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美の来歴㊼  眼差しの孤独、風景の不安  柴崎信三

エドワード・ホッパーが描いた〈大衆社会〉の米国

 ニューヨークの下町あたりのダイナー、つまり深夜営業のレストランのカウンターが舞台のようである。暗いガラス窓を背にしてソフト帽をかぶった背広の男と紅いドレスを着た茶色の髪の女が、コーヒーカップを前にして座っている。向かいのカウンターの端にやはり帽子をかぶった男が一人いるだけで、他に客はいない。大きなコーヒー・サーバーを置いた卓の内側では白い給仕服の男が一人、立ち働いている。
 夜は更けて、向かいのビルはすでに明かりを落として闇の中に沈んでいる。客席の男女がどのような関係で、どんな会話をしているのか。向かいの男はどんな素性なのか。どのような季節なのか。すべてさだかではないが、静まった店の中には道路を走り抜ける車のエンジン音が遠くから幽かに聞こえてくるかのようである。


◆エドワード・ホッパー 『ナイトホークス(夜鷹)』
(1942年、油彩・カンバス、シカゴ美術館蔵)


 「夜更かし」を意味する『ナイトホークス』は米国の画家、エドワード・ホッパー(*1)が第二次大戦下の1942年に描いた代表作であり、いまや米国の絵画史なかでは古典的なマスターピース(名作)と呼んで差し支えない。

(*1)エドワード・ホッパー(1882-1967) 20世紀米国の画家。ニューヨーク美術学校に学び、米国の大都市や郊外に生きる人々や風景を通して都市文明の孤独と翳りを造形した。ヘミングウェイの文学やヒッチコックの映画とのかかわりも深い。

 ローレンス・ブロックが編者となって、米国の17人の現代作家がホッパー作品をモチーフにした短編小説集『短編画廊』のなかでは、現代のハードボイルド文学の第一人者のマイクル・コナリーがホッパーのこの作品を冒頭に置いて『夜鷹』を書いている。

〈「絵のなかの誰と自分が同じだと思います?」彼女は訊いた。「一人きりの男性、店にいるのが全然楽しそうじゃないカップル、それからカウンターの内側で働いている男性。あなたはそのなかのだれ?」
ボッシュは彼女から絵の方へ視線を移した〉(古澤嘉通訳)

 真冬のシカゴ美術館。ロサンゼルス市警の刑事を退職して今は私立探偵という身分のハリー・ボッシュは、ホッパーの『ナイトホークス』の画面の前で監視対象者の若い女から突然、こう問いかけられる。そして、女は「私は一人きりでいる男ね」といい、ハリーは絵を見つめ直して「ああ、俺もそうだな」と応じる。中年の探偵と富豪の父親の依頼で監視の対象となっている行方不明の娘が、絵のなかに一瞬だけ同じ気分を認めあうのである。

 暗黒小説の旗手のスティ-ヴン・キングが書いた『音楽室』がモチーフとしているのは。ホッパーの『ニューヨークの部屋』(1932年)という作品である。
   自宅の《音楽室》と呼んでいる部屋で、夫婦がテーブルをはさんで座っている。ベストにネクタイ姿の夫はソファに浅くかけて新聞を読んでおり、その向かい側で同じ方向を向いた妻はピアノの鍵盤に指を触れている。二人の視線は交わることがない。

〈かつてふたりが結婚したころ、エンダビー商会はたしかに存在していた。しかし二年前、この恐慌が―ジャーナル・アメリカン紙が”大恐慌”と呼ぶようになった不況が―エンダビー商会の息の根をとめた。いまふたりは、新しい事業をすすめていた〉(白石朗訳)

 

◆エドワード・ホッパー『ニューヨークの部屋』
(1932年、油彩・カンバス、ネブラスカ・リンカーン大学 シェルドン美術館蔵)

 ニューヨーク三番街、ブラウンストーン作りの高級アパートメントの三階は寝静まってめったに物音は聞こえないが、さきほど夫妻の背後のクローゼットから「どすん」という音が響いた。そのなかで、拉致された取引先の男が小切手にサインさせられたあと、拘束されたまま空腹にのたうつ音である。恐慌下でエンダビー夫妻がはじめた「新しい事業」の賓客はこれで7人目である。命が尽きた客人を運び出してニュージャージーの広大な松林に運ぶため、用意した小型トラックはガソリンを満たして窓の下の駐車場に待機している。

(そこでエンダビー夫人はピアノ椅子から楽譜をと取りだし、《きっと私は変わるはず》を弾いた。次に《いまは踊りたい気分》と《今宵の君は》をつづけて弾いた。エンダビー氏は拍手をして、最後の曲のアンコールをせがんだ〉

