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「死ぬまで生き続けるべき」理由、その中のひとつについて。

先週、NHKの番組「深読み読書会」にて、井上靖作の「敦煌」を扱っていた。
これをつらつらと視聴していた。

そのなかで「人は死ぬ瞬間まで生きるべきだ」という言葉と、「文化は継がれて行ってこそ価値がある」という旨の主張とが紐付けされて膝を打つ思いがした。

人はやがて死ぬ。
だが、自分が得た何某かを引き継がせることで、自分が生存していた間に担った役割を果たすことができる。
完全ではないけれど、ごく一部ではあるけれど、役割を果たすことができる。

自分の生きる先に希望はないかも知れない。
すぐ先に100%の死しか待っていないかも知れない。
だけれども、その一瞬の間に、自分が出会ってきた何かを次に引き継がせる努めを僅かに進めることができる。
それだけでも、生き続けようと足掻き続ける価値がある。

死ぬまでの僅かな合間に、新しい縁を継ぐことができるかもしれない。自分の経験や知恵を継げるかもしれない。
それが、自分を殺す誰かであっても、その者に継がせることができるかも知れない。
その可能性を捨てるな。
その通りかも知れない。

自分の中で築きあげてきた「文化」は、その一握であっても誰かに引き継がれてこそ意味がある。
己だけでおさめて秘匿したまま朽ちさせるのは愚かである。

「敦煌」では若き僧たちが敦煌窟に経文を隠して戦火から守り、「華氏451度」(レイ・ブラッドベリ)では本の内容を暗記して後世に伝えようとした。

残酷な独裁者はやがて死ぬし、民衆を抑圧する帝国もやがては滅びる。
その後の世で、自分たちの遺したものが日の目を見てくれたら、それで報われる。
そういう思いが見て取れる。

文化を引き継ぐ。遺す。
その努力を死ぬ間際まで努めるべきである。

ひとつの真実の形であると思う。
一定数の者たちを納得させられる「死ぬまで、生き続ける」理由になる。

このロジックについて、全面的に賛同するつもりは今のところはない。
感銘を受けたからと言って、すぐに賛同するには、私の性根はひねくれすぎている。
だが、時間をかけて吟味・検討する価値はあると判断した。
思考のためのひとつの材料を得られた、それだけでも私は幸せな気持ちでいる。


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