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三島由紀夫という迷宮⑧  「この庭には何もない」 柴崎信三

〈英雄〉になりたかった人➑

 最後の長編小説『豊饒の海』の第一部『春の雪』の雑誌連載は、脚色、演出、主演まで担って自作の『憂国』を映画化した1965(昭和40)年に始まっている。ノーベル文学賞の有力候補に名前が挙がり、日本を代表する作家として前途は洋々とみえた。自身が生きてきた時代を舞台装置に選んで、〈伝統〉と〈行動〉、〈時間〉と〈輪廻〉という主題をつないで描いてゆくたくらみは、戦後の三島のなかで静かに熟しながら、入念に設えられてきたのであろう。けれども、この大河小説は物語が進んでゆくにつれて、建築家が構造設計を誤った建築物のように、どこかで歪んだ眺望を人々にもたらしていった。それは作家の中に育まれた、〈虚構〉としての作品の世界を圧する激しい〈行動〉への衝動がある時期から噴出して、ついには作品それ自体を浸食していったからである。もちろん、その衝動とは〈天皇〉という内なる観念を膨張させた三島が現実へ向けて働きかけはじめた「蹶起」への強迫である。
 『豊饒の海』を雑誌『新潮』に連載していたころ、三島は出版社のPR誌に『小説とは何か』というエッセイを書き継いでいた。ライフワークの大河小説の連載の合間をぬって、息抜きのように好みの作家の作品を取り上げて縦横に論じる筆は自在であるが、精緻をきわめている。稲垣足穂、國枝史郎、ジョルジュ・バタイユ、芥川龍之介、トルーマン・カポーティ、柳田國男など、扱う作家にもいかにも三島らしい一癖も二癖もある選択が感じられるが、そのなかに自身がいま取り組んでいる『豊饒の海』をとり上げた一篇がある。
 ちょうど第三巻の『暁の寺』を脱稿した直後で、これから最終巻の『天人五衰』にとりかかろうという時期だから、1969(昭和44)年の後半である。そこで三島はある切迫した「不快感」にとらわれたことを告白している。
この「いい知れぬ不快」の感覚は、作品が完成に近づくことで〈現実〉との緊張と対立が失われてゆくことから生まれた、と三島は言っている。

〈すなはち、「暁の寺」の完成によって、それまで浮遊していた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結して閉じられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になったのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかった〉

 作品が完結して終われば、〈現実〉のなかに漂っていたものはすべてそのなかに取り込まれて、茫漠とした空虚の中に作家は取り残される。
 それはどのような芸術家であっても経験する、創造の快楽が伴う懲罰的な時間であり、畢生の大河小説であればその揺り返しの波の大きさは容易に想像できよう。ところが三島がこの時点で告白している根源的な〈不快〉の感覚は、作品という虚構のなかに構築した〈現実〉と実際に彼が生きている現実世界が作る時間の対立と緊張が融解し、作品が自立してゆくとともに一方の〈現実〉が失われようとしている、という苦い認識に由来する。
 第三部の『暁の寺』の擱筆とともに訪れたこの経験を、三島は「この浮遊する二種の現実が袂を分ち、一方が廃棄され、一方が作品の中へ閉じ込められるとしたら、私の自由はどうなるのであろうか」と自問する。

〈私の不快はこの恐ろしい予感から生れたものであった。作品外の現実が私を強引に拉致してくれない限り、(そのための準備は十分してあるのに)、私はいつかは深い絶望に陥ることであろう。思えば少年時代から、私は決して来ない椿事を待ちつづける少年であった。その消息は旧作の短編「海と夕焼」に明らかである。そしてこの少年時代の習慣が今もつづき、二種の現実の対立・緊張関係の危機感なしには、書きつづけることのできない作家に自らを仕立てたのであった〉