                  *

 エドワード・ホッパーが生きたのは20世紀の米国、それもニューヨークやシカゴやロサンゼルスなど、石油と産業資本の巨大化によって消費文明が人々を飲み込んでゆく、大都市の米国が形作られていった時代である。ニューヨークで生まれたホッパーは当初のイラストレーションから油彩画へ転じて、大都市の街角やオフィス、ホテル、アパートメントの一室で人々が暮らす日常の一場面を〈小さな物語〉に見立てて描くようになった。
 多くの画面に共通するのは、大都会の室内を取り巻く冷え冷えとした翳りと強い外光との鮮烈な対比、そしてまなざしを交えない登場人物たちの孤独なたたずまいである。そこには1930年代の大恐慌と不況の時代に生きる都市の人々の不安、さらには戦後の冷戦期にかけて米国人がかかえる緊張した日常が作品の〈空気〉となって映し出されている。
 同時代の無名の米国人の一場面を描いたこれらの作品を、英国へ渡った作家のヘンリー・ジェームズは〈アメリカン・シーン〉と呼んで、20世紀の米国絵画を特徴づける写実絵画の大きな流れに位置付けた。ベン・シャーンや日系人画家の国吉康雄らも含めた、この時代の〈アメリカン・シーン〉の画家たちが画布に描くのは、伝統的な共同体から切り離されて大都市に孤立して生きる人々であり、大量消費社会のもとでマスメディアの情報のほかに拠り所を失った〈大衆社会〉の米国の鼓動である。
 もっともホッパー自身は、戦後の1960年代にこの〈アメリカン・シーン〉の時代を振り返った折、その枠組みに自身がひとくくりにされることへの反発を強く示した。

〈とても腹が立つのは「アメリカン・シーン」の件だ。ベントン、カリー、そして中西部の画家たちがやったアメリカン・シーンというものを、私は決して試みたことがない。アメリカン・シーンの画家たちはアメリカを風刺したのだと思う。だが、私の対象はいつも自分自身だった。フランスの画家が「フランスの情景」について語ることはなかったし、イングランドの画家が「イングランドの情景」について語ることもなかった‥‥アメリカの特性というものは画家自身の中に存在する。つまり、それを求めて努力することはないのだ〉(W・シュミート『エドワード・ホッパー アメリカの肖像』光山清子訳)

 「わたしはアメリカを描いたのではない。わたしが描いてきたのは同時代の〈私〉なのだ」
 ホッパーはそう言いたいのである。

 宗主国であった英国はもちろん、欧州や世界各地から新天地を目指してやってきた人々が造った移民国家の米国は、独立からたかだか一世紀余りで世界一の経済大国に発展した。しかし、この国の芸術家たちがその内部に欧州の歴史と伝統に対する根強い文化的なコンプレックスを育ててきたことは、あらためるまでもない。
 それは若い日のホッパーが辿ったあゆみを見れば明らかだろう。
 ニューヨーク美術学校で教えを受けたロバート・ヘンライはもともとフランスのマネやドガの影響を受けた写実画家であったし、ホッパー自身も1906年から1910年にかけて三度にわたって、パリを中心に欧州各地を美術遍歴している。イラストレーターから転じて不遇をかこったこの頃の作品は、印象派の影響が強く漂うパリの街角や風景などを描いたものが多く、当然そうした作風は「二番煎じ」として高い評価を得ることはなかった。
 ヘンリー・ジェームズが「大聖堂もなく、大修道院もなく、偉大な大学もパブリック・スクールもない。文学もなく、小説もなく、美術館もなく、絵画もない」と嘆いた米国は、しかしそれからのち〈アメリカン・シーン〉という固有の文化の土壌を広げていった。

〈この国において我々は文化としての芸術を必要としていない。すなわち洗練された優雅なパフォーマンスとしての芸術や、詩的なもののための芸術は必要ないのだ。我々が必要としているのは、今日の人々の精神を表現する芸術だ〉(江崎聡子訳)

 ヘンライが1909年に述べたこのことばはすなわち、米国の大衆社会という乾いた土壌に花開いた〈アメリカン・シーン〉、同時代の米国人の〈精神〉の独立宣言である。

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〈「偉大な美術作品は、アーティストの内面生活が外側へと表現されたものであり、そして内面生活とは彼の個人的な世界に対する見方からでてくる。熟練した技術の工夫がどれだけあっても想像力の本質的要素に代わることはできない。抽象画の弱点の一つは、知性による工夫に過ぎないものを想像による概念作用と取り換えようと試みたことである。人間の内面生活は幅広い多様な領域であり、それ自体は色彩や形態やデザインを作り出すことになんら関わろうとしない」〉(青木保『アーノルド・ホッパー 静寂と距離』)

 ホッパーがこう書いたのは戦後の1953年である。
 画家の内面生活を作品の造形につなげてカンバスの上に〈小さな物語〉を構築してゆく上で、彼は同時代の文学や映像作品に多くのモチーフの手がかりを求めた。反対に彼の絵画が映像作品にモチーフを提供するという、相互作用もそこに探ることができる。
 アーネスト・ヘミングウェイの短編小説『殺し屋』に対してホッパーは1927年3月、雑誌『スクリブナー』の編集者にあてた手紙でほぼ手放しの賛辞を送った。

