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三島由紀夫という迷宮⑪ エピローグ 〈物語〉へ   柴崎信三

〈英雄〉になりたかった人⓫


 三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁の日から半世紀が近づいた秋、その現場となった東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部の旧庁舎、現在は敷地内を移転して再構築した「市ヶ谷記念館」の旧総監室を訪れる機会があった。
 「あの日」に駆け出しの記者としてそのバルコニーの前にたどり着いた時、すでに壇上に三島たちの姿はなく、集まった自衛官らはその場から三々五々散って、蹶起の主張を書き連ねた垂れ幕が晩秋の皓々とした光を浴びていた。そのころ、奥の総監室ではすべての事態が終わっていたのであろう。
 記念館は戦前の陸軍士官学校本部であり、戦後東京裁判の法廷となった大講堂などとともに残された総監室は、かつての陸軍大臣室であった。
 敷地自体が六本木から防衛省本省が移転して、構内はまったく様相を一変しているが、正門からなだらかな坂道を登ったところの記念館は、昔日の総監部の面影をとどめている。正面玄関からあがった二階の総監室の広さは五〇平方㍍に満たない。総監の執務机とその前の接客用の応接セットを除けば、それほどの余分な広さはない。この小さな空間で総監の監禁が行なわれ、救出のために封鎖された扉を蹴破って入室しようとした佐官らが、三島と「楯の会」のメンバーに次々と切り付けられて重傷を負った。
 そして正午過ぎ、すぐ南面にあるバルコニーに降り立った三島は呼集された自衛官たちを前にして最後の演説を行い、「天皇陛下万歳」を唱えて総監室に舞い戻ると、その床に正座して割腹自決した。横に立った森田必勝が介錯した。すべての〈儀式〉の舞台となった総監室には、いまも前室につながる扉に三島が救出の武官との攻防の際に日本刀で作った刀傷が遺されている。それが半世紀を隔てたこの部屋の、深々とした静寂を切り裂いているかのようである。

三島が演説した「市谷記念館」の車寄せ屋上のバルコニ
事件の現場となった旧東部方面総監室
◆残されている三島の刀傷


 「楯の会」の制服に身を固めた三島が、四人の若者を従えて益田兼利総監に面会したのは午前十一時すぎである。明るいカーキ色の服地の左右に六個ずつのボタンで飾った、見慣れない派手な制服姿の訪問に益田はいささか驚くが、以前からの約束であったので「よくいらっしゃいました」と迎えた。
 着席した三島はそこで、手にしてきた室町末期の作の佩刀を披露する。
 「そんなものを持ち歩いて、警察に咎められませんか」
 益田がそのように三島にただしたのは、職務と場所から当然である。
 「これは美術品だから大丈夫です」
 三島がそう説明して刃紋を磨くために、後方に控えた小賀正義に「ハンカチ」と命じたのが合図で、行動が起こされた。椅子の益田はそのまま後ろ手で両手首を縛られた。「三島さん、冗談はよしなさい」といったその口も猿轡で拘束された。「楯の会」の隊員たちは内側から施錠した出入口に室内の家具を動かしてバリケードを作り、そこへ救出の自衛官らが体当たりして突入を試みる。扉の一部が壊れてなだれ込んだ幕僚たちに、日本刀を構えた三島が立ちはだかって「出ろ!出ろ!」と咆哮する。
 刀が振り下ろされて、深い傷を負う人が相次いだ。 修羅場と呼ぶのがふさわしい。三島たちが扉の隙間から投げ込んだ「要求書」を総監部が受け入れて、バルコニー下の広場に在庁する自衛官が呼集される一方、非常事態の通報で警察が出動する。正午過ぎ、三島は総監室からバルコニーに降り立って集まった自衛官たちを前に演説を始めた‥‥。

 記念館の総監室の下にある車寄せの屋上にバルコニーが広がっている。
 彼方に鬱蒼とした皇居の森を見晴るかすことができた。
 これはどこかで見たことのある眺めではないか。 