 ここで三島が「椿事」を待ち続けた少年時代の記憶の造形として挙げている『海と夕焼』は、1955(昭和30)年に書いた短編小説である。
――鎌倉時代、建長寺で寺男を務める主人公の安里あんりは流謫の末にこの国にたどり着いた碧眼のフランス人である。村童から仲間外れになった盲目の少年を連れて寺の裏山に上り、稲村ケ崎の海辺に広がる夕焼けを眺めながら、はるか遠い来し方をフランス語で語り掛けるのを常とした。

◆ 鎌倉・稲村ケ崎の夕景


  「‥‥むかし、お前ぐらいの年頃、いやお前よりずっと前の年頃から、私はセヴェンヌの羊飼いだった‥‥時は丁度、第五十字軍が一旦聖地を奪回したのに、また奪い返された千二百十二年のことだった‥‥」
  ある夕暮れ、少年のアンリは白い輝く衣を着たキリストが丘の上から降りてくるのを見た。主は手を差し伸べて、こういった。
 「聖地を奪い返すのはお前だよ、アンリ。異教徒のトルコ人たちから、お前ら少年がエルサレムを取り戻すのだ。沢山の同志を集めて、マルセイユへ行くがいい。地中海の水が二つに分れて、お前たちを聖地へ導くだろう」
 
 丈の高い橄欖の木の梢に天使が群がり、その下に八歳の預言者があらわれて、集まった羊飼いの少年たちを前におごそかな口調で言う。
 「東へ行くんだよ。東のほうへ、どこまでも行くんだ。そのためには、お告げのとおりにマルセイユへ行ったらいい」
 各地から集まった少年の十字軍はペストがはびこる険しい旅路を越えて、マルセイユに着いた。しかし、海が二つに割れてエルサレムへの道が開くことはなかった。幾日も待っても海は開かれない。そこへ一人の信心深そうな男がアンリたちに近づき、自分の持ち船でエルサレムまでの海路を提供したい、と申し出た。十字軍の少年たちはこの提案を勇んで受け入れて船に乗り込んだが、マルセイユを発った船はエルサレムへの航路を外れて南へ南へと船首を向けて、ついにはエジプトのアレキサンドリアに接岸する。
 そして、少年たちはことごとく、奴隷市場に売られてしまったのである。
 アンリはペルシャ商人の奴隷となり、さらに売られてインドへ渡った。そこで日本から仏教を学びに来ていた大覚禅師に出会い、自由を得て仕えるようになった。恩情を受けた禅師が日本へ帰るにあたり、望んで見知らぬ極東の地へ伴うことを選んでこの地にたどり着き、長い歳月が流れた。

〈安里は遠い稲村ケ崎の海の一線を見る。信仰を失った安里は、今はその海が二つに割れることなどを信じない。しかし今も解せない神秘は、あのときの思いも及ばぬ挫折、とうとう分れなかった海の真紅の煌めきにひそんでいる。おそらく安里の一生にとって、海がもし二つに分かれるならば、それはあの一瞬を措いてはなかったのだ。そうした一瞬にあってさえ、海が夕焼けに燃えたまま、黙々とひろがっていたあの不思議‥‥‥。〉

 たしかに、ここには〈椿事〉を待ち続けてついにそれにまみえることができなかった三島その人がいる。安里が言葉の通じない盲目の少年を連れて建長寺の裏山から眺めている赫奕とした稲村ケ崎の夕焼けは、〈信仰〉を失い〈神〉と〈奇跡〉とも遠ざかった三島の〈戦後〉という時代を映す鏡であろう。
 
 〈椿事〉への期待はこの対立と緊張の彼方で、あたかも蜃気楼のように戦後の三島のなかに揺らめき続けていたのである。その均衡を崩していったきっかけが、ライフワークの長編小説『豊饒の海』の進行と、作者の三島がそのころ抱えた〈現実〉とのあらわな乖離であった。『小説とは何か』のなかに示された一種異様な「不安」の表明は、そのあらわれなのである。
 
