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三島由紀夫という迷宮④ 〈アルカディア〉は何処に     柴崎信三         

〈英雄〉になりたかった人❹


 

 初めての「洋行」で巡った欧州の経験の最初の具体的な結晶が、二年後の1954(昭和29)年に発表した小説『潮騒』である。
 作家が遺したおびただしい作品群のなかでも、『潮騒』の特異性は際立っている。もちろんこの純愛小説は、流行作家になって活動の幅を広げてゆく三島がエンターテインメントとしての作品の画期をなし、それがベストセラーとなって繰り返し映画化されるなど、同時代の若者の恋愛劇の定番となった作品であることは改めるまでもない。

 しかし、戦後日本の社会的な事件や風俗を素材にして人間の暗部やアイロニーを描いてきた作家は、一転して鄙びた漁村に生きる若い男女の明澄な恋物語を造形した。この作品の抽象性、言い換えれば無国籍性は作家の「洋行」の成果であり、それが〈戦後〉という新たな秩序の彼方にある〈楽園〉の夢想へとたくらみを広げたのである。
 「歌島は人口千四百、周囲一里に満たない小島である」という書き出しで始まるこの小説の舞台は、三重県の伊勢湾に浮かぶ神島で、漁村に暮らす18歳の漁師の新治と海女の初枝が出会い、大人たちや周囲のまなざしに向き合いながら純愛を育てて結ばれてゆく。途中で二人の愛が遭遇する小さな妨げは、むしろ物語の純度を高める美しい音楽のような効果をもたらしている。

〈若者の腕は、少女の体をすっぽりと抱き、二人はお互いの裸の鼓動をきいた。永い接吻は、充たされない若者を苦しめたが、ある瞬間から、この苦痛がふしぎな幸福感に転化したのである。やや衰えた焚火は時々はね、二人はその音や、高い窓をかすめる嵐の呼笛が、お互いの鼓動にまじるのをきいた。すると新治は、この永い果てしれない酔い心地と、戸外のおどろな潮の轟きと、梢をゆるがす風のひびきとが、自然の同じ高調子のうちに波打っていると感じた。この感情にはいつまでも終わらない浄福があった〉

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『潮騒』の舞台となった神島の灯台 

  伊良子水道に臨んだ、「綿津見命わたつみのみこと」の祭神を抱く鄙びた小島である。漁労で暮らしをひさぐ人々は素朴で、厳しい自然に寄り添った日々は荒々しくはあっても、結ばれた絆と地縁を通して穏やかに移ろってゆく。
 三島がこの島を小説の舞台に選んだのは、二年前のギリシャを旅した経験から、帰国したのちにその神話的な背景と海に臨んだ立地を国内各地に探し求めた結果であった。紀元前に書かれたギリシャの小説『ダフニスとクロエ』にその原型を求めた物語はあらかじめ構想した通りで、帰国後から入念に取材を重ねた形跡がある。
 「レスボスの島にある都の、ミュティレーネーというのは、栄えて美しい町である」(『ダフニスとクロエ』呉茂一訳)という冒頭の書き出しを比べて見ても、『潮騒』がその文体まで含めて古代ギリシャの古典小説の「本歌取り」であることは三島自身が解説していて明白である。
 『ダフニスとクロエ』の若い恋人は羊飼いの若者と山羊番の少女である。その恋は小さな障害や不運に見舞われるが、これらを乗り越えて二人は純愛を貫き、祝福を受けて結ばれる。

daphnis_chloe_françois_gerard.jpg「ダフニスとクロエ / Daphnis et Chloé」 フランソワ・ジェラール作 
フランソワ・ジェラール『ダフニスとクロエ』
(1824-1825年、パリ・ルーヴル美術館 ドゥノン翼)

 戦後日本の紀伊半島に接した小島を舞台にした『潮騒』という、明らかにこの古典の「本歌取り」の小説をこの時点で三島が書いた背景にはもちろん、直接には二年前のギリシャ・ローマへの旅の体験がかかわっている。旅先で三島が確かな人間の姿として認めた〈古代的人間〉、あの「精神」などを必要としない、希臘ギリシャ 人の誇らしい生命の躍動を、この戦後日本という風土に置き換えてみようという大胆な意図があったのだろう。それは作家が生きる〈戦後〉の欲望と混濁が渦巻く現実に対する、一種の裏返しのユートピアを描く目論見にほかならない。
 神島は映画館の一軒さえない素朴な小島である。岬のはずれにある灯台の灯台長一家を除けば、ほとんどが土着の漁業に携わる人々の集落であり、訛りの強い方言が行き交う日常は、荒々しくも濃密である。主人公の二人を取り巻く人間関係に背徳や暴力や退廃が入り込む隙間は、ほとんどない。
 1954(昭和29)年という時点の戦後日本の片隅のこの小島を舞台に、三島が古代ギリシャの純愛劇を移しかえるという試みには、普遍的な純愛劇の再現を通して日本の戦後社会を相対化して描いてみるという、この作家の入り組んだ意図が働いていたとしても不思議はない。 

