「起こり」


こんにちは。昼過ぎの投稿です。
とはいえ書いたのは昨晩なので、仕事をサボってる訳ではありません。

先日の「アーリーサマー前日譚」への多数のリアクションありがとうございました。文章を書くことに関してまだまだだとはもちろん思いますが皆さんからのリアクションは非常に励みになります。
誰に頼まれた訳でもないのに勝手に書きなぐってるだけなので評価もクソもありゃしませんが、それでもああいった反応があるのは嬉しいものです。

今日は僕が役者に傾倒したおよその流れと、今の自分が「演じる」ことに対して思うことを緩く綴ろうと思います。
もちろん数回舞台に立ったことがある程度の人間が「上手に演じるためには」なんて大それたことを言うつもりはありませんし、説法を垂れるつもりも一切ございません。
あくまで自分が役を演じる上で気にとめていることを吐き出すだけです。去年自分の中の演技観みたいなものが少し変わったので、その気持ちを忘れないための備忘録と思っていただければ。

僕の演劇人生(?)は高校時代演劇部の助っ人として大会に同行したところから始まりました。
忘れもしない2012年松江地区大会、上演トップバッターは松江工業高校の「贋作マクベス」。
僕の人生を変えてくれたのは間違いなく演劇部に誘ってくれた伊藤くんですが、僕の人生を変えた作品はと言われたらやはりこの「贋作マクベス」を置いてほかにありません。
この作品は既成の台本なのですが、最終的に松江工業高校は演劇の全国大会のひとつである春フェスに出場しました。既成台本で全国に出場って演劇部の感覚からするとありえない事なんです。それでも全国に出たということからもやはりこれが名作であったことに間違いはないのですが、まあとにかくすごい衝撃でした。演技が上手い(上手いというのも人それぞれの感覚だとは思いますが)のはもちろんのこと、照明や音響、舞台上に焚かれたスモーク、個性的でかつ効果的な演出の数々、高校演劇に慣れ始め、同年代が演技している姿を観ることに対する恥ずかしさが消えつつあった僕の心を掴んで虜にするのには十分でした。

その後紆余曲折を経て演劇部に入部した僕でしたが、高校時代は照明を担当していました。
つまり役者ではなかったわけです。役者をやる気は正直サラサラありませんでした。友達や後輩が演技する姿を観るのには慣れましたが、やはり自分が舞台に立って演技をするというのはまた一段とハードルが上がるものです。少なくとも当時の僕にとっては相当高い壁でした。
とはいえ演劇って観てたらやりたくなるもんですよね。
特にスタッフとして稽古を見ていたら「俺ならこうするなぁ」とか「もっとこんな感じでセリフ言ったらいいんじゃね…?」とか、上手いか下手かとかは置いといても何かしら思うもんです。

案外やってみたら楽しいもんなのかもなぁ、と思いながら月日を過ごし、大学時代初めてガッツリ役者を経験しました。

やっぱり演技って難しいですよね。上手に演技をするってそもそもふわふわしてて掴みどころがない感じがします。
様々な「上手い」の定義はあるかと思いますが僕の目指すところはあくまで「自然である」ことです。
日常を切りとったかのような「自然な」言い回しであったり、こういう人いるよねぇ、と観ている人に思わせるような仕草、そういった演技を僕は目指しています。
ですがそれも時と場合。必ずしもそれだけがいい演技だとは思わないし、あくまでひとつの目安でしかないとも思っています。
繰り返すようですがこれは僕個人の意見ですので、正解とか不正解とかそういう話ではありません。ニホンゴッテムズカシイネ。

前回のアーリーサマー前日譚にも書きましたが、去年とある舞台に立たせて頂きました。それが「30分間想」。この舞台でヒガシという男を演じたのですが、まあコイツが僕なんですよね。もうそのまんま僕。適当で空気が読めなくて他人の神経を逆撫でするような間の悪い男。あれ?もしかして俺って最低人間??
伊藤くんは当て書きじゃないと言いましたが、あれは完全に僕です。やりやすいったらありゃしないんだから。ホントにすごいねキミは。