 〈鏡子の家は高台の崖に懸っているので、門から入った正面の庭ごしの眺めはひろい。眼下には信濃町駅を出入りする国電の動きがみえ、かなたには高い明治記念館の森と、そのむかうの大宮御所の森とが、重複して空を切っている〉

 その十年余り前、三島が〈分身〉である四人の男を通して〈戦後〉という同時代をまるごと描こうと試みて、壮大な失敗作と評された長編小説『鏡子の家』の主人公が棲む家は、この市ヶ谷の台地に連なる高台の坂道の途中に建てられた西洋館である。男たちが集まるこの家にも二階にバルコニーがあり、主人公の鏡子は神宮の森が映す美しい夕景に「世界の破滅」を予感している―。 

 総監室の下の広場に集まって来た自衛官たちが、あちこちから演説に野次をとばす。上空を報道機関などのヘリコプターが旋回して轟音を響かせている。総監室からバルコニーを眺めると、それは観客席を真下に見下ろして、あたかも画然と仕切られた〈舞台〉である。三島とその私兵部隊による占拠、自衛隊幹部を人質とした〈蹶起〉の呼びかけと挫折、割腹自決という、一時間余りの経過は一見、その「檄文」が伝える通りの政治的な目的を掲げたクーデターの失敗にみえる。しかし、はたしてそうだったのだろうか。
 あらかじめ三島と森田の割腹による自裁という到着点から逆算したような、分刻みの周到な計画は、三島の巧みな戯曲を思わせる。クライマックスはこのバルコニーという〈舞台〉の演説であり、直後の二人の死でそれは完結した。象徴天皇と戦後日本の伝統文化、戦力を否定された自衛隊と憲法など、〈政治〉への憤りを三島はそこで滔々と論じたが、つまるところそれは、彼がこの舞台で演じる〈聖別された死)の賑やかな書割というべきものではなかったか。 

〈私の夢想の果てにあるものは、つねに極端な危機と破局であり、幸福を夢みたことは一度もなかった。私にもっともふさわしい日常生活は日々の世界破滅であり、私がもっとも生きにくく感じ、非日常的に感じるものこそ平和であった〉

  一九六八(昭和四三)年に書いた『太陽と鉄』で、三島はこのように告白している。ボディービルやボクシングで肉体を鍛錬して〈戦後〉と和解し、復興から成長へ向かう時代を鮮やかに切り取った作品は次々とベストセラーとなった。舞台や映画、写真などでメディアの寵児となり、ノーベル文学賞の有力候補にも推された。そのような〈戦後〉の一切を彼は葬って、甘美な破滅と崩壊を待ち望んでいるというのである。ここには〈戦後〉という迷宮の膨張した気圧に耐えきれずに「劇中の人」としてバルコニーに立つ一人の作家がいる。

その時、どこかで十五歳の時のあの詩の畳句リフレインが響いていたのではないか。

 〈わたくしは夕な夕な
  窓に立ち椿事を待った、
  凶変のだう悪な砂塵が
  夜の虹のやうに街並の
  むかうからおしよせてくるのを。       (『凶ごと』)〉                    

              *

  三島由紀夫の〈蹶起〉が政治的にはほとんど「無効」であったことは、ほどなくあきらかになった。司馬遼太郎は三島由紀夫の異形の死の直後の論評でそこに政治的な意味を認めず、ひたすら文学者の自死の系列にそれを置いた。感情移入をほとんど退けた冷静な論述に司馬を導いたのは、「陽明学」という幕末に膾炙した独特の行動哲学の影響とともに、三島がその来歴のなかにはぐくんで破裂した「ロマン主義」の奔流に対して、その歯止めのない氾濫を危ぶむ同世代の歴史作家の醒めたまなざしがあったからである。

  ナチス時代のドイツを生きた政治学者のカール・シュミットは『政治的ロマン主義』のなかで、〈虚構〉と〈現実〉が境界を失い、反転して政治を動かしてゆくこの近代の浪漫的な精神のメカニズムを、つぎのように説いた。 