 ベストセラーになった『潮騒』はすぐに東映で映画化された。監督は谷口千吉、脚本に作家の中村真一郎が加わり、主演に久保明と青山京子という作品の現地ロケに、三島は音楽を担当した作曲家のまゆずみ敏郎とともに泊りがけで同行して撮影に立ち会い、メディアの取材にも応じた。その報告のなかで、作家はこの島で耳にした小さな挿話に触れている。

〈島へ来る舟ではじめてきいたニュースであるが、私は数日前の毎日新聞に出た神島の放射能患者の話を知らなかった。三重大学の発表で、神島燈台員の一人とその家族が原子病に罹患したことが公になったのである。去年この島へ来たとき、「われもまたアルカディアに」の感慨を味わったが、そのアルカディアが一年後、水爆実験の被害を蒙るにいたったのであった〉

 米国が南太平洋上で行った核実験による放射能汚染の影響が、日本でも大きな社会不安を引き起こしていた時代である。黛敏郎とともに島の灯台長宅へ出向いた三島は、夫人に小説の取材への謝礼とともに放射能騒動の見舞いを述べながら、水質汚染の不安がぬぐえず、出された冷たいお茶を恐々飲んで島を後にしたことを記している。〈楽園〉は核実験による放射能汚染という、冷戦世界がもたらす核戦争の陰画に脅かされていたのである。

〈9月12日に接した情報によると、台風12号の前ぶれの大波が島を襲い、段落をなしている町の中ほどの無線の鉄塔までが、波を浴びている由である。私は「わがアルカディア」の安否を気づかい、神代ながらのこの小さな島が、小泉八雲の描いたラスト島のような破局に陥らぬことを祈った〉(『潮騒』ロケ同行記)

 三島が『潮騒』の舞台に選んだ伊勢湾に浮かぶ神島に繰り返し重ねている〈アルカディア〉は、古代ギリシャのペロポネソス半島の中央にあった地域を指し、牧人たちの楽園として伝承されてきた理想郷の代名詞である。ルーヴル美術館にあるプッサンの名画『アルカディアの牧人たち』には、「われもまたアルカディアにあり!」という言葉を刻んだ墓碑を見つめる牧童と少女が描かれている。「われもまたアルカディアに!」は、かのゲーテの名著『イタリア紀行』の巻頭に題辞として掲げられた言葉でもある。ギリシャ・ローマの旅を通して三島が自らの〈アルカディア〉の地をこの島になぞら えた深い意図の由来するところが、そこにくっきりと浮かび上がる。
 『若きウェルテルの悩み』で作家としての名声を確立したゲーテは廷臣としての仕事の重荷に加えて、人妻シャルロッテ・フォン・シュタインとの恋に行き詰まり、1786年6月に予てからのあこがれの地、イタリアへ旅立つ。秘書一人だけを伴い、身分も隠した逃避行であったが、ドイツ北方の重苦しいゴシック的風土から逃れてイタリアの陽光溢れる世界に身を投じることは作家の長年の夢であった。ゲーテの『イタリア紀行』は戦後の鬱屈から逃れた三島がギリシャ・ローマへの旅を通して描いたあの『アポロの杯』とも重なる、芸術家にとっての根源的な文化体験の記録である。
 ゲーテはイタリア人に扮して、ローマでは美術館でルネサンス美術の巡歴に長い滞在をあてた。ヴェネツィアでは街角や劇場で演じられる仮面劇に通って没頭した。南下してナポリやシチリアでは、当時欧州の社交界に出没して話題をさらっていた稀代の山師、カリオストロの故郷まで訪ね歩いて母親と面会するという奇行を演じたりしている。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
ヨハン・ハインリッヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン『ローマ近郊におけるゲーテの肖像』
(1786-1787、フランクフルト・ゲーテ博物館蔵)