 『豊饒の海』は第一巻の『春の雪』、第二巻の『奔馬』、第三巻の『暁の寺』、第四巻の『天人五衰』をつなぐ長編小説である。それは作者の生きた時間とほぼ重なる大河小説であり、読み方によれば〈時代〉を通観した歴史小説でもある。この作品の成り立ちを改めてたどりながら、三島が「恐ろしい予感」に伴う不安に襲われた『暁の寺』の擱筆と『天人五衰』の間の亀裂に立ち入って、奇怪で不可解な自裁に至る作家の晩景に佇んでみたい。
 『豊饒の海』は輪廻と転生という主題のもとで、松枝清顕という大正時代の侯爵家の嫡男が幼馴染の公卿の令嬢、綾倉聡子との悲恋の果てに20歳で病死したあと、次々にその時代の男女に姿を変えて遷移しながら遍歴を重ね、20世紀の後半に至る物語である。その導き役となって歴史の時間に同伴しながら老耄してゆくのが、清顕の刎頚の友であった本多繁邦である。
 それぞれの巻は『春の雪』で〈和魂にぎみたま〉つまりみやびを、『奔馬』で〈荒魂あらたま〉つまり益荒男ますらおを、『暁の寺』で〈奇魂くしだま〉すなわち異界を描く、と三島は自ら解説している。最終巻の『天人五衰』ではこうした遷移の到達点としての〈虚無〉が、あの奈良・帯解の月修寺で門跡となった聡子によって明かされてゆく。
 小説の建付けとしてみれば、あの壮大な失敗作といわれた『鏡子の家』が、戦後という同時代の空間で〈三島由紀夫〉が四人の分身によって演じられてゆく〈共時的〉な作品とすれば、『豊饒の海』はそれを歴史の時間のなかに置き換えて、輪廻と転生という〈遷移〉のかたちが松枝清顕という人物の発展形として示されてゆく〈通時的〉な作品ということができよう。
 
 『春の雪』は巻末に作者自註があり、〈『豊饒の海』は「浜松中納言物語」を典拠とした夢と転生の物語であり、因みにその題名は、月の海の一つのラテン名なるMare Foecunditatis の邦訳である〉と記されている。
   平安時代に『源氏物語』がもたらした大きな影響のもとで書かれた後期の王朝物語の一つで、作者は『更級日記』の著者の菅原孝標女すがわらのたかすえのおんなと伝えられる。菅原道真嫡流の才媛で、『源氏』の全巻を暗誦したという伝説を持つ女性である。

「浜松中納言物語」(岳亭春信画)


 『源氏』の「宇治十帖」に原型プロトタイプを求めたこの物語では、式部卿宮の息子で知性と容色に優れた中納言が継父の娘の大君おおきみの愛を受け止めながら、実父が没後に唐土もろこしの太子に転生したという夢の告知を受けて、強く望んで遣唐使として唐の国へ渡る。一方、日本に残された大君は帝の皇子と結納した身で中納言の子を懐妊して婚姻は解消となり、剃髪して仏門へ入って中納言の娘を生む。
 この流れは、ほぼ『春の雪』に敷衍ふえんされてゆく筋書きだが、著しい特色は唐土へ渡った中納言が経験するエキゾチックな風物や人物が〈夢〉に導かれて物語を動かしてゆくことである。
 海路唐へ向かった中納言は、まず運嶺から杭州、歴陽、函谷関を経て長安の都へ到着する。当時の知識で想像した経路はもちろん正確ではないが、貴族たちが知識や文化の交流を通して得ていた異国への想像力イマジネーションが描写に散りばめられている。
 中納言は父の生まれ変わりの唐の太子と出会うが、唐后の母の美貌に惹かれて契りを結び、若君が生まれる。三年の唐の滞在期間が過ぎると、中納言は託されたこの若君を伴って帰国する。その後、都と吉野や大宰府などへ場面を転じながら、中納言とその娘、式部卿宮と取り巻く人々の転生と転変の物語が繰り広げられる。