〈つまり、国家は芸術作品であり、歴史的=政治的現実における国家はロマン的主体の芸術作品を生産する創造的作業のためのoccasio、詩および小説を生むための、あるいはまた単なるロマン的気分を生むための機因だということである。ノヴァーリスが国家は巨大人間マクロアントロポスであるといったところで、これは数千年前から表明されてきた思想である〉(大久保和郎訳)

  〈彼ら〉が語る実在はいつもほかの実在と対立しており、「真なるもの」「純正なるもの」は現実的なるもの現在的なるものの拒絶を意味し、結局のところ「どこか他の所」、「いつか他の時」でしかなく、要するに「他者」にすぎない―。シュミットの定義する、政治的なロマン主義という精神のありかたを社会的な〈詩〉や〈狂〉の一つの類型とするならば、三島由紀夫は確かに同じ近代社会の浪漫的な幻影のなかで〈詩〉と〈狂〉を生きようとしたのである。

 三島が〈蹶起〉で生命を賭して再興を企てたのは、〈日本〉という祖国とその伝統であった。「浪漫者ロマンティーク」としての彼の行動様式を「耽美的パトリオティズム」と呼んだのは、同世代で深い信頼を寄せていた政治学者の橋川文三である。 

  〈「鐘楼のパトリオティズム」はそのシンボリカルな表現であるが、日本風にそれをいいなおせば、「産土神うぶすなかみのパトリオティズム」とでもいいうるものであろう。それは、山河の自然、風土の遺制と一体化したロマン主義的な感情であり、ドイツ語でいみじくも「郷土の痛み」(Heimweh)と呼ばれる奥深い人間の危機感に関わるものであった。保田(與重郎*引用者註)の愛唱する陶淵明の「帰去来之辞」にこめられた感情がそれであり、ノヴァーリスの「われらはつねに家へ帰る」の意味がそれであろう〉

  パトリオティズムは「祖国愛」や「郷土愛」と訳される。その由来する心情を、橋川は「祖国とは私たちが子供のころに夕暮れまで遊びほうけた路地であり、石油ランプの光に柔らかに照らし出された食卓のほとりのことであり、植民地渡来の品物を飾っていたお隣の店のショーウインドウのことである」という、ドイツの社会学者ロベルト・ミヘルスの言葉に語らせている。

 三島由紀夫は、日本人の歴史のつらなりのなかで〈祖国パトリ〉が呼び起こす美的な記憶を〈みやび〉と呼んだ。「幽玄」から「花」「わび」「さび」などに結晶した〈みやび〉の伝統を通して、詩から政治までをつなぐ究極の美の総覧者が〈天皇〉なのである。『文化防衛論』に繰り広げているのはそのことであり、一九七〇年十一月二十五日の〈蹶起〉はその延長上にあった。 

 〈今もなおわれわれは「菊と刀」をのこりなく内包する詩形としては、和歌以外のものを持たない。かつて物語が歌の詞書から発展して生まれたように、歌は日本文学の元素のごときものであり、爾余のジャンルはその敷衍であって、ひびきあう言語の影像の聯想作用にもとづく流動的構成は、今にいたる日本文学の、ほとんど無意識の普遍的手法をなしている〉

  戦時下の少年時代、中世にさかのぼる祖先たちの物語を纏綿とした擬古文で綴った『花ざかりの森』で早熟な才能を見出された三島が、学習院の恩師、清水文雄の推薦で初めて作品を掲載した『文藝文化』は、当時保田與重郎を中心に伝統への回帰を掲げて戦争翼賛文芸の一翼を担っていた『日本浪曼派』につらなる雑誌であった。保田は『万葉集の精神』などの著述のなかで、防人歌や相聞歌を通してもう一つの〈日本〉という仮想の民族共同体をよびおこした。

 〈生を日本の故国に享けた私は、その年少の日々の見聞と遊戯に、国の旧址を知り、歌枕を覚え、古社寺を聞いた。その山河草木は我らの子供心に大倭宮廷の英雄や詩人や美女の俤(おもかげ)を口承として暖かく教へたのである。それは私のなつかしい回想である〉(『戴冠詩人の御一人者』)