 39歳ですでに高い文名を誇っていたゲーテにとって、足掛け3年にわたる二度の長いイタリアの滞在はワイマール公国での公務や込み入った私生活の軛から自分を解き放ったばかりでなく、眷恋けんれんの南国の地をようやく訪れ、その美と歴史の根幹に触れて精神と感覚を揺さぶられる経験を繰り返した。それは後年、27歳の三島のギリシャ・ローマへの旅にも通じる、作家としての深甚な〈原体験〉であった。
  1786年11月、フェラーラからローマに足を進めたゲーテは「この地には全世界史が結びついている。そして私はこのローマに足を踏み入れたときから、第二の誕生が、真の再生が始まるのだ」と感動と興奮を隠さない。
 『イタリア紀行』の巻頭に掲げられた「われもまたアルカディアに!」の題辞エピグラフはゲーテが二回目のイタリア紀行の折、ローマで入会した詩歌や学芸の振興を目的とする文化人のクラブの名前から引用されている。1690年に発足したというこの団体の来歴を、ゲーテはこう紹介している。

〈彼らは戸外におもむき、田園風な地区の庭園に出かけた。自然に接近して新鮮な大気の中に文学の本源的な精神を感知するという利益も生じた。彼らはそこで勝手な場所に、或いは芝生に横たわり、或いは建築の破片や石塊の上に腰をおろし、相互に彼らの確信、原則、計画について語り、また詩も朗読したが、この詩において、より高尚な古代の、高貴なトスカナ派の精神を復活させようと務めたのであった。こうした際に一人の人間が狂喜して、ここにわがアルカディアあり!と叫んだ〉(相良守峯訳)

 欲望と不信や退廃が行き交う戦後の日本社会に対置するかたちで、三島は神島という〈アルカディア〉を『潮騒』の舞台に設えて、漁師と海女の若い純愛の物語を構想した。ゲーテの『イタリア紀行』は、その〈楽園〉のあらまほしいモデルを三島に提供したはずである。

 それにしても『仮面の告白』に始まり、敗戦で没落してゆく地主一族の愛憎を主題にした『愛の渇き』(1950年)や、経営する闇金融会社が破綻して自殺した東大生を主人公にした『青の時代』(同)など、戦後という混沌の時代を主題にした作品で「戦後派アプレゲール」の流行語の渦中にあった三島がなぜ、欲望が渦巻く現実を遠く隔てたメルヘンをここで書いたのだろうか。
 GHQによる占領体制が解かれて1952年に日本は独立を回復する。
 朝鮮戦争の特需という〈僥倖ぎょうこう〉によって、日本経済は戦後の荒廃から脱出し、復興をから成長への軌道に乗った。
 冷戦体制が固まるなかで日米安保体制が強まり、国論は二分されたが、保守合同によって国内政治は〈豊かな時代〉へ向けた成長の坂へ舵を切る。
 国民の多くは〈高度経済成長〉の足音に耳をそばだてながら、〈明日〉への予兆に彩られた日々に身を任せたのである。

〈私の中の二十五年を考えると、その空虚さに今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通り過ぎたのだ〉

 『潮騒』を書いてから16年後の1970年の晩秋、自衛隊市谷駐屯地で割腹自決する三島はその4か月前に新聞に書いた「私の中の二十五年」と題するエッセイで、戦後の四半世紀を振り返ってこのようにしたためている。自身が歩んできた〈戦後〉という時代への決算である。
 「鼻をつまみながら通り過ぎた」という作家の〈戦後〉に対する回想は、おそらくその現実が物質的な繁栄のもたらす精神の空洞と人間の衰弱が放つ腐臭にあふれていた、という認識によるものであろう。
 つまり、彼はかりそめの平和と豊かな社会へ向かう〈戦後〉には顔を背けて生きた、というのだ。そしてその彼岸に楽園アルカディアを構想した『潮騒』という寓話は、もっとも純化された〈戦後〉に対する三島の反語であった。
 それは果たして彼の肉声であったのだろうか。それ以降の〈作家・三島由紀夫〉が文壇はもちろん、演劇や映画の制作や出演、ボディービルによる〈肉体改造〉などでマスメディアの寵児となり、東京・馬込に新築した白亜の豪邸に各界の貴顕淑女を招いた華やかな社交の中心にあって、自信に満ちた哄笑を振りまく時代の偶像であったことは誰もが知るところである。
 翻訳された作品は欧米など海外でも評価が高まり、1965(昭和40)年にはノーベル文学賞の有力候補に名前が挙がるのだから、戦後の腐臭から「鼻をつまみながら通り過ぎた」という自己認識と、現実の三島の水を得たような振る舞いとの乖離はいかにも過大である。輝きに満ちた時代の〈寵児〉として生きた自身の記憶にも、彼は鼻をつまんで通り過ぎたのだろうか。
 繁栄がもたらした腐臭が広がる〈戦後〉の現実と〈楽園〉の寓話的世界を均衡させることで調和を保ってきた作家の内部世界が、おそらく『潮騒』の成功を境目にしてどこかで破綻したのである。それはどの時点であり、何がその均衡を打ち破ったのか。