◆エドワード・ホッパー(1882-1967)


 「アメリカ文学の大部分が浸かっているサッカリンのような甘ったるい感傷を我慢して読んできた後では、アメリカの雑誌にこのような本物の作品を見つけたことにすがすがしい思いがする」と。
 『殺し屋』の冒頭の書き出しをたどってみよう。

〈ヘンリーの店のドアが開き、ふたりの男が入ってきた。
ふたりはカウンターにすわった。
「何にします?」ジョージが尋ねた。
「さあな」ひとりが言った。「おまえは何が食いたいんだ、アル?
「さあな」アルと呼ばれた男が答えた。「何が食いたいかわからねえ」
外が暗くなり始めていた。〉(西崎憲訳)

 ダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーらによるハードボイルド小説の原型ともいわれるヘミングウェイの文体は、人物の心理や情景の説明を極力排除し、外形的な行動だけを描写することで、人物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。
 ここではレストランの常客の一人を狙ってやってきた「殺し屋」の二人組の素性が、その台詞や振る舞いなど外形だけの描写によって示される。ホッパーの絵画のなかの登場人物の多くが喜怒哀楽の表情を抑制して、一つの場面を支えるマヌカンのようなたたずまいを示していることと、それはどこかで通底する描写であろう。

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 これとは逆に、映像の側からホッパーの作品へのアプローチとして、しばしば言及されるのは孤独な人間のなかの異常心理を通して日常生活の闇を浮かび上がらせた、アルフレッド・ヒッチコック(*2)の映画との親近性である。

(*2)アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980) 英国生まれ。米国へ渡り、現代人に隠された異常心理や恐怖を通したサスペンスやスリラー映画の監督作品で名声を確立した。作品に『裏窓』『北北西に進路をとれ』『サイコ』など。

 

◆アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)

 『夜の窓』(1928年)は、夜のアパートメントの二階の部屋で暮らすピンクの下着姿の女を窓越しに描いている。外の深い闇を切り裂くように、室内からは皓々とした電光が溢れ出し、あけ放たれた窓辺ではレースのカーテンが風に揺れている。
 この画面を支配しているのは、向かい側の建物から部屋の女の動きを覗いているはずの男の視線である。窓越しに映る室内の半裸の女は後ろ向きで、体をこちらにのぞかせている。ヒッチコックが『裏窓』(1954年)で描いた「覗き見の劇場」はこの絵から生まれたのかもしれない。

◆エドワード・ホッパー『夜の窓』
(1928年、油彩・カンバス、ニューヨーク近代美術館蔵)

 『サイコ』(1960年)はヒッチコックの映画の中でも、夢と現実の倒錯した世界や人間の異常心理を通して現代人の日常に潜む闇を探った名作といわれる。アンソニー・パーキンスが演じる主人公が住む、郊外のさびれたモーテルが不気味な物語の舞台である。

 ヒッチコックがそのイメージを求めたのは、ホッパーの初期作品『線路わきの家』(1925年)である。鉄道線路を抱くようにして建つ三階の館に人の気配はなく、マンサード風の屋根と半円の装飾をほどこした窓だけが並んでいる。米国で17世紀末に流行した重厚な建築様式の孤立した存在感が『サイコ』の怪しげな日常性と同期して、不気味さはさらに高まる。
 
 ホッパーの絵画が現代の映像作家から根強い共感を集めるのはなぜか。
『パリ・テキサス』や『ベルリン 天使の詩』で知られるドイツのヴィム・ヴェンダーズはホッパーの『海辺の部屋』(1951年)をあげて、強い日差しが射し込む誰も人のいない部屋が観者に働きかける〈物語〉の力をたたえた。

◆エドワード・ホッパー『線路わきの家』
(1925年、油彩・カンバス、ニューヨーク近代美術館蔵)

〈誰かが開いたドア、または窓から海に飛び込んだのか、波はうねり上がって直接戸口に押し寄せていて、まるでこの家が崖の上に立つか海に立つ支柱か何かの上に建てられているかのようだ。そして、次の瞬間には海のかなたに小舟が現れて、無限に深い海に落ちた彼か彼女を救い上げようとするかもしれないが、小舟はあまりにも遠い。この絵でもすばらしく優しい午後の陽光が、人のいない空っぽの部屋に降り注いでいるのだが、その美しい光でも外部の自然の敵意を忘れさせることはできない〉(青木保 前掲書)

 ホッパーが描いた米国には、たとえそれが初夏の陽光の溢れるさわやかな海辺の部屋の風景であっても、どこかに〈不穏〉の気配が漂っている。それはおそらく、20世紀の〈米国〉という社会が内部にはぐくんだ、逃れがたい文明の〈空気〉であったに違いない。


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