◆保田與重郎(1910-1981)文芸評論家。戦前に「日本浪曼派」を創刊し、
日本的な美意識を高唱した。「日本の橋」「後鳥羽院」などの著作がある。

 『日本浪曼派』は一九三〇年代、日本が総力戦体制へ向かうなかで起こった文芸運動で、古代へのあこがれと伝統への回帰を主張に掲げた。保田与重郎や亀井勝一郎、神保光太郎らを中心に伊東静雄、檀一雄、太宰治といった作家、詩人らも加わって、昭和十年代の日本が戦時体制に向かうなかで、国民のナショナリズムを喚起するという点でも一定の役割を果たした。十代の三島はこのころ、『日本浪曼派』の保田與重郎に心酔して、わざわざ奈良の自宅に面会に訪問したことを『私の遍歴時代』に記している。
 ギリシャの神々をうたうヘルダーリンの詩やカスパー・ダヴィッド・フリードリヒの神秘的な風景画にドイツの建国の歴史をたずねた「ドイツロマン派」を鏡にして、「日本浪漫派」は伝統のなかに〈祖国〉を掘り起こす「機因」を探った。その「日本への回帰」のつらなりのなかに、少年の三島由紀夫もいた。

              *

  加齢と、川端康成のノーベル文学賞受賞に伴う作家としての危機感、強い英雄願望と〈死〉の哲学の蠢動、〈日本〉の伝統への回帰と深まる〈戦後〉への幻滅、〈象徴天皇〉への嫌悪と改憲への夢想、私兵組織「楯の会」と同性愛的な紐帯への渇望‥‥。まことに、そこには〈三島由紀夫の死〉を取り巻く夥しい問題群が、半世紀の時間を超えてそのまま積み上げられている。
 「なぜ」という問いに対する決定的な答えは、いまもみつからない。
 さりとて〈蹶起〉がいかに三島自身にとって深刻な〈日本〉への危機意識に動機付けられていようとも、〈自裁〉という結果を前提として計画され、それが成し遂げられた。これは市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部のバルコニーという「最後の舞台」に仕組んだ、「劇中の人」三島由紀夫の浪漫的で演劇的シアトリカルなたくらみの結果というのが、今日ではもっとも説得的な答えではなかろうか。
 事件の一週間前に文芸評論家の古林尚と行った対談で「自分をもうペトロニウスみたいなものだと思っている」という三島の発言をとらえて、のちに徳岡孝夫がローマ皇帝ネロの側近で『サチュリコン』の作者と言われるこの古代の文人政治家の最期をそこに見出しているのは、慧眼というほかはない。ポーランドの作家、シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』のなかで、皇帝ネロの不興を買ったペトロニウスは、花々で飾られた美女が侍る贅沢な饗宴の席で、客たちにこう語りかける。 

〈親愛なる諸君!歓をつくしてください!愕いてはいけません。老いと、衰弱とは晩年に於ける人間の悲しむべき事実です。私は歓をつくし、酒を飲み、音楽を聴き、側に美人たちを眺め、そして花の冠を戴いたまま、永い眠りに入りたいと思います〉(シェンキェヴィチ『クオ・ヴァディス』河野与一訳)

◆「クオ・ヴァディス』(ヘンリク・シェミラツキ、1897年、ワルシャワ国立美術館蔵)

  ペトロニウスは客人たちにこう述べたあと、皇帝ネロへの痛烈な批判を読み上げ、医者に命じて自身の動脈を切って死の褥につく。美しい女奴隷エウニケを道行に従えて。
 のちに〈昭和元禄〉と呼ばれ、高度経済成長の宴のさなかの日本にあって、三島がたくらんで成し遂げた自裁に、この古代ローマの文人政治家の〈美しい死〉の影を見出すことは、おそらく容易なことであろう。