 『潮騒』が刊行された1954(昭和29)年に、三島は「ワットオの〝シテエルへの船出〟」と題した美術評論を雑誌『芸術新潮』に執筆している。
 実質20年余りのあいだに小説、戯曲、評論、エッセイなどあまたの著述を残した三島にとって、ほとんど稀有といえる本格的な美術評論である。
 ワットオとは18世紀のフランスの画家、ジャン=アントワーヌ・ヴァトーのことで、その優雅でどこかに倦怠アンニュイが漂う貴族たちの社交空間を描いた作品はロココ時代が放つ最後の輝きを伝えて華やかであり、同時にそこはかとない憂愁をたたえている。
 三島が取り上げているのは、そうした雅宴図(フェート・ギャラント)の代表作といわれる『シテール島への船出』と題された作品である。

〈この「シテエルへの船出」にも、描かれているのはいつもの同じ黄昏、同じ樹下のつどい、同じ絹の煌めき、同じ音楽、同じ恋歌でありながら、そこにはおそろしいほど予感と不安が欠け、世界は必ず崩壊の一歩手前で止まり、そこで軽やかに安らうているのである〉

 小高い丘の上の木陰から半裸のヴィーナスが見守る中で、典雅な装いをこらした8組の男女が寄り添い、語らい、或いは手を取り合いながら歩いてゆく。周囲には春先の霞のような大気が漂っていて、その空にはキューピッドが舞っている。彼らは画面の奥の船着き場へ向かっているのだが、うっすらと広がる靄のような空気が見晴らしを遮っていて、定かには見えない。
 それは気まぐれな春の陽気がもたらした眺めという以上に、もっと深いこの時代の表徴のようにも見る者には映る。すなわち、明日の日にどのような瓦解や崩落があろうとも、なんの疑念も幻滅もなく人々が優雅な恋の戯れにいそしみ、官能の花が揺蕩たゆたう、18世紀のロココの時代精神である。

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ジャン・アントワーヌ・ヴァトー『シテール島への船出』
(1717年、油彩・カンバス、パリ・ルーヴル美術館蔵)

〈決して終わらない音楽、決して幻滅を知らない恋慕、この同じような二つのものは、前者が音楽の中にしか存在せず、音楽そのものによってしか成就されないように、後者も情念の或る瞬間にしか存在せず、その瞬間の架空の無限のなかにしか成就されない。こういうものが、ワットオのえがいたロココの快楽であり、又快楽の法則だったように思われる〉

  フランスのロココ時代はルイ14世の治世の晩期から18世紀後葉の〈革命前夜〉にわたる時期に相当する。華麗で優美な曲線に彩られた建築や装飾に象徴されるロココの時代の社交空間は、同時に怪しい投機システムを財政改革に持ち込んで失敗したバブル経済の元祖のジョン・ローや、稀代の色事師として今日伝わるカザノヴァのような人物が、その歴史上の役回りとして記憶されている。砲声や流血に洗われる革命の気配はまだ遠い。ブルボン王朝にあらわれた貴族たちが、気品と優雅を競って最後の花を咲かせた旧体制の〈楽園〉の時代は、かたわらでこうした暗躍する山師や成金たちの野心と陰謀が渦巻く、むき出しの欲望の社会と背中合わせでもあった。

