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【早起きできたら日記10】 「育んだ」という6年目の感覚
7:30起床。もはや早起きでもないが、これはあくまで「子供より早起きできた自分を祝福する」日記。休日の朝にしてみたら早めの起床時間だ。今週は娘の卒園式、新体操発表会もあり、なんだかどっと疲れた。私が何かするわけでもないのに、どこか緊張感があったのかもしれない。コロナ禍で私一人の参加。夫はYoutube配信の鑑賞である。長男の時は式の最中、自然と涙があふれたが、今回は大変微笑ましく眺めていた。緊張した面持ちで、うやうやしく卒園証書を受け取る姿が可愛かった。
以前もこの日記に書いたが、娘はなかなか気性が激しく、たまに披露される理不尽さは我が家で「ジャイアニズム」と呼ばれる。下の娘ってこんな感じなのか知らないが、まあ奔放でおてんばである。だからと言って可愛くないかと言えば違い、逆に可愛いのだった。心の底からイラッとさせられることも多いが、夫も、長男もとても可愛がっている。「のんちゃんは可愛い、わがままだけど。」これも我が家の決まり文句だ。親のコントロールが及ばぬ奔放さからか(そもそもコントロールしようというのが間違いなのは重々承知だが)、二人目で私の「目」が分散されているからなのか、とにかく「育てた」というよりは「育った」感が強い。一生懸命手をかけた、というよりは、「大変だったが一生懸命向き合った」=ただ「愛した」という実感だった。
「育てる」という言葉は、子供が意思を持って動き始めてから、自分の中で違和感があった。娘に対してはさらにそれが強い。私は果たして「育てた」のだろうか?そんな気持ちを抱えていたら、ネットでこんなのを見つけた
"育てる"と”育む”の違い
「育てる」・・・大きく成長するように、面倒を見ること
「育む」・・・愛情を持って大切に面倒を見ること
こちらのタイミングで面倒を見ようとすると突っぱねられる。呼ばれるのは「愛情」が必要な時。ああ、なんだか納得。娘はまさにこれだった。私が成長させたのではなく、子どもは勝手に成長した。ただ愛情なら、かけたと思う。「育む」ことなら、少しはできたのかもしれない。娘は先日6歳になった。4月からは小学生。楽しく通ってくれればいいなあと思う。我が子に対し願いはたくさんあるが、とりあえず母としては、愛情だけ持って見守ることにする。
娘の卒園式。ぶかぶかだった制服は丈が短くなり、以前はスカートでひざが隠れていた脚もスラリと伸びた。笑っても泣いても、何があっても子どもは日々成長する。「育てた」というより「愛した」という感覚の方が強いと思った、節目の日。
— しのぶ|物語が人を強くする (@shino_bunko) March 17, 2022
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