 少年時代から彼が自らの美のよりどころとしてきた『聖セバスティアンの殉教』で、矢を受けて苦悶する青年の裸像が中世以来、欧州社会で殉教者や同性愛者の聖画イコンとして語りつがれてきたように、〈楯の会〉の制服でバルコニーに立って咆哮する〈MISHIMA〉の図像は、〈切腹〉というおどろな死の儀式と相まって、二〇世紀の〈日本〉をひもと不思議ミステリアスな表象となった。 

 〈同時代の大作家を論ずるのはつねに困難である。距離を置いて眺めることができないからだ。その作家が、私たちの文明とは違った文明、エキゾティシズムの魅力あるいはエキゾティシズムへの警戒感を掻き立てるような文明に属している時には、その困難はなおさらである〉(澁澤龍彦訳)

 『ハドリアヌス帝の回想』の著者として知られるフランスの作家のマルグリット・ユルスナールは、三島由紀夫が自裁してから十年後の一九八〇年に書いた『三島あるいは空虚のヴィジョン』の書き出しにこうのべている。女性初のフランス学士院会員となったこの作家のまなざしは、短い評論ながら周到に三島の作品と事件の背景に及んで、二〇世紀日本の鬼才の死の謎に、西欧文明のまなざしを通して一筋の歴史に向う光をあてた。 

〈三島のなかの伝統的日本人としての分子が表面に浮かびあがり、死において爆発したという経緯を眺めれば、逆に彼は、いわば彼みずから流れに逆らって回帰しようとしたところの、古代英雄的な日本の証人、言葉の語源的な意味における殉教者ということになろう〉
 

◆マルグリット・ユルスナール(1903-1987)フランスの作家。
        フランス学士院で初の女性会員。「ハドリアヌス帝の回想」「黒の過程」など。

 〈狂気〉と〈殉教〉のあいだの奇怪な死をめぐって、国内では半世紀にわたって甲論乙駁の議論が繰り返されてきた。〈楯の会〉という私兵集団と〈切腹〉という伝統的な死の儀式を伴った異国的エキゾチックな〈物語〉が、〈日本〉をめぐる国際的な輪郭をおびた神話になってゆくのは必然であったろう。ユルスナールはその舞台となった市ヶ谷のバルコニーの終幕を歌舞伎の心中話の合対死あいたいじにに見立てて、三島と森田、そして〈天皇〉という三者のトライアングルを読み解く。 

〈恋人たちは三角形の底辺の二つの角のようなものであり、彼らが崇拝する天皇は三角形の頂点のようなものなので、天皇信仰を失った世界では恋愛そのものが不可能になる、と考えるまでになっていたのだった。この天皇という言葉を大義という言葉、あるいは神という言葉に置き換えれば、あの恋愛にとって不可欠な超越の基盤という観念に容易に逢着するであろう〉

 ユルスナールが三島のきらびやかな才筆によせるまなざしは懇切で行き届いており、西欧という異なった文化と風土から分け入ってゆく独特の視点が、この作家の国際的な評価に興味深い解釈をもたらしている。しかし、その異様な演劇的自死をもたらした背景については、戸惑いを隠していない。

 〈『豊饒の海』のなかで、もはや後もどりできない地点にまで来てしまった日本という国を、あれほど見事に描くことのできた作家が、一つの暴力行為で何かを変化させることができると信じていたとは奇妙である。しかし日本人であれヨーロッパ人であれ、三島の周囲の親しいひとたちには、、彼の行為の淵源する絶望の深さを想像することが、すでに私たち以上に不可能になっていたのではないかと思われる〉

