は国境を超えるのにコロナPCR検査が必要で、もしコロナ陽性になればイギリスに再入国はできない。しかもイギリスでは、コロナ患者の長期入院や死亡が相次いでいた年。最悪日本に帰るしか方法がなくなる。

「それでも行きたい」と主張する僕、奥さんからは「勝手にしろ」。喧嘩を押し切り、旅を強行した。

コロナ規制が毎日のように変わる中、インターネットで各国の入国および出国の要件を何度も調べて万全の準備をし、「地球の歩き方(電子)」を携えて、ロンドンから飛行機で飛ぶ。

バルカン半島の国は、もともと東欧ユーゴスラビア内の多民族がそれぞれ独立したという歴史があり、その歴史的背景から、バラバラになった国土は小さく、経済は貧しい。半島内は、列車はなく、バスだけが交通機関。バスの中ではマスクをして、都市間を3~5時間でいくバス旅を続ける。アジア人の旅行者は僕以外おらず、コロナを広めたのは中国人という噂が流れていたので、バスの席は、僕の周りだけ空くという状況はむしろ笑った。

旅行はとても楽しかった。ジブリのアニメ映画「紅の豚」にでてくる、突き抜けるような青空と青いアドリア海。オレンジ色の屋根のかわいい建物。石畳の道。

混血の歴史からか、イケメンや美人だらけの若い世代の多い街。イスラムとキリスト教(カトリックと東方正教)が歴史の中で幾重にも交じりあったため、モスクと教会が隣り合っている。中世までの町の守りどころだった砦やお城の遺跡。イタリア文化も混じっているため、食はおいしいピザやパスタ、ワイン。そこで時々出会う町の人との交流。とても美しい街並みや湖。

 

バルカン半島モンテネグロ、真夏の炎天下で一時間かけて登った砦跡からパチリ

ああ、自分は、やはり探検が好きだなぁ、と、Want toは探検であることを実感。やりたいことに生きているということが、自分のエネルギーに大きな影響を与えるのを実感できた旅だった。 

ちなみに、旅行中は心配かけないように、妻には頻繁にメッセージと写真を送り、無事を報告した。返事は冷たかったけど。。

小さなトラブルは多々あったが、それをも楽しむ自分。例えば、ネットで調べたバスのスケジュールが、ターミナルに行くと、実際のバス発着時間と違って何時間も待つことや、道に迷って酷暑(40℃近く)の中歩くこともあった。でも、自分一人旅なので、ミスの責任は全部自分でとれる。どうやって解決しようか、そんな大変な状況すら楽しんでいた。この探検モードや難題解決も自分のWant toであることを再認識できた。 

卒業に向けてラストスパート

卒業試験は、合格前から、有料でモニターを自分でリクルーティングし、セッションをして、1時間一回勝負でクライアントの仕事領域でのとんでもないゴール設定をすること(今考えれば難易度高すぎ)。
2つ目のレポートで合格。ただし、学長の李さんよりのコメントは「ギリギリのギリギリ、セッションコントロールがもっちゃりとして合格レベルではないが、クライアントを現状の外に導いたという一点をもって合格とする」

スクール中より、コーチをやっている自分を頭の中に描いていたので、自分が世の中にコーチングを提供できるCertificationをもらえたことが素直にうれしかった。

また、「ギリギリのギリギリ」という採点も人によっては傷つく要素かもしれないが、自分にとっては、特別の意味があると感じられた。
「最低ラインからスタートすることで、調子にのることなく、コーチングを磨くことにまい進せよ」
こう解釈し、挑戦し続ける自分らしいスタートが切れた。 

卒業して3年経って(現在:2024年5月)、コーチングスクール10期のスクール生のメンターをやっています。今までの経験と気づきをメンティーにペイ・フォワード(恩送り)していきます。

承認欲求に振り回された今までの人生だったと気づいた大きな失望と、揺るぐことのないアイデンティティをつかめたコーチングの威力

卒業した後のことを考えた僕は、スクール期間中に自分もコーチをつけて、半年セッションの流れをつかんでおくことにする。先回りして考えるのは自分の癖。
何をやったかというと、マインドの働きの解像度をさらに上げる理論を学ぶこと。行動分析学や関係フレーム理論、ACT(Acceptance Commitment Therapy) などを学んでいった。 スクール最終期間と並行して受講したプログラムで一杯一杯だったが、その後の未来しか考えていなかった。

自分自身のコーチングセッションで、掘り起こされ手自分から出てきたのは、「自分はいつも欠乏感を感じている」という言葉。
セッションの流れで自ら無意識にでてきた告白。自分は幸せで幸運だと思い続けていたので、まさかそんな風に自分のことを思っていたなんて。
「他人の要望に当てて生きているから、(承認の)欲望は際限がなく、いつも満たされないんですね」それをセッション中に自分で認めた。

