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梅雨、ヨガ、正しくなれない

今日のヨガのレッスンでは
「判断に迷ったとき、わたしにとっての〝正しさ〟をどこからもってくるのか」という様なことについての話がなされた。

ここ最近のレッスンの中で、自分の核とはなにか、ということが幾度かテーマにあげられていた。

無数の答えをもつ問いに対して、
客観的な考え方(あいまいな定義ですがたぶん大多数の人たちの考えのこと)と、それと対立する自分の思いとの狭間で
その答えをどう選択するのか。


そこでひとつ先生がおっしゃった考え。

今のわたしのベストでいたときに現れたものを、わたしの仮の正解としてあげていいのではないか


ベスト、ということ。他の誰でもなく、わたしのベスト。

どれだけ絶対的に正しい、と思えるものを探し求めても、一度答えを出せばその正しさは必ず揺らぐ。

だから「いま私自身が持っている知識をすべて使って導いた答えは、〝客観的な正しさ〟がどんなものであっても、それが私の中のベストとなる。すなわち、これ以上のものはもう持ち得ない、というところまで来たときに、今の私にとっての正しさ(のようなもの)が立ち現れる」、ということ。

なるほど。けど私の知識自体がそもそも信用できない、だからそのベストが何かわからないでしょ。
そもそも正しさを求めることなど不毛だ、だから正しいことなどなにもないものとして生きていってやれ!
と。

そうしたら、
何も決められずに生きている。

選んでるつもりで生きてきた、けど、ほんとに自分が選んだのか疑問に思える。
決定論の問題みたいになってきた。

やはり正しいことなどない、と考えている時点で、正しさからは逃げられないのだ。

ではなにが正しさなのか。

なに〝が〟、正しさ。

が。

?分からなくなった。

やめた、寝よ。


ウソです。
たぶんキーワードは「ベスト」(そのまんまですね)。
続く。


帰りにツタヤで吉田兼好の徒然草(現代語訳)を買いました。

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