  没後の〈MISHIMA〉をめぐって夥しい言説が行き交うなかで、まことに逆説的パラドキシカルな一石を投じたのが、四十年後の二〇一〇年に松浦寿輝が書いた小説『不可能』である。
 これは、一九七〇年十一月二十五日に三島が自裁に失敗して生き残り、公判で有罪判決を受けて二十七年の服役ののちに、仮釈放されて二一世紀の日本を生き延びているという物語である。
 現実の設定としても、あり得た物語である。周到に舞台を準備しながら、寸分の手違いでそれが失敗することがあることを想定した三島は、事件の直前に渡したジャーナリストの徳岡孝夫らへの手紙にもそのことを記した。
 当日の〈蹶起〉の時刻前に自衛隊や家族らへ問い合わせることなどを厳しく禁じて、事前の情報の漏洩を防ぐ一方、万一計画が不首尾に終わった場合、「この手紙、檄、写真を御返却いただき、一切お忘れいただくこと」まで付言している。おそるべき周到の人であるからには、万が一の計画の〈失敗〉で生き延びたのちの人生という想定も、心の片隅にあったのであろう。
 『不可能』のなかで三島は蹶起の当日、自裁に失敗して瀕死の重傷を負いながら逮捕され、裁判で無期懲役の判決を受けて服役する。平岡公威として二十七年後に仮釈放されたとき、既に七十二歳になっており、そこから『天人五衰』の老人、本多繁邦を彷彿とさせる、奇妙な廃墟のなかに生きるような三島の老年の日々がはじまる。
 住まいは東京の西郊の雑木林に囲われて建てたコンクリートの邸宅で、地下室のバーにはジョージ・シーガル風の石膏の人物像を配し、街のざわめきを音声で流している。〈平岡老人〉はそこで孤独な酒を楽しみ、鏡に映る自分を観客に見立てて、手品の練習をする。すでに市ケ谷台で起きた過去は失敗した〈愚行〉として清算されている。
 思いついてスコットランドを一人で旅してみたり、十二人の匿名の会員による秘密のクラブを組織して目的のない会合を開いてみたりする。あるいは伊豆の山中に作った入り口のない「塔の家」をめぐって起こる〈日常〉の揺らぎ‥‥。それらはいずれも、寄る辺のない老残の時間に仕組んだ遊びであるが、老境でようやく三島が手にした皓々とした〈現実〉でもある。

 あの『天人五衰』の終章、八十一歳の本多繁邦が老骨を砕いて運んだ奈良・帯解の月修寺で、門跡になっている綾倉聡子から「松枝さんという方は、存じませんな」という答えを聞いた時の底のない虚無の世界はそこにはない。
 この仮想小説において三島が〈自裁〉に失敗した後に逮捕され、裁判ののちに服役した三十年は全く白紙の時間であり、そこから舞い戻った二一世紀初頭の老境にいたってはじめて、三島は戦後の彼を拘束し続けてきた、あの世界との〈乖離〉の感覚から解放されるのである。
 これは一九七〇年十一月二十五日に仕組まれた〈神話〉を解体するために、その四十年後の三島に作者がたくらんだ、巧緻トリッキーでいささか不気味な〈物語ナラティブ〉の試みである。 

              *

  しかしながら、現実の三島が生きた〈戦後〉の二十五年という歳月は、彼にとって果たして本当に「鼻をつまんで通り過ぎた日々」だったのだろうか。 

 〈葛城夫人のような気持ちのきれいな母親に、こんな苦労を負わせた正史はわるい息子である〉

  一九五〇(昭和二五)年に書かれた短編小説の『遠乗会』は、このような書き出しで始まる。当時、三島の心酔していたレイモン・ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』の冒頭、「ドルジェル伯爵夫人の心のような心の動き方は、果して、時代おくれだろうか?」の借用パスティーシュであることはいうまでもない。
 舞台は戦後の日本がまだ連合国の占領体制下にあった頃である。
 頽廃と混乱の世相の下で、恋人の歓心を買うために息子が起こした些細な非行に疑心をもった葛城夫人は、乗馬の会で探り当てた相手の娘の思いがけない溌剌とした姿を見て、すっかり心を許してしまった。偶々たまたまそこで、夫人が娘時代に真摯な愛の告白を受けながら、ふとしたわがままで縁談を断った相手の由利将軍に再会し、過ぎた日の密かな恋のもつれに秘めていた心が騒ぎだす。 