「自分のやりたいことをやるという人生を生きない限り、満足感が得られないのは当然」とコーチからと言われて、今までの数十年の頑張って、周りのために成果を出してきた人生は何だったんだ、とぞっとした。 

コーチングセッションの事例を挙げてみる。

言われて嬉しい言葉は、と聞かれ、僕から出てきたのは、
「頼れるよね」
「話しやすいよね」
「きらきらしているよね」

頼られ、話しやすく、ポジティブにやれているのが、プロフェッショナルと無意識に考えていた。でも、相手からの承認が欲しいから頑張ってきただけ。
承認欲求が由来であったことを自ら気づき愕然とする。
”なんと頑張ってきた社会人30年は、すべて他人からの承認欲求をガソリンにやっていた”

アイデンティティ特定のセッションでは、こんなやり取りがあった。
ストレングスファインダーで僕は最上位の資質が「達成欲」。コーチは「最上志向」だったが、コーチは、これらは全然真逆なんですよ、と説明してくれた。

最上志向とは、例えば、自分の家の内装にこだわり、家具をそろえ、いかに自分の家を最高のものにするかを試行する人。
達成欲の人は、自分の家には無頓着で、他人の家を訪ねていつも修理したり、きれいにしたり、課題解決をしている人だと。 

全てがストンと落ちた。

だから、買収や事業統合のような変革の場が好きで、それが解決して状況が落ち着くと、急に飽きてしまう。自分の人生で、それが通底しておきていることをメタ認知できた。
隣の芝が青く見えて、目移りしていた僕の真因もここで掴めた。

さらに自分のアイデンティティを問われたとき、出てきた言葉は「フロンティア」とか「変革」。
自分自身、変革により現実から未来への”境界線(フロンティア)を飛び越えるのが大好きだし、その境界線の手前にとどまっている人や組織がいれば、一緒に伴走して飛び越えてあげたいと思う。
自分のアイデンティティが、変革者とバシッと決まった瞬間。

昔から、未来を考えるのが好きだったのも、常に何か変わりたい、変えたいと思っていたから。 
コーチングが大好物なのも、買収や海外挑戦が好きなのも、逆にブレークスルーしてしまうと急に興味が失うこともすべて合点がいった。
自分の人生かけてやっていく道筋が明確になった。自分だけの北極星が見つかったようなもの。

ああ、だから、英国事業は好きだったが、次の未来を無意識に探していた。

認知科学の知識やコーチングにより、自分自身に対する認知と自分個人のミッション(社会的に引き受けたい責任)をアップデートすることができたことは、幸運以外何物でもない

・変革を求めていて、自律自走できるようになると満足し、事業トップとして事業の価値を無限に磨いていくことは興味を持つ分野ではない
・メンバーや顧客のためと考える前に、何が自分のやりたいことかを考え、自由に楽しみやりつづける。そして、それが社会貢献にもつながっていく世界線。決して自己犠牲の精神では続かない
・飽きると他のことが気になってしょうがない。他人の課題を一緒に変革することが好きなんだから、うちの芝生より隣の芝生が青く見えるはWant toでええやん。
・同じ仲間で固定せず、解決するために変革を起こせる最強のパーティを都度探して組成し、プロジェクト完了時に喜びを分かち合い、そして次の日に次の再会を期して別れる。

ドラゴンクエストのような例え方になったが、そんな生き方が最高だと思えた。

日本に帰国前ロンドンマラソン完走後、現地MDのマークとパブでパチリ
自己ベスト3時間45分達成

 

日本へ本帰国を決断(現在)

日本で働く、今までと同じ人と働くという、大きな決断ができた!

グローバルとは、日本以外の国、と思っていたがそれは僕の囚われた定義と気づく。
日本以外の国を表す言葉は”Oversea”であり、グローバル=日本+海外。すなわち日本を入れてこそ本当のグローバル。内省することで13年ぶりに、日本へ帰国してもよいという許可が、自分に出せた。

そこで、今までやったことがない業界だが、コンサルティング業界に飛び込むこととした。

・自分は変革に関わりつづける
・コーチとしてでも、コンサルタントとしてでも、どっちのアプローチでも、対象者である個人や組織が望む未来に変わればよい

いろんな職種があるが、僕はその時にパーティに必要とされるどの職種でも構わない。

さらに、元リクルート時代の上司の、村井さんを思い切って訪ねて、彼が掲げるONGAESHI(恩返し)というビジョンを一緒に体現したいと、お願いをした。

実は、未来志向の僕は、同じ人と働くという出戻りというのは選択肢に今までなかった。昔に戻るとは、成長していないこと、また新たな選択肢がなくなったと人に思われかねないから。それも僕の間違った囚われ。

