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私の中にある共産主義思想は画餅である……それを承知で、私は語る。

最近、気づいたのだが、今の私は極度の共産主義者だった。

ずっと以前に、マルクスの「資本論」を読んだ(中身は既にうろ覚えだが、主旨は記憶の片隅にある)。「共産党宣言」は斜め読みだったかな。

その上で思うのは「資本論」を読んでいない者と共産主義思想について議論しても埒があかないということだ。
巷にイメージされる共産主義思想と、マルクスが深慮の末に導きだした原始的な共産主義思想とには雲泥の格差がある。それを理解するだけの知識を持っていてくれないと、議論すら始められないのだ。

私の中では従前からソ連も中国も単なる専制政治が行われている軍事独裁国家、帝国主義国家でしかないと考えていた。
唯一の共産(社会)主義国家たり得る可能性があったチリ共和国の政権は米国によって、さっさと潰されてしまった。

私の中では、共産主義という思想自体は画餅であると考えている。
あくまでも理想的な形として、目指すべき指標だと考えている。

なぜ画餅であるかと言うならば、共産主義は人間の理性と教養と良心に依存した思想だからである。
社会体制が成熟し、そこに住む人間のほとんどが理性的生物として成熟した末にくる形が共産主義思想なのだ。
私はそう解釈している。

では実社会においてはどうかというと、何よりも人間の成熟度があまりに低すぎる。
恐怖とエゴイズムに蹂躙された思考で動き回る人間たちがほとんどであって、そういう中では私が規定する共産主義社会は成立し得ない。

だから、私は、私が規定する共産主義思想を目指すべき目標程度に考えている。
私は現実主義者でもあるから、私の中の共産主義思想が現時点では実現不可能であることもわかっている。

人間の目指す理想形のひとつであるという程度の見方だ。
だが、この理想形を否定するつもりも、捨てるつもりもない。

人間の思考にタブーを作るべきではない。出来るだけ多くの選択肢を示しておくべきだろう。
今では冗談にしか思えない選択肢も、時を経た先に、有力な選択肢のひとつに育つ可能性がある。
だから、私の中にある、私なりに規定した共産主義思想も、私の中から外に出しておきたいと考えるようになった。

私は面倒くさがりで、適当に争いを避けつつ、自分と自分の大切な者たちだけが生き残る術を選ぶことを主義としてきた。
そのために、自分の内面で様々な思考実験をしてきて、いざという時に選べる選択肢を増やしてきた。

その過程で出来上がってきたの、私なりの共産主義思想である。
副産物、あだ花的な思想である。
だが、このまま私の内面に置いたまま捨てておくには惜しいくらいには育った。
だから、夢物語的な思想のひとつとして、アウトプットして、電子の海の片隅でも置いておこうと考えた。

何百年か先に、もしかして人間の多くが自身の恐怖に惑わされない様な理性的生物として成熟する時期がくるかもしれない。
その時に、もしかしたら、誰かが私の夢物語を電子の海から見つけてくれるかも知れない。そして、ひとつの選択肢として考えてくれるかも知れない。
そういう思いから、私はこのマガジンを綴って行くことにする。

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