 〈髪はのびやかに、丸顔の目はたいそう涼しい。その美しさは女雛の美しさで、大儀そうな長靴の足もとは、どこか不器用な、わがままに育った少年のような風情がある。いたいたしい快活さとでも謂えるものが、激しい運動のあとでもえたった頬の曙いろに窺われた。一ト目見るなりその少女は葛城夫人の気に入った〉

  新緑に霞んだ江戸川堤で、乗馬服に身を包んだ有閑階級の男女のまどいに、敗戦の没落と疲弊の気配が漂っている。郊外の乗馬会を舞台に、戦争を挟んだ二つの世代がそれぞれに秘めた恋の揺らぎが交錯する佳篇である。
 葛城夫人と由利将軍との間には〈戦争〉という時間と、敗戦で崩れた〈世間〉という空間が作る乖離がある。遠乗会のあとの懇親の場で、長い空白の歳月を隔てた二人はぎこちない会話を交わした後、お互いの若い日を振り返って由利将軍が「みんな忘れてしまった」と大笑すると、夫人もそれに応じてひめやかに笑った。
 これは戦争という〈椿事〉を待ち望みながら、まみえることなく〈戦後〉を迎えた三島由紀夫が、ようやくその新しい時代の息吹のなかに身を投じて描いて見せた、ロココ風の雅宴図フェートギャラントと読むことができる。
 フランス革命という瓦解をその先に控えたロココ時代の画家、ジャン・アントワーヌ・ヴァトーの雅宴図『シテール島への船出』を、三島がこよなく愛好したことは、すでにこの稿の前半でふれた。画面にまだ革命の流血や硝煙の気配は微塵もうかがえない。揺蕩たゆたう貴族たちの宴の時が、淡い憂愁メランコリーとともに描かれている。
 遠乗会の騎手の交代地点で馬を待ち受ける葛城夫人の前にあらわれた少女、大河原房子の可憐で清純な美しさが、まだ見知らぬ〈戦後〉という時代へ寄せた三島の「希望」の表象であったとすれば、この『遠乗会』という作品はやがて〈迷宮ラビリンス〉となって破裂してゆく彼の〈戦後〉への入口であり、はたまたその行き詰まった〈戦後〉からの出口にもつながっていたに違いない。

 〈MISHIMA〉をめぐる物語ナラティブはその後も絶えることなく続いている。
 戯曲の『サド侯爵夫人』は没後、三島の名前を国際社会に伝説化したという点で最も広く世界に知られた作品であろう。革命前のフランスで、娼婦や少女を集めて加虐と性的倒錯の宴を繰り返して獄につながれたアルフォンス・ド・サド侯爵をめぐって、貞淑と献身を貫いて孤閨を守る夫人のルネを中心に、その母親のモントルイユ、妹のアンヌら六人の女性たちの対話劇である。
 旧体制のモラルを代表する母親のモントルイユはこういう。 

〈こんな革命さわぎの渦の中では、ひょっとしたらアルフォンスに、あの恥知らずの所業が喝采の種子になり、ただ風変りだというだけで尊敬を受け、これまで世の顰蹙を買ったということが潔白の証拠になり、王家の牢につながれた経歴が、何ものにも勝る勲章になるかもしれません〉

  ところが革命が起こって貴族たちが逃散してゆくなかで、手を尽くしてようやく監獄から解き放たれた夫が十九年ぶりに自由の身を取り戻した途端、留守をして来た妻のルネは突然離縁を申し出て、修道院に入ってしまう。
 「私の思い出は虫入りの琥珀の虫」。ルネのこの台詞は、男と女の間の情愛が社会的な禁忌をはさんでたどる不思議な〈変容メタモルフォーゼ〉をとらえて、間然するところがない。そして、ここにも三島のなかの〈戦後〉という主題が隠されていることを、見逃してはなるまい。

『サド侯爵夫人』ロンドン公演から。モントルイユ夫人役はジュディ・デンチ。
(2009年、ドンマー・ウエアハウス)

