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私は私の解釈で生きる

私が気に入ってよく聴いていた、Astrid Sの”It’s Ok If You Forget Me”という曲がある。
澄んだ女性ボーカルが魅力的なAstrid Sの中でもいわゆる流行のポップ的なサウンドではなく、ゆったりとしたビートのこの曲は聴いていてとても心地よい。私が普段音楽を聴くのに利用しているSpotifyによると、どうやら2022年で1番聴いていた曲らしく、1年で131回も再生していたらしい。相当好きである。
ただ、曲のタイトルは「あなたが私のことを忘れたとしても大丈夫」と、歌詞の内容を知らなくても失恋の曲であることはなんとなくわかるだろう。

ある時、この曲をパソコンで流そうとしてYouTubeで検索をかけたところ、上位の検索結果に日本語訳を記載した動画が出てきた。耳で聴きたかっただけなので特に何も考えずに再生してぼんやり眺めていたら、途中で「おや?」と思った。画面に映し出される日本語訳の歌詞が、自分が思っていた訳と違ったからだ。
そしてYouTubeや検索エンジンを使ってこの曲の和訳を調べると、原曲の意味と真逆のものが複数見つかった。その中でも、特に訳が分かれていたのはサビの最後の部分だった。

But I'll tell you what the worst is,
It's the way it doesn't hurt when I wish it did

これは「でも1番最悪なのは、あってほしかった痛みがないってこと」という意味であると思う。
この曲では3年間一緒に暮らした恋人と別れて関係は跡形もなく消えてしまったけど、悲しくもなければ寂しくもないし、私のことを忘れてくれても構わない、という曲なのだ。

ところが日本語訳の中には、この最後の一文を「悲しいのは、この痛みを認められないこと」「傷つかないために、痛みを感じないと思おうとしていること」と訳しているものがあった。
そこに痛みがあるのかないのかと言う点において、真逆の解釈をしていたのだ。
英語から日本語への文字面だけの訳としては誤りなのだが、必ずしも間違っているとは言えないのではないかと思う。

この歌詞の字面だけ見ると、確かにあってほしかった痛みがなかった、のだろうが、これは何人かが訳していたように、もしかしたら本当はつらいのに気丈に振る舞っているだけなのかもしれない。この歌詞の裏にある心情は、想像し解釈することができるからである。
この曲のミュージックビデオを見ると、視聴者が歌詞をそれぞれの人生と重ね合わせたり、考察をしたりして、その内容をコメント欄で共有しているので、もし興味があれば覗いてみてほしい。最初に歌詞だけ見て、次に曲だけ聴いて、その後に映像と共に聴いて、最後にみんなの解釈を読みながら聴くと、どんどん印象が変わっていくかもしれない。

実際に私は、初めてSpotifyでこの曲を聴いた時は「あなたと一緒にいられて本当に幸せだったのに、それを失ってしまったのに悲しくないという事実」への困惑や虚しさを歌っているのかと思ったが、公式のミュージックビデオを見ると全く悲壮感がなく終始明るい画が続くので、その印象も伴って何回も聴くうちに、相手に出会って一緒に過ごせた喜びが別れの痛みを上回っている気持ちを歌っているのだというふうに解釈が変わった。

痛みがないのは、今まで彼との関係の中で痛みを感じ尽くしたからなのかもしれない。関係性が悪く、本当は離れた方がいい相手だったからかもしれない。別れるのがつらいと思わないほど、相手の将来を大切に思っているからかもしれない。痛みがないと口では言うが、本当は辛さから目を逸らしているのかもしれない。
みんなそれぞれがこの曲を自分なりに解釈して、それぞれ何か思いを持って聴いている。

ちなみに、ChatGPTはこのように解釈している。

解釈とは月の満ち欠けみたいだ。
そこにあるのは丸いだけの月なのに、いろんな角度から見ることでそれは満月になったり半月になったりする。

人からの善意を悪意と解釈する人、黒い猫を不吉な予兆と解釈する人、人生における試練をチャンスと解釈する人。
見える、聞こえるもの、そのものから解釈することもあれば、日本人が得意とされ日常的に行う「行間を読む」ことで見えない部分を解釈することもある。

例えば、私のnoteといった発信、発言に対して共感したり、意見を伝えてくれたりする人がいてありがたいが、その人たちは、私が発した言葉の意味をすべて、私の意図通りに受け取っているわけではないと思う。
それぞれ異なった経験やバックグラウンドや知識を持っているから、自分の持っているものの中から自分なりの解釈を加えて、落とし込んで、咀嚼して、それに共感したり反発したりする。
もちろんこれはネガティブな意味で言っているわけではなく、みんな当たり前にそうしている。
何事も一度、自分の意識を介してしか認識できないので、そこには解釈がつきものだ。

なので、人は自身の解釈から逃れることはできない。どんなに実態とかけ離れていたとしても、その実態と自分の解釈が異なればそれは自分の中で本当になってしまう。
でも、裏を返せば良くも悪くも、いくらでも自分の解釈はつくることができるし、その中で生きていくことができる。

だからこそ柔軟に多角的に物事を捉えられる人でありたいし、その中で適切な解釈をできる人でありたい。
そして、自分以外の人々についても、それぞれの解釈があることを忘れないようにしたい、とも思う。

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