そういう訳でヒガシという男を演じたわけなのですが、この舞台を通して演技する上で大切にしたいある要素を見つけました。

それがタイトルにもある「起こり」です。
おまたせしました。ここから本題です。
しかしこの「起こり」というのは僕が便宜上そう呼んでいるだけなので正しい表現かどうかも分かりません。
ここで言う「起こり」とは、「セリフや行動のきっかけとなる出来事、またはセリフ」を指します。
たとえば「どうしたの?」というセリフがあるとします。
もちろん台本にそのセリフがあれば然るべき時に然るべきタイミングでこのセリフを役者は吐けばいい訳ですが、それはあくまで進行上の話。
台本は世界で、ト書は出来事、セリフは思い。
であるならば、一つ一つのセリフにはその人間がその言葉を選んだ意味があって、そのタイミングで口に出す理由があるはずだ。
ここでは、この人が「どうしたの?」と思わず声をかけたくなるような動き、表情、出来事が起こっているはずですよね。
それをきちんと感じることが出来れば、予定調和ではなく素直に、自分の意思で「どうしたの?」と聞くことが出来るはずです。
ヒガシを演じる上で何だかそんなことをふと考えたのです。

え?そんなん当たり前?何を偉そうに?
……いやはやお恥ずかしい。
ですがこれまで何本か舞台に立たせて頂きましたが、去年初めて僕は気づいたんです。それまでは順番を間違えず、セリフを間違えず、出ハケを間違えないことにしか注力出来ていなかったと。
ああなんてお恥ずかしい。

いや、そうなんです。当たり前と言えば当たり前なんです。でもこれって結構大切ですよね??

僕は舞台をやっていて時折感じる「予定調和感」が苦手です。もちろん台本通りスムーズに進むのは大切ですが、何だか生きてない感じがするじゃないですか。演劇は、舞台はナマモノでありたい。そこで生きている人間が舞台に立ってセリフを言うから意味がある、そういう世界にしたいじゃないですか。
映像作品にもその良さがあるように、舞台にもその良さがあって欲しいじゃないですか。
僕が思う舞台の良さはそのナマモノ感です。
今この瞬間にしか観ることの出来ない、作ることの出来ないものを作りたいじゃないですか。
目の前の客を喜ばせたいじゃないですか。
そうすると先日の「愛してDISTANCE」のように、ぶっつけ本番のアドリブ合戦が始まるんです。(ちなみにあれはやりすぎです。)

話が大きく逸れましたが、「起こり」の話です。
ヒガシを演じる上で1番考えたことは、「なぜコイツは今このタイミングでこんなセリフを言うのか。」ということ。
でも彼の思考を読み解くと、ここでこう言いたい理由が何となくわかってくるんです。
逆に言うと、ここでこんなこと言わないんじゃない?なんてことも考えられます。
このセリフはここで言うよりこっちで言った方がこいつとしては辻褄が合うと思う、なんて偉そうに台本にケチつけたりもしました。そんな生意気言っても伊藤くんは理解してくれたし時には修正してくれました。本当にありがたい。

そして、その起こりを考えると、セリフ覚えるのがすごく楽なんです。
だってなんでこう言いたいかの理由が自分の中に明確にあるんだから。
まるで自分の言葉のようにスルスルとセリフが出てきます。
稽古期間が短くてヤバいみたいなことも前回書きましたが、そんなヤバい稽古期間でもセリフがある程度キチンと入ったのはそれもあったかもしれません。

ただ文字の羅列覚えるのってキツいじゃないですか。
でもそこに理由があってそのセリフが自分の言葉になれば、極端な話覚えてなくてもその気持ちになったら言葉は自然と出てくるような気がしますよね?
実際どうかは知りませんよ?ちゃんと覚えるに越したことはないし🙄

でもそのやり取りを自分の中で明確につくることが出来れば台本を覚えるのもそんなに難しくないのかもしれません。
ちなみに愛してDISTANCEは去年の自分が嘘のように台本が入りませんでした。あれれ〜?おっかしいぞ〜??
……力不足ですね。精進します🙇‍♂️

そしてこの「起こり」
自分のセリフを覚えるためだけじゃありません。ほかの役者にこのセリフを言わせるために自分はどう立ち回ればいいのか、なんて使い方も出来ちゃいますよね。
相手が自分にとっての起こりであるように、自分もまた誰かにとっての起こりであるのだと……

もう何が何だか自分でも分かりませんが、とにかくこの「起こり」の感覚を掴めたことは自分にとって大きな収穫となりました。

偉そうに長々と講釈を垂れましたが、まだまだこれからも色々なことを吸収してさらに成長していきたいです。
色んな経験させてください。皆さんどうかよろしくお願いいたします。

それではまた👋

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