その囚われがなくなった時、村井さんの掲げるONGAESHIのビジョンは、共感できるし、自分のWant toと重なり合うと直感で思えた。

・夢を追い続ける人が報われる社会の実現
・天日干し経営(魚と組織は天日にさらせば長持ちする)

前者はまさしくコーチングの文脈。
後者は僕の好物である人事開発と組織開発領域。 

夢を追い続ける人の代表格をアスリートと置くと、その引退後の活躍を支援するとはアスリートのセカンドキャリアの支援。

僕はそのプロジェクト、単にアスリートがセカンドキャリアを見つけるということ以外にとてつもなく大きな可能性を感じている。アスリートが会社組織に入ることで、彼らの人間力や圧倒的な熱量や異才に感化されて、受け入れた会社全体が変わるという奇跡の状況。それを僕は見たい。

そんな未来が描け、今、地方創生ファンド兼コンサルティング会社のONGAESHI HoldingsのCOOを生業としている。

https://www.ongaeshi-holdings.com/

その1号の投資先である、空間ソリューション不動産会社フィルカンパニーに、副社長COOとして今派遣されている。
この会社は「世界中の難しい土地をゼロにする」「街づくりをオーダーメード」をミッションとして掲げている。今は主にリソース不足から関東に限られているが、地方創生の可能性に秘めたとてもユニークな会社。フィルの未来へ経営変革を支援している。

ここでは、全社的な経営改革だけでなく、
・戦略人事機能(CHRO)
・新規事業機能(CSO)
・マーケティング機能(CMO)
として、それぞれの部門の管轄もさせてもらっている。

組織が成長するうえでの根幹は、ミドルマネジメントと定め、マネージャー研修も自分でスライドを作って始めた。

新たに全国事業拡大する第一歩になる、関西拠点の創業メンバーの採用面接自体なども、自ら手を挙げてやっている。

また、70人の従業員全員と、1on1のランチをすることで、コミュニケーションすることもしている(派遣後5か月の現在半数は越えたと思う)。

僕にとって、人や組織が良い方向に変わっていくことはとてもダイジであることを、今回のミッションでも再認識している。

左寄り、家本さん(CCO)、村井さん(CEO)、外山(COO)

つい先日、村井さんと、もう一人ONGAESHIに参画している家本さん(日本一有名な元国際プロサッカー審判)の3人で、泊まり込み合宿を促し、ONGAESHIのミッションステートメントをともに熱く議論した。

・夢を追い続けるアスリート。引退後にその異才を経営の現場で活かす。
・その経営現場のOSサポートとして、経営人材をペアで送り込む。
・そんな厳選された50組のペアを徹底的にサポートしよう。
・そのペアにより、50社の会社組織が変わり、ひいては日本が変わる。
題して「蛙プロジェクト(言葉の背景をわかるのは我々のみ)」。

天日干しにより、トップ自ら会社組織が開くことで、忖度なく言える関係が作られ、そして新奇異才が活かされる組織にする、それが社会に広がる。
そんなミッションを、楽しみながら、取り組んでいきたい。

まとめと想い

振り返ると、自分は、やりたいことが見つかった時はその好奇心に沿って、動いてこれたと思う。その時々の上司や同僚は、総じて背中を後押ししてくれた。働く環境を移るごとに、スキルだけでなく、人間としても成長させてもらえた。
あと、今回振り返ってみて面白かったのが、マイルストーンは自分だけで決め、他人の意見をあまり聞かない頑固者な側面。回り道をしたり非効率な方法を取ったりすることも多かったろう。

40歳になるまで、自己拡張のみに没頭してきたわがままな人間だったと思う。半面、大事だと思えたことは、素直に受け入れた側面もあったのが幸いして、うまく行かないときは、ご縁と幸運が救ってくれた半生だった。

その40歳の誕生日に、その年の誕生日の寄せ書きにイギリス人の親友でビジネスパートナーであるサイモンが書いてくれた、「Happy 40s Shingo!, All downhill from here!」のメッセージが、僕の心のよりどころとなる大きな転換点になっている。

人生80年とすると折り返し地点。

40才の時に香港オフィスのメンバーがくれた寄せ書きメッセージ

自己犠牲をもって他者貢献をすることはしない。
自分の本音のWant toに従い、貪欲に楽しみ、それを周りの人への貢献につなげていく。自分の世界観にあったチャレンジを楽しめることで、本当のコミットメントを持って取り組める。そして、自己充実と社会貢献を両取りすることができると信じている。

​これからも、新しい環境に飛び込みつづけ、挑戦し、成長と出会いのプロセスを楽しみたい。

そして、皆さんと、目の前に広がるあたかもフロンティアを超えるように、個人や組織の変革に挑む時に、一緒に伴走し、まだ見ぬ世界をともに見ていきたくと思っています。

どんな決断も、未来に整合している。
コーチングスクール中に学んだ、その言葉が僕は大好きです。

未来は常に整合する(アファメーションのひとつ)


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