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ある雪の日

山からソリに乘って降りてきた人がありました。山といっても、小学校に上がる前の子供の足でさえ一時間ほどで頂上に着いてしまうくらいの小山です。ムエさんの家はちょうどその小山の中腹にぽつんと建っていました。ムエさんはもうお婆さんでしたが、ひとりでそこに住んでいます。屋根は赤いトタンで、漆喰壁の、小さくてずいぶん古い家です。遠くから見るとかわいらしく見えますが、だいぶ傾いていてすき間だらけです。今日はその赤い屋根も白く雪化粧していました。

ムエさんの家のすぐ脇に頂上まで続く山の登り口があり、春になるといつもその辺りには小さなスミレやオオイヌノフグリが咲き、青色の絨毯のようになるのです。ムエさんはその青い花たちが大好きです。けれども、その日はまだ春には少し遠く、前の晩遅くに降った雪が辺り一面を白い景色に変えていました。

ムエさんは淹れたばかりの珈琲が入ったマグカップを持ち、いつものように表に出ました。そのときはじめて辺りが真っ白なことに気がついたのです。
「あら、まあ」ムエさんは白い景色を見て少し嬉しくなりました。一日の始まりを、珈琲を飲みながら過ごすベンチにも薄く雪がついていました。ムエさんは軒下に掛かっている赤い柄の手箒で雪を払ってから、ゆっくりベンチに腰を下ろし、珈琲の香りをかいで美味しそうに飲みました。

裏山からソリに乘ってきた人は、犬を連れていました。といってもソリを曳かせるような犬ではなく、マルチーズらしき毛むくじゃらの痩せっぽちの犬でした。たいそう汚れているので本当の毛の色はわからず、ソリに乘ってきた人の懐に収まっています。ソリは斜面を下ってきてムエさんの家の脇に出てしまい、これ以上は動きません。つまり、ここがソリの終点でした。

ソリに乗ってきた人は家から出てきたムエさんに気づき、寒がるふうもなくベンチに腰かけた彼女のゆっくりとした動きを見ていましたが、ムエさんがマグカップを手に落ち着いたのをみとめると、ソリから犬を抱えたまま、よっこらしょ、と大儀そうに降りて、「こんにちは」と声をかけました。大きくてとても低い声です。ムエさんはちょっと驚きましたが、そこに犬と一緒に立っている髭もじゃの人を認めると、ムエさんも「こんにちは」と挨拶を返しました。

じつは山頂からの道は、そのままムエさんの家の前にある畑の向こう側に続いているのですが、いまは雪のせいで消えていました。山からソリで降りてきたものの、そこで道が終わって、その先はムエさんの家の庭を通るしかないと思ったその人はちょっと困って、「あの、ここから下に降りていくのには、どうもお宅のお庭に足跡をつけなければならないようなのですが。もしお許しいただけるなら、あなたのお庭を通りたいのです」と、とても丁寧に言いました。
「どうぞ遠慮なく通ってくださいな。それに、雪が解ければ足跡も消えてしまいますもの。ちっとも気にすることなどありませんよ」
「ははあ、いやご親切にありがとう。助かります」
その人は犬とソリを抱えてムエさんのベンチの前を通るときに、もういちど頭を下げて「ありがとう」と言うと小道に出て再びソリに乘り込み、坂になっている小道を滑って行きました。途中「ほっほー」という低い声が聞こえました。
「サンタクロースも大変ね」と、ムエさんが言いました。

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