〈「素晴らしい日だな。こんなに何もなくて、こんなに素晴らしい日は、一生のうちに何度もないかもしれない」
本多は何かの予感に充たされてそう思い、そう口にも出した。
「貴様は幸福ということを言っているのか」
と清顕は訊いた。
「そんなことを言った覚えはないよ」
「それならいいけれど、僕には、貴様みたいなことはとても怖くて言えない。そんな大胆なことは」
「貴様はきっとひどく欲張りなんだ。欲張りは往々悲しげな様子をしているよ。貴様はこれ以上、何が欲しいんだい」
「何か決定的なもの。それは何だかはわからない」〉

 『春の雪』の導入部、晩秋の晴れた午後に広大な松枝侯爵邸の庭の中の島に寝ころびながら、十八歳の主人公の清顕が親友の本多とかわす会話である。

映画『春の雪』(行定勲監督)より

 「何か決定的なもの」を探りたいという清顕はその二年後、聡子との禁断の恋に敗れた身を病んで身罷ってしまうが、そこから彼の転生がはじまる。
清顕が『浜松』の中納言に見立てて造形されているのはいうまでもない。
   幼馴染の綾倉伯爵家の美しい令嬢、聡子から好意を寄せられながら、清顕が理由なくそれを拒んできたのは、自らに課してきた〈みやび〉のゆえであった。
 「優雅といふものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を」と彼は考える。拒まれた聡子が洞院宮家との婚姻を定めと受け入れて勅許が下りると、それを待ち受けたように清顕は聡子に激しい恋情を募らせて近づいてゆく。隠れて禁じられた逢瀬を重ねた挙句に聡子は清顕の子を宿し、堕胎して宮家との婚姻は解消となった。すべてを失った聡子は奈良・帯解にある尼寺の月修寺へ入り、髪を下ろす。
 聡子との面会を求めて春浅い大和の尼寺を訪ねた清顕は門前で拒まれ、風花の舞うなかを待ち続けるうちに発熱して病に倒れた。駆け付けた親友の本多に伴われてて帰京してほどなく、二十歳で清顕は死ぬ。謎めいた言葉を残して―。 

〈今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で〉

 死んだ清顕の〈夢と転生〉の物語は、第二話の『奔馬』、第三話の『暁の寺』へと時代を下りながら、主題の転換と生まれ変わった人物を通してすすむ。
 『奔馬』は日本がファシズムへ向かう昭和前期を舞台にした〈荒魂あらたま〉の物語である。主人公は松枝侯爵家の書生と女中との間に生まれた飯沼勲。過激な天皇主義者であり、腐敗した財界をテロリズムで浄化しようと企てる右翼青年である。
 明治初年に起きた熊本の「神風連事件」に心酔して「昭和の神風連を興す」と仲間とともに計画した蹶起に飯沼は失敗し、刑の免除で釈放されたのちに、財界の巨頭で金解禁を唱える蔵原武介を単独テロの対象に選んで、それを成し遂げる。

〈政治は腐敗の一路を辿り、財閥はドル買いなどの亡国的行為によって巨富を積み、国民の塗炭の苦しみにそっぽを向いております。いろいろ読書や研究をしました結果、現在の日本をここまでおとしめたのは、政治家の罪ばかりでなく、その政治家を私利私欲のために操っている財閥の首脳に責任があると、深く考えるようになりました〉

