古代ローマとその近縁世界の“粥”


 先日新年会の場で【古代ローマとその近縁世界の粥について】が話題にあがったが、ちょっと一言ではコメントしにくかったので改めて意見を整理してみた。整理…という割にはまったく纏まっていないメモ書きだが、古代世界の粥とはどういうものだったのか、興味関心のある方は目を通してさらなる検討を重ねていってほしい。春の巫現の声嗄れるまで、自由飲酒主義同盟の諸侯におかれましては、これを肴に大いに飲み論じられますように。


■そもそも歴史料理“オリューザ”とは何なのか?

 結論から言うと、私は知らない。アレクサンドロス大王と結びつけられているのも、よくわからない。かつて私が「オリューザの再現には古代米のほうが相応しい」と発言したのは、プリニウスの博物誌に、当時の米は【インドの小麦の一種で、湿地に生え、紫色をしている】とあるから。博物誌は米のことをオリザ・オリュザと並列表記しており、“オリューザ”は単に米という意味で、料理の名前ではない。


■あの味付けはヘレニズム風なのか?
 

 アピキウスの料理書(~後5世紀)には、帝政ローマ・ユリアヌス帝時代のセモリナ粥のレシピが載っている。“セモリナ”の部分には穀物粉末であれば何でも当てはめられるわけだが、上流階級向けのレシピであることから大抵はデュラム小麦の粉だろう。このレシピの味付けはそのままに、“セモリナ”の部分を“粉末ではない米”に置き換えると、隣に肉団子(本来は羊の脳みそでつくる)を添える点を含めて、“歴メシのオリューザ”のレシピが出来上がる。そういう創作なのだと思う。知られているとおりユリアヌス帝は紀元後4世紀、アレクサンドロス3世は紀元前4世紀の人物だ。約700年越しの援用を、我々はどう受け止めるべきだろうか。チャールズ=ペリー氏の研究によると、現在の味付きプロフは16世紀のイランで発明されたもので、12世紀頃のプロフはプレーンだったらしい。つまり粥にしろ炊き込みにしろ、かつてアレクサンドロス大王が征したエリアには、「コメに塩以外の味をつける」という文化自体が16世紀まで無かったらしいのだ。たしかに紀元前4~後2世紀のマウリヤ朝宮廷では、米の粥が食べられていた(カウティリヤ『実利論』より)。けれどそこに味付けについての描写はないし、アレクサンドロス大王自身は、アケメネス朝を滅ぼしたのちはペルシャ宮廷の料理人たちを“戦利品”とし、ペルシャ風の食事をとっていた(Dalby and Grainger;Classical Cookbook, 70-81)。アケメネス朝ペルシャでは、それ以前の文化の継承として、穀物粥といえば大麦粥だった。



■帝政ローマにおける“粥”

 ところでここまで読んでもらっておいて悪いのだが、“歴メシのオリューザ”の元にもなっていると思われる“アピキウスのセモリナ粥(ワインやガルム、複数の香辛料で味をつける)”について、私は

「 そもそもこれ、粥じゃなくね? 」

と以前から感じている。


帝政ローマの粥は、我々の思い描く粥ではないと思う。
いやまあ実際、水分とともに穀物を加熱してあるから、「その状態を粥と呼ぶのだ」と定義されたら、アピキウスのレシピはたしかに粥(物理)ではあるのだが、実態としてのそれは【ミートボールと絡めて美味しくいただくため、小麦粉をいれてもったりさせてあるソース】である。粥(物理)ではあるのだが、七草粥とか、リゾットとか、そういう粥(概念)ではない。

古代ローマ人に比べると、現代の我々はより細かい料理の分類概念を持っている。古代ローマ人にかかればきっと、お汁粉もコーンポタージュも粥の一種とされるに違いない。大カトーは言うだろう、グラタンコロッケバーガーは、粥を内包するパンである、と。完全食ではないか。


