きれいごとを言いたい自分のために


自分の感受性を高めるほど、感情が乱高下しやすくなるのを知っている。

自死しか選べなかった人がいる。
感情を隠して命だけどうにか生かしてる人がいる。
口ぐせが「大丈夫」の人がいる。


お腹がすいているのも頭が痛いのも外側から見えない。
そうなると、外側にいる私たちが感受性の出力を上げて察知する力を磨かないと気づけない。気づけないという無関心の暴力を日々たんたんとふるっている。


前はニュースを観るたびにひどく落ち込んでいた。
小さい子どもの生前の顔、
ほほえむ年配男性の生前の顔、
ピースサインの生前の女性、
爆弾で愛する人を吹き飛ばされて泣く男性、
とおくの誰かの悲しみや喪失を知るたびに、
助けられない自分の非力に勝手に落ち込んで動けないでいた。


感情が落ちる回数があまり多いと、浮上するたびに心のカロリーを使うので、苦しくなり、一周回って一時期は無関心・無感情になった。
不条理な事件事故にショックを受けるのに疲れて心をOFFにしたら、感情が凪いでラクになった。そのかわり表情も一緒に消えた。
たぶんあの頃の私も「大丈夫」が口ぐせだった。

そんな私は、周囲の人たちや社会の制度に助けられてばかりだった。
バスの運転手さんや、カフェの店員さんや、知らない優しい人たち。
助けられるばかりだった。今もよく助けてもらう。

今は自分の軌道をさらに何周かめぐって、「誰かを助けたい」と思っている。


「誰かを助けたい私」は、「誰かに助けてほしい私」コインの裏表だとうすうす気づいている。
わかっていて動く。
無感動も無表情もいまはもう嫌だと、内側で誰かが言っている。


最近は、朝の天気予報くらいしかテレビを観なくなった。
子どもがニュースを観て怖がる事情もあるが、なによりも自分の「影響の輪」の外で起きた悲しい出来事に今日一日の心を持っていかれないようにするためだ。
そして私が「影響を与えられうる輪」の内に集中するためだ。


ニュースを観てどこかの誰かを助けられなかった自分の非力に落ち込んで動けなくなる「ただ感じやすい人」な私のままでは、現実を変えられそうにない。

誰かを助けたいなら、助けられる自分にならないと。
足首の鉄球オモリみたいな「ねばべき」ではない、もっと静かな感覚だ。

きれいごとを言うには胆力がいる。
きれいごとを拡げるには影響力がいる。
きれいごとを続けるには経済力がいる。
きれいごとを実行するには愛がいる。


自分の感受性を高めるほど、感情が乱高下しやすくなるのを知っている。
傷つきやすい感受性を支えるのが胆力と影響力と経済力と愛だ。私の場合。
それらをおのおの鍛えることで、傷つきやすい心のまま感受性の肺活量を上げていける。

肺活量を上げタフになりたい理由は、誰かを助ける側になりたいから。


昨日よりも遠く広く届く影響力、経済力、胆力を伸ばす実践はオンラインでもできるし、帰りのバスで居合わせた知らない人にもできる。
一日分の愛は出し惜しみしないで、なるだけ使い果たして眠る。
誰かを助けようと動くとき、実はもうひとり「きれいごとを言いたい自分」も救っている。

落ち込んで動けなくなる自分では「助けられる側」のまま。






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