 公判でこのように陳述した飯沼は、伊豆山中の蔵原を別荘に訪ねあて、用意した短刀で刺殺したのち、海を臨む丘の上で自刃するのである。
   長じて大阪控訴院の判事となった本多は、たまたま来賓として奈良・三輪山の大神神社で開かれた奉納剣道試合に列席した折、選手として出場していた飯沼と出会った。試合後に近くの三光の滝で水垢離をともにして、飯沼の左の脇腹に三つの小さな黒子を認めて彼は驚愕する。二十年近く前、月修寺の門跡の教えを受けて知った「三つの黒子」のしるしが、死んだ清顕の転生の証しとしてあったからである。
 それは「又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」という清顕が遺した言葉とも符合した。飯沼がそれから〈荒魂〉をたぎらせたように過激なテロリズムに向かい、計画に失敗して捕らわれると、運命の導きを深く受け止めた本多は判事の職をなげうって、弁護士として飯沼の歩みを見守ってゆくのである。
 飯沼勲の失敗した蹶起は、1932(昭和7)年に起きた「血盟団事件」をモデルにして描かれたとみられる。井上日召が唱えた「一人一殺」に呼応して、小沼正や菱沼五郎ら右翼青年が前蔵相の井上準之助や三井合名理事長の團琢磨らを暗殺したこの事件を三島が素材に取ったのは、もちろん自身の時代経験と重なっていることや、「天皇」という超越的なカリスマを頂いたテロルが〈政治行為〉としてそのころの三島自身の現実のなかで大きくクローズアップされていたことと無縁ではあるまい。
 しかし、その「天皇」の姿はここではついにリアルな存在としては現れず、飯沼のテロルと自裁の後景にいわば象徴的なアイコンとして浮かび上がるだけである。それは、この作家が究極の行動のよりどころと頼んだ〈天皇〉があくまでも観念上の存在であって、ついに天皇その人と相わたることが作品と現実の両面で不可能であったことを、ゆくりなく示している。

血盟団事件を報じた新聞紙面


 『奔馬』はその意味で、三島のなかに立ち上がりつつあった現実、つまり戦後の四半世紀にわたって彼方に追いやっていた〈行動〉へのあこがれの沸騰と、その失墜をたどる物語という性格をあらわにしている。

〈「ずっと南だ。ずっと暑い。‥‥南の国の薔薇の光の中で。‥‥」〉

 『奔馬』の末尾で、死の三日前に飯沼勲が酔って発したこの譫言うわごとに導かれて、第三話の『暁の寺』では司法官となった本多が八年ののち、シャムのバンコクを訪れる。三島は『暁の寺』をエキゾチックな心理小説として〈奇魂くしだま〉と呼んだ。本多はこの大河小説の時系列を貫く視点話者となり、清顕の輪廻と転生を見届ける証人として、かつて清顕とともに学習院で級友だったシャム王室の二人の王子を訪ねて、バンコクの薔薇宮に足を運ぶのである。そこで出会ったのは、級友の一人だったバッタナディット殿下の末娘、七歳の月光姫ジン・ジャンであった。
 ジャン・ジャンは宮殿のその席で突然、本多に縋り付きながら叫んだ。

〈本多先生! 本多先生!何というお懐しい! 私はあんなにお世話になりながら、黙って死んだお詫びを申上げたいと、足かけ八年というもの、今日の再会を待ちこがれてきました。こんな姫の姿をしているけれども、実は私は日本人だ。前世は日本で過したから、日本こそ私の故郷だ。どうか本多先生、私を日本へ連れて帰って下さい〉

 

バンコクの暁の寺(ワット・アルン)の大伽藍

 この出会いをきっかけに、本多はベナレスなどを旅してインド思想への関心を深めていった。南国の激しい陽光に包まれた風土の下で、〈輪廻転生〉が現実のなかに生々しくあることを確信するかたわらで、『暁の寺』では現実が一瞬のうちに虚に化してしまうという、〈阿頼耶識〉が説く唯識論の思想が延々と繰り広げられる。それにはもちろん、三島自身が1967(昭和42)年9月にインド政府の招待でインドを旅行し、聖地ベナレスで得た経験が深くかかわっている。