 一触即発の冷戦世界という現実を背負いながら、のどかな一国的平和とその果実を手にした日本の〈戦後〉の彼方に、三島はロココ的な世界を夢見ていたのだろうか。彼が『潮騒』と前後しながら書き継いだ『青の時代』や『金閣寺』、『絹と明察』や『宴のあと』などの小説は、戦後の日本で実際に起きた事件をモデルにして描かれた。東大生による金融犯罪や国宝への放火事件、労働争議のなかに父性原理を持ち込む日本型経営者、理想を掲げた政治家の選挙を支える料亭の女主人の恋の顛末など、どれもが〈戦後〉の現実の混沌を作家のまなざしでとらえて造形した作品である。
 こうした現実の向こう側に三島が見立てた〈ロココ的世界〉は、浪漫主義的な気質が加わって彼を「彼岸」へ駆り立てた挙句の夢想であったのか。

〈黄金の靄の彼方に横たわる島には(ワットオを愛する者なら断言できるが)、おそらく幻滅やさめはてた恋の怨嗟は住んではいず、破滅の前にこの小世界をつなぎとめた鞏固な力が、おそらくその源を汲む不可思議な泉の喜悦が住まい、確実なことは、その島に在るあるものが「秩序と美、豪奢、静けさ、はた快楽」の他のものではない、ということである〉

 やがて三島は戦後の〈楽園〉の夢想から覚醒してもう一つの「シテール」へ漕ぎ出す。行き着くところが若い同志たちとともに乗りこんで自衛隊員に〈蹶起〉を呼びかけ、失敗して割腹自決を遂げた東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部のバルコニーである。もう一つの「シテール」への歩みは、彼の〈蹶起〉へ転じる分岐点の謎を通して、のちに改めてたどろう。

 彼が〈戦後〉から離脱して、新たな「シテール」へ漕ぎ出す転換点を考える時代の暗喩として、ここでとりあげるのは『鹿鳴館』という戯曲である。
 『潮騒』から二年後の1958(昭和31)年、雑誌『文学界』に発表されたこの作品はタイトルが示す通り、条約改正や欧化政策とそれに対する国粋主義の台頭で揺れる鹿鳴館時代を舞台にした、外見はメロドラマのようなお芝居である。劇団文学座が創立20周年を記念して三島に委嘱した作品で、同じ年に東京の第一生命ホールで初演された。主人公のヒロイン、朝子を杉村春子、その夫の影山伯爵を中村伸郎が演じ、松浦竹夫が演出している。
 研ぎ澄まされた台詞の衝突による緊張と、華やいだ夜会の弛緩が心地よいリズムを作り、あでやかな衣装の演者が行き交う舞台は視覚的な構築性にも優れて大きな評価を得た。三島の戯曲のなかでも完成度の高い作品で、近年では浅利慶太の演出で劇団四季が公演を重ねたことから、日本の近代史を彩ったあでやかな物語の輪郭は、よく知られているところである。

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『鹿鳴館』劇団四季公演(浅利慶太演出、2007年)より
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◆同上 2007年、浜松町・自由劇場


 主人公の朝子は新橋の名妓であったが、明治政府の閣僚の伯爵、影山悠敏に嫁いだ。明治19年11月3日、日比谷の鹿鳴館で天長節夜会が予定されており、夫の影山は各国の外交官をはじめ貴顕淑女を招いた宴の主人を務めるが、朝子はデコルテの洋装で着飾った貴婦人たちが居並ぶ夜会に決して出ようとしない。それが江戸文化の粋を纏った朝子の誇りだからである。ところが芸妓時代に反政府派の自由党を率いる清原との間に生した息子の久雄が壮士を率いて夜会を襲撃し、影山の暗殺をたくらんでいることを知って、彼女はその信念を変える。夫を守るためではなく、ほほえましい恋を育む息子を一党から引き離すために、初めて洋装で夜会に臨むという‥‥。

〈何もかも薩長の藩閥政府になってからだめになったのです。かつてパークス公使の恫喝に屈していた時代へ逆戻りしたのです。今鹿鳴館に招かれている外国人のうちで、誰が政府の期待するように、文明開化の日本を見直して尊敬していると思います。彼らはみんな腹の中で笑っているのです。あざ笑っておるのです。貴婦人方を芸妓同様に思い、あのダンスを猿の踊りだとみています〉

 清原は久々に再会した朝子に向かって、そう言う。
 優雅なワルツの旋律に合わせて着飾った男女がステップを踏む夜会の内実は、欧米への阿諛あゆ迎合とそれに反発するナショナリズムがせめぎあい、陰謀とマキャベリズムが火花を散らす修羅の世界である。
 したたかな影山は久雄を挑発して実の父親の清原を暗殺するように仕向けて、夜会が最高潮に達したころ鹿鳴館に一発の銃声が響きわたる‥‥。