 国内の初演は一九六五(昭和四〇)年の劇団NLT公演で、松浦竹夫演出、丹阿弥谷津子、南美江、村松英子らが演じている。一九七九(昭和五四)年にはフランスのルノー/バロー劇団によるフランス語公演が東京・草月ホールで行われているほか、二〇〇八年から二〇一〇年にかけてフランス、英国で現地スタッフとキャストで公演された。イタリアやドイツ、スウェーデン、アラビアなどでも上演されている。
 舞台ではついに現れないサドという人物をめぐって、六人の女性がそれぞれ貞淑、道徳、神、肉欲、無邪気、民衆といった価値をまとって、あたかも「惑星の運行のように」丁々発止のゆるぎない台詞がせめぎあう。それは〈三島由紀夫〉を今日に伝える象徴的な物語にふさわしい。

 没後五〇年にあたる二〇二〇年秋には、モーリス・ベジャール振付のバレエ『M』が、東京と横浜で上演された。三島の親しい友人だった黛敏郎が音楽を担当し、ドビュッシー、エリック・サティ、ラベルなどの作品に合わせて三島の生涯と代表作からベジャールが創作、一九九三年に上演した舞台である。この作品は東京バレエ団によってパリのオペラ座、ミラノのスカラ座、ベルリンやハンブルク歌劇場などで上演されてきた。タイトルの『M』はもちろん三島の頭文字だが、同時にモーリスのM、黛のM、そして三島作品の大きな主題である〈海〉(La Mer)や〈死〉(La Mort〉、〈神話〉(la Mythologie)などをあらわすという。


◆モーリス・ベジャール振付 バレエ「M」の一場面(2020年) 


 舞台は『潮騒』にはじまり、『仮面の告白』『鹿鳴館』『鏡子の家』『金閣寺』『午後の曳航』『憂国』、そして『豊饒の海』と主だった作品をモチーフにした華麗な場面を男女の踊り手がつないでゆく。
 終幕に向って「楯の会」の制服姿の踊り手たちがあらわれ、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」の調べが高まるなかを、桜吹雪の下で少年の三島が切腹する。シャンソンの『待ちましょう』の歌声とともに、それまでの作品の登場人物が次々と現れで踊る大団円は一転、冒頭の『潮騒』の場面に回帰する。それは三島の〈死〉が新しい〈生〉へと円環してゆくという、日本や東洋文化に深い造詣を持っていたベジャールの伝言でもあったろう。


  われわれはそれぞれの時代の〈国民の物語〉を持っている。もはや過ぎ去った時代の幻影といわれようとも、歴史に刻印された〈物語〉は繰り返され、そこから生まれる新たな意味や異なった理解がそれを〈成長〉させることさえある。没後半世紀を経た〈三島由紀夫〉という戦後日本の物語がいま投げかけるのは、その謎に包まれた死をめぐる「説明競争」を超えて、〈戦後〉という時代にこの国がはぐくんだ束の間の〈成功〉の夢の陰画である。 

〈われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみささげられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を瀆してゆくのを歯噛みしながら見てゐなければならなかった〉(『檄文』)

  失敗した〈事変〉から半世紀を経たいま、改めて残された「檄文」を読みかえしてみると、三島が募らせた危機意識から響いてくるのは、戦後の〈日本〉という国家への幻影に退潮する〈伝統〉への夢想を重ねた、悲壮でいたましい浪漫者ロマンティークの慟哭である。
 グローバリゼーションの広がりとともに、日本人の祖国パトリへ向かう情念は枯渇へ歩みを速め、経済の低迷や人口減少による国家の収縮に苦しむ二一世紀のこの国には、かつての成長の時代の夢想は望むべくもない。それは三島が予言した通りの半世紀であった、ということである。一九七〇年十一月二十五日の物語は、日本の〈戦後〉という異形の時代の終わりへ向けて三島由紀夫が命がけで演出した、賑やかで残酷なレクイエムだったのではなかろうか。           
                           =次回完結

◆標題図版 モーリス・ベジャール振付 バレエ「M」(2020年、東京バレエ団)の舞台から

                                



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