〈焔、これを映す水、焼ける亡骸、‥‥それこそはベナレスだった。あの聖地で究極のものを見た本多が、どうしてその再現を夢みなかった筈があろうか〉

 大乗仏教の根本を生す唯識論の生死観を目の当たりにした三島は、『暁の寺』の主人公の本多にそれを語らせることによって、行動の大きな転換点に立った。すなわち、三島自身がいかに死すべきか、という自問と向き合ったのである。
 成長して来日した美しいジン・ジャンに恋着した本多は、転生の徴である脇腹の〈三つの黒子〉をその体に認めて、清顕から勲、そしてジン・ジャンというの輪廻と転生の物語は一応の連環のもとでつながっている。しかし、ジン・ジャンはやがて記憶を失って帰国したのち、コブラに噛まれて死ぬという唐突な結末によって、物語は第四巻の『天人五衰』にあわただしく引き継がれる。この荒唐無稽でリアリティーを欠いた『暁の寺』の顛末には、すでに三島が『小説とは何か』で激しく吐露した、あの「言い知れぬ不快感」がもたらす作家の精神の亀裂が隠されているといってよかろう。
 
 三島が遺した『豊饒の海』の「創作ノート」には、書き出しに「輪廻転生の主題」と見出しを付けた各巻の構成についてのメモがある。
 
〈輪廻転生の主題
 個性の蔑視
 一ヒーローの超性的転生
第一巻 夭折した天才の物語
 ―芥川家モチーフ
 (自殺、夭折、過淫、多病)
第二巻 行動家の物語 ―北一輝のモチーフ 神兵隊事件のモチーフ
第三巻 女の物語 ―恋と官能―好色一代女
第四巻 外国の転生の物語
第五巻 転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語
    ―人類の普遍的相
    ―人間性の相対主義
    ―人間性の仮装舞踏会
(浜松中納言物語のモチーフ 全巻に見えかくれする)〉
 
 全五巻で構成された計画は実際には大きく変わっているが、とりわけ最終巻の『天人五衰』は当初の構想と同じ時代と人物配置によりながら、その展開と結末は真逆といってもいい色調に変じている。物語がここではじめて戦後の実時間リアルタイムに追いついて動き出し、「書かれるべき時点の事象をふんだんに取り込んだ追跡小説」として、作者が『幸魂』へ導くものと考えていた流れは暗転する。何よりも、当初1971(昭和46)年末に想定していた四部作の完結は、作家の蹶起に合わせて1970年に繰り上げられた。第三巻『暁の寺』の擱筆とともに取り巻いた重苦しい〈不快感〉は、作家のなかに眠っていた〈英雄的ヒロイックな死〉への衝動を呼び起こして三島を現実の行動へ駆り立てていった。光明へ向かう解脱を思い描いていた最終巻の『天人五衰』は、その歪みを受けて作品としての均衡を失い、虚無の迷路に入り込む。
 
 『天人五衰』で本多繁邦はすでに七十六歳の老境であり、富と孤独と死の影に囲まれながら暮らしている。十六歳の孤児で船舶信号所の信号員、安永透と三保の松原で出会い、ここでも「脇腹の三つの黒子」をこの少年に認めて養子に迎えた。
 松枝清顕の輪廻転生を探って、本多が飯沼勲からジン・ジャンへとその遷移を辿って来たのは、知的な認識者としての自身の生命が育む夢の確認のためであったが、その最後の夢を透という少年に見出したのである。
 本多はこの少年に高い教育を施し、教養と作法を施してゆくのだが、強い自負と自己愛に包まれた〈天使〉として振る舞う透は、次第に本多への敵意と軽蔑をむき出しにしてゆく。二人はいわば同じ認識者として鏡を前にして竦みあうような関係に陥り、本多は転生者としての透を〈精巧な偽物〉と疑い始める。
 関係の崩壊は必然であった。透は自殺未遂の挙句に失明し、精神を病んだ少女と暮らしながら衰弱する。本多は深夜の神宮外苑での痴漢行為が明るみに出て、法律家としての立場を失ったのち、病に倒れた。すべては嘘と虚構だったのでは、と疑わせるどんでん返しによって、夢と輪廻転生の連環は絶たれようとしている。
 三島はこの連載の着手前に書いた『豊饒の海』の「創作ノート」に、『天人五衰』の展開について次のように述べている。