〈政治の要諦はこうだ。いいかね。政治には真理というものはない。真理のないということを政治はしっておる。だから政治は真理の模造品を作らねばならんのだ〉

 影山は陰謀をめぐらすにあたって、腹心の飛田天骨にこう諭した。
 ここまでの流れで『鹿鳴館』を読めば、これは理念と現実にわたる〈政治〉の原理を、欧化と国粋の間に揺れた明治日本の一場に探った物語ということで理解が可能だろう。ところがこの政治劇には前提があって、それは夫婦や親子、別れた恋人など、登場者の間に結ばれた「愛」こそがドラマを起動しているということである。清原暗殺を仕掛ける影山を動かしているのは朝子への見返りのない愛であり、それが受け入れられない嫉妬である。自ら禁じていた鹿鳴館の夜会へ朝子が出かけることを決意するのは、かつて清原との間に生したわが子の久雄をテロリストへの罠から救出するためである。
そして、その罠に落ちてゆく久雄と大徳寺侯爵の娘、顕子の幼気いたいけな恋。
 こうした愛の連鎖が〈政治〉を形作るという主題を、三島はこの芝居で描いた。その主題の〈倒錯〉は、ほとんど寸分の狂いもなく成功している。

 すべてが終わって舞踏場に再びワルツの旋律が流れ始めると、影山は朝子に向かってこう語りかける。
「ごらん。いい歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやってくる。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな」
「一寸の我慢でございますね。いつわりの微笑も、いつわりの夜会も、そんなに永つづきはいたしません」
「隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を」
「世界にもこんないつわりの、恥知らずのワルツはありますまい」
「だが私は一生こいつを踊り続けるつもりだよ」
「それでこそ殿さまですわ。それでこそあなたですわ」

 さりとて、作者の三島にとってこれは〈鹿鳴館〉を舞台にして起きる恋と政治がもつれ合った椿事に過ぎず、明治日本の開化の時代を振り返った懐古的な錦絵に過ぎなかったのだろうか。
 このような作者の自註がある。

〈終戦後の占領時代は、ちょっと鹿鳴館時代に似ていた。堀田善衛氏の小説には、GHQと関係のあった貴婦人たちが登場するが、もっとも現代のほうは、階級の没落も伴って卑しげであって、鹿鳴館時代のように、外人に阿諛を呈しながらも、一方新興国家のエネルギーと、古い封建的矜持とをふたつながらそなえていたのとは、くらべものにならない〉

 つまるところ、『潮騒』の2年後に書かれたこの戯曲はピエール・ロチの『秋の日本』や芥川龍之介の『鹿鳴館』が大いなる皮肉を込めて描いた、明治19年11月3日の天長節夜会に場を借りながら、戦後の米国占領下から脱して日米安保体制下で自立と成長への道を探る日本を十分意識しながら書かれた作品と見立てることができるのである。
 ここでも〈楽園〉は彼方にある。
 「こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くしていくんだからな」と自らに言い聞かせて、朝子の手を取ってワルツを踊る燕尾服姿の影山が〈戦後〉という時代だとすれば、江戸の粋と伝統を秘めながらマキャベリストの影山に導かれてステップを踏む朝子こそが、戦後の三島の自画像ということになる。

 1883(明治16)年にお雇い外国人、ジョサイア・コンドルによって東京・日比谷に建設された「鹿鳴館」は1927(昭和2)年まで使用され、1940(昭和15)年に解体された。戦後、「鹿鳴館」は形を成していない。
 三島はこの作品を書いた二年後に結婚して所帯を持ち、東京・馬込にヴィクトリア朝風のコロニアル様式と呼ばれる白亜の邸宅を構えた。ファザードに円形の破風窓が並び、室内は吹き抜けの天井にロココ風の家具調度を設えた広間、庭には大理石のアポロ像が置かれた。
 しばしば彼はここに多数の親しい友人知己を招いた宴席を催し、時には楽団の音曲を伴った舞踏の宴を繰り広げた。山の手の閑静な住宅街の一郭にあらわれたこの異空間は、近隣から「大森鹿鳴館」などと呼ばれた。
 探り続けたアルカディア、〈楽園〉がどうやら形をなしたのである。
                        =この項続く

◆標題図版 ヴァトー『シテール島への船出』(1717年、カンバス、油彩、パリ・ルーヴル美術館蔵) 



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