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サレンダー、降参、個のレベルの敗者という感覚

心の奥にある、この感覚。
言葉にすると「私は何も為さなかった、為せなかった」という究極の敗北感。

敗北感なのだけど、やれると思っていたことが一切なせてなかったという事実、この敗者の感覚は恩寵なのだ。

私が知覚しているものはすべて過去で、過去のシュミレーションだったという感覚も強くなっている。

これが意味するのは、やはり一切の選択肢もコントロールも調整も不可能だということ。脚本はすでに書かれていて演技もすべて終わっていて撮影もすべて終わっている、映画はすでに完成していた。
それが人生。それが世界。

自分独自の世界や人生があると信じているところからは、何一つうまくこなせない。当事者が気がついていようがいまいが関係なく、すべては無駄に終わっていく。それが世界だった。

個のレベル、自我のレベルでは、まさしく敗北感なのだ。
そして、夢見る者も聖霊を完全に選んだレベルでなければ、やはり敗北感がある。だって、夢見る者そのものが小さな狂った考えで、分離の願望の起源なわけだから。

だからこそ、実在なるもの、真実なるものにのみ没頭して、そこに自分のすべてを捧げるということが「私」にできる最大限のことだったのだ。

だから、かつてこの世界・人生に期待をしていた「私」はすべてを失うのだ。パラドックスだけど、その時、完全無欠の真の自己の実在性が心の中で復活するのだ。

だから、この敗者感覚、惨敗感覚、敗北感を私は嫌うことはない。
むしろそれを歓迎し、たった一度も何も為せなかった事実に感謝したい。
それだけが恩寵だったのだから。



私にとっては、もはや、やれてる感じ、勝てる感じ、いけてる感じの時は自分のすべてを神に任せるというサレンダーをする気が起きない。全く起きないし、悪夢・地獄にしがみつくままだろう。

自分には何も為しえない。という敗者感覚の中なら、実在なる神を讃え、神に自分を与える気になれる。

それは、分離は決して起こらなかったなら、私は何も為せなかった、神の上に立てたことがなかった。

ゆえに自分は無罪で無垢で、ゆえに神という実在に安心して、身心脱落して本当に本当にサレンダーできるのだ。

それが安心立命をもたらす。神の平安をもたらす。神の子の自覚の復活をもたらすのだった。

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