〈本多はすでに老境。四巻を通じ、主人公を探索すれど見つからず。ついに七十八歳で死せんとすとき、十八歳の少年現れ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。(今までの主人公が解脱にいたって、消失し、輪廻をのがれしとは考えられず。第三巻女主人公は、悲惨なる死を遂げし也))

 つまり安永透は「阿頼耶識」の体現者として本多の前に現れるのである。

 〈この少年のしるしを見て、本多はいたくよろこび、自己の解脱の契機をつかむ。思えば、この少年、この第一巻よりの少年は、アラヤ識の権化、アラヤ識そのもの、本多の種子なるアラヤ識なりし也。本多死なんとして解脱に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓ごしに見ゆ。(バルタザールの死)〉

 「創作ノート」で老境の本多は、少年の安永透に転生の証しを認めて歓喜に包まれながら解脱への道へ向かう。プルーストの短編『バルダサール・シルヴァントの死』のなかで、インドへ向かう船を部屋の窓越しに眺めている主人公が、美しい過去の記憶を呼び起こす村の鐘の音を聞きながら迎える「幸福な死」のイメージを、三島はそこに重ねている。
 これとは対照的に、作品となった『天人五衰』が辿る結末の悲劇的、と呼ぶ以上に解体的な小説の構造は、背景が作家の当初の設計から大きく乖離していった結果である。光明の空へ船出をするはずだった安永透は、転生者の〈精巧な偽物〉であることが暴露された挙句に、滅びてゆくのである。
 第四巻の『天人五衰』が当初の構想から全く異なった結末で終わることについて、三島は御殿場の自衛隊演習地から川端康成にあてて送った、1970(昭和45)年3月5日付の手紙で触れている。 

〈第四巻は、はじめの計画では(丁度現在時点へ物語が来ますので)、一九七〇年の擾乱に内容を合せるつもりでした。しかし、一向世間が静かで、この計画は御破算になりました。私には神霊的能力、預言の能力が根本的に欠けているようです。予想が当たったことがありません。一つの小説や芝居の中で、すべてが計画的に行くことと、歴史や現実の中でそうすることとは、全然別なことは当然なのに、この混同の愚を犯すのです〉

 第三巻の『暁の寺』の脱稿を境に作者の三島を覆っていた〈いいしれぬ不快感〉は溢れ出して物語を制御する力を失い、〈作品〉の均衡を突き崩して「英雄的な死」へ向けた現実の〈行動〉へと彼を駆り立てている。
 「天人五衰」は「天人終命の時に現れる五種の衰相」を伝える経本の定義に由来する。衣服が垢にまみれ、頭上の華が萎み、腋膏から汗が流れ、身体に不快な臭気が漂い、本座に安住するのを楽しまないという、老いの相を意味する。

「月修寺」のモデルとされた奈良・帯解の円照寺の山門

 本多は病み衰えた体に鞭打ってある日、奈良・帯解の月修寺に門跡となっている聡子を訪ねて面会することを決断する。万緑に覆われた山門をくぐって、案内された客間にあらわれた門跡は、本多が口にした松枝清顕の名前にこう応じた。
 「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」
 六十年前に清顕を伴って訪れた記憶をあげてみても、門跡はいう。
 「えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やら人違いでっしゃろ」
 「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それに近いように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」
 清顕がいなかったのなら勲も、ジン・ジャンもいなかったことになる。そして本多自身さえも‥‥。 

〈これと云って奇巧のない、閑雅な、明るく開いた庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。‥‥〉

 『天人五衰』のこの結びのあとに〈「豊饒の海」完。昭和四十五年十一月二十五日〉と認めた最後の原稿を自宅に託して、その朝三島は「蹶起」に赴いた。
                            =この項続く

◆標題図版◆鎌倉文学館(旧前田侯爵別邸)からの眺望 「春の雪」の舞台として使われた。


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