■概念上の“粥”といえば・・・
 

 『オデュッセイア』に出てくる、古代ギリシャのキュケオーンは粥(概念の極み)である。
 “現代人にとっても粥だと認識できる粥”なのか怪しいのはもちろん、“水気多めで加熱してある穀物”という意味での粥なのかどうかもわからない。だってキュケオーンって、“混ぜて濃くした”くらいの意味なので、その定義によればめんつゆ(濃縮還元)だってキュケオーンだし、あらゆるカクテルはキュケオーンである。
 現在一般的(?)なキュケオーンのレシピは、『古代ギリシア・ローマの料理とレシピ』にもとづくものか、そこから派生したものだ。キュケオーンは粥である、という日本語圏内での大きな前提は、ここから始まっているのかもしれない。こちらの本では、大カトーの『農業論』に出てくる“カルタゴの粥”のレシピをもとに、オデュッセイアの食事描写にかなったキュケオーンを創作してある。


材料はリコッタチーズに蜂蜜、卵、そしてセモリナ(粉末穀物)。


この“カルタゴの粥”は別にカルタゴだけで食べられていたわけではなく、ローマの富裕層の間で一般的なものだった。詳しくないが“カルタゴの~”という表現は、大カトーが用いた見事なイチジクのロジックよろしく、“豊かな”という意味の込められた俗語だったといえそうだ。
 俗語といえば、キュケオーンだってそうだ。“金色の”とはいうけれど、そこは古代ギリシャの表現であるし実際金色という意味ではないと思う。“めっちゃ元気出る”とか、そういう意味だと思う、知らんけど。なんだか、くだらなくなってきたのでそろそろ話を畳む。

キュケオーンはストーリー上のアイテムだ。日本中世の物語にしょっちゅう“神変鬼毒酒”が出てくるのと一緒で、神仏の加護によって主人公が鬼を打ち負かすきっかけになるのだけども、特別細かい設定があるわけではない。とりあえず物語の聴衆が、

「 すげえ。飲んだらカーッと身体が熱くなって、元気出そう! 」

と思えればそれでいいのである。古代ギリシャ文化圏では、焼いた大麦を煮てつくる大麦湯が普及しており、それに薬効が認められていたようだから、個人的にはキュケオーンはオデュッセイアの原文通り大麦湯にワインを足したものだと思う。いわば茶殻ごと煮出した麦茶(古代人はこれを麦粥、近代人はこれを代用コーヒーと呼ぶ)とワインシロップのカクテルである。コーヒーにワインを入れて飲む文化は、現代にも存在する。



■結局、古代ローマの“粥”(現代人から見ても粥)って?


 最後に、共和政ローマの“カルタゴの粥”に入れるべきセモリナは何なのかについて書く。おすすめはキビ・大麦・豆類の混合物だ。季節によりいろいろ好きな穀物を入れるとよい。というのも季節によって収穫され都市まで供給される穀物は異なるし(そこら辺は博物誌に詳しい)、現代的感覚でいうところの雑穀が嫌われたわけでもない。特にキビはすぐに火が通るので、高火力を得られない都市部では好まれた。小麦類はパンにできるからわざわざ粥にすることもないが、富裕層ぶってたっぷり入れてみてもいいだろう(その際は全粒粉で)。
初期のローマはファール小麦(エンマ小麦のことか)を尊び、ファビウス家はエンドウ豆、キケロ家はエジプト豆といった具合で氏族と農耕が結びついていた。けれど大カトーの時代には、ファールとは異なる新種の小麦がパンにされていたようであるので、再現の際は気にせずデュラムセモリナを買って使うとよいと思う。
何を使うにせよ市場では、あらゆる穀物に一粒のインゲン豆を混ぜておく風習があったから、ごく少量であってもインゲン豆が入っているとなんだかそれっぽい。火は中火→弱火で、すべての穀物粉末は火にかける前にじゅうぶん水に浸しておくとよい。
 

先日は訊かれたことにうまく答えられなかったが、今日は書くべきことのすべてを書けたんだろうか?。ローマ軍団の糧食については、日を改めてまた書こうと思う。


#歴史 #料理

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