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その8【そして、私の作業は……慟哭と共にあった】

 私が担う作業は、怨嗟の浄化、霧散化です。
 要は弾圧され、殺戮されていったキリシタンの方々の感情(怨嗟)を更に蹂躙する行為です。
 その行為について、言い訳はしません。
 そこに正義はありませんし、慈悲もありません。
 ただ、必要だから行った行為です。

 この行為の間、私は関東に住む眷属から、あえて「目」の力を借りました。「目」の力を変換して、不完全ながらも「過去見」の力を使いました。「過去見」は推奨できない力です。迫ってくる圧力が強すぎるので、精神への負担が大きく、一つ間違うと後遺症を負ってしまいますから。
 それでも、過去に起こった惨劇を垣間見つつ、それによって生じた怨嗟を受け止めつつ、浄化・霧散化という名の蹂躙をしたかった野で、私はあえて「過去見」を使いましたが、その反動は今でも続いています。やはり、誰にも勧められない力です。

 それから、もうひとつ。
 麒麟さんに依頼して、私の蹂躙行動を余すことなく記録して、未来永劫にまで神域階層にて保管してもらうことにしました。
 こういう蹂躙劇など、神さんたちとっては記録に留めるにも値しない些末な事柄でしかないのはわかってはいます。それでも、私は詳細な記録の作成願いしたのです。もちろん、私の自己満足です。
 人間の端くれである私が、どうしようなくて抱かざるを得なかった数多くの怨嗟を、ローラー作戦の様相で淡々と踏み潰して蹂躙し、霧散化させていった。それは、まごうことなき事実である。ならば、人間の端くれとして、そういう作業を担ったという事実を記録しておきたいと願ったわけです。記録を残したところで、何方からも閲覧されることのない記録でしょうが、それでもね。
 まさに、自己満足です。

 車で走りながら行う作業と、要所で駐車して行う作業との二種類を交互に行いました。
 とにかく、私は、私の持つ圧縮・粉砕の力で、周囲一体の怨嗟の情念を一気に粉砕し、再生しないように風に乗せて散らしていく。これが浄化・霧散化という作業だが、明らかに蹂躙行為である。

 この作業の最中に、私は二種類の幻視を繰り返し見続けた。
 ひとつは、地中から天空へと向けて延ばされる無数の手。これは怨嗟の情念がイメージ化された者だが、その様はとても切なかった。切なかったが、私はその思いを淡々と圧殺していった。
 圧殺する以外の方法を私は知らなかったから。
 哀れで、切なくて仕方のない情念だが表に出すわけには行かないのである。

 もうひとつは、キリシタンたちが迫害され、蹂躙され、虐殺されていく様の幻視である。
 縛られて次々と斬り殺されてされていく様。
 崖に追いつめられて、その果てに突き落とされていく数多の影たち。
 火に焼かれながら、もがき、惑う人の形をした黒い塊たち。
 穴に落とされ、上から岩を落とされてしまう風景。
 そして、飢えていく者たち。
 そこには一片の救いもなくて、ただただ怨嗟を生み出すための舞台装置。
 キリスト教を布教した側も、弾圧した側も、そして困窮の末に無学のまま信仰にすがった側も、「ソレ」の深謀遠慮にはめられてしまった結果の風景が、これである。

平戸でも、島原でも、天草でも、それ以外でもそういう幻視を見続けた。

 私は、単なる蹂躙作業を行うために車を走らせながら、幾度も慟哭した。
「ふざけるな」と。
「頼むから、私を許すな」と。
「私のしたことをちゃんと委細まで記録しておいてくれ」と。
 許されたら、私も同類になってしまうと思った。

 行った先々の多くに観光地があった。
 人がまばらで良かった。
 もし、数多の観光客がいたら、そこで無邪気に、無垢に、笑顔を浮かべて楽しんでいる彼ら彼女らに殺意を向けてしまったかもしれない。
 それほどに心を削られる作業が続けられた。

 私は、休息日をはさみつつ、つごう八日にわたり行われた。
 この作業で、本当に無数の情念を圧殺した。
 許されてはならない